鴻型水雷艇(おおとりがたすいらいてい)は大日本帝国海軍の水雷艇。同型艇8隻。前型の千鳥型水雷艇は計画当初は20隻の建造を予定しており、1931年(昭和6年)度のマル1計画では要求12隻中4隻の建造が認められた。続く1934年(昭和9年)度のマル2計画では16隻の水雷艇の建造が認められ、軍令部はこの水雷艇に同じ600トン以内に千鳥型を超えた更に過大な要求を行った。つまり速力34ノット(千鳥型は30ノット、以下同)、航続力16ノットで3,000海里(14ノットで3,000海里)、12.7cm砲4門(同3門)魚雷発射管61cm4門(同53cm4門)などである。基本計画番号F47として設計を開始したが友鶴事件の発生により要求を縮小、設計を大幅に改めF47Bとして再設計された。当初は条約制限外の600トン以下とする予定だったが基準排水量は840トンに増大していた。千鳥型では度重なる改善工事で速力が27〜28ノットまで低下したため、本型では速力を30.5ノットに回復させることを目標とした。船体は新しい線図を用いており、千鳥型より全長で6.5m大きくなるなど一回り大きな船体となった。砲は改装後の千鳥型と同じ12cm砲3門だが、新たに十一年式12cm砲(通称M型砲)を採用した。この砲は仰角55度までの射撃が可能で(千鳥型搭載の通称G型砲は仰角33度)、これは上陸作戦での射撃を考慮したと言われている。魚雷は新たに53cm3連装魚雷発射管を開発し1基搭載した。本型の4隻を建造中に更に第四艦隊事件が発生した。1隻は既に進水していたが残りの3隻もとりあえず進水させ改装工事の計画が出来るまで暫く放置されていた。その後工事を再開、残る4隻も起工し1936年(昭和11年)10月から翌年9月までに8隻が竣工した。本型は計画では16隻の建造を予定していたが、残りの艇を建造しても工事の遅延などにより無条約時代(1937年以後)の竣工になることが決定したため8隻で建造は打ち切られ、以後このクラスの水雷艇が建造されることはなかった。もし日本海軍がこれら水雷艇の建造を継続していれば、後の松型駆逐艦と同じ大量生産型の駆逐艦のプロトタイプと成り得た、と指摘する声もある。8隻は竣工後に第1水雷隊と第11水雷隊を編成した。本型は吃水が浅く、運動性もあり、また砲が強力だったため揚子江方面での作戦に適していると考えられた。そのため各艦にはあらかじめ江水濾過装置が備えられていた。竣工後は中国方面での揚子江遡江作戦等の上陸作戦支援、掃海などに従事した。太平洋戦争では緒戦は香港攻略戦やフィリピン攻略戦などを支援、その後は多くが各根拠地隊に所属となり各地で船団護衛や哨戒活動等に従事した。1943年に「鵲」が戦没したのを初めに翌年には5隻が戦没、終戦直前にも「雁」が潜水艦に撃沈され、終戦時に残っていたのは鴻型では「雉」のみだった。大戦中の機銃増備の状況。対潜兵装は「雉」等の場合、八一式爆雷投射機6基、九四式爆雷投射機1基、九三式水中聴音機1基、九四式探信儀1基(水流覆付)を装備した。
出典:wikipedia
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