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高松市の歴史

本項では香川県高松市及びそれに関連する歴史について述べる。__notoc__約3万年前、日本列島は中国大陸と地続きになり、ナウマン象やオオツノシカなどが棲息するナイフの形をした石器が各地で使われる。約2万年前の高松平野周辺では中間西井坪遺跡(中間町)、国分台遺跡(国分寺町)が造られ、高松平野に既に人の活動があったことが確認されている。約1万4千年前には日本列島で細石器が各地で使われ、現在の坂出市で塩飽諸島遺跡群が造られる。約1万3千年前には土器や弓矢が出現し、大池遺跡(木太町)などが造られた。そして約1万年前には海面上昇で、瀬戸内海がほぼ現在の形になる。紀元前4世紀頃には中国大陸から稲刈りや、金属の道具が伝わり、林坊城遺跡(林町)からこの頃の物と思われるクワなどの木製の道具が出土。紀元前3世紀〜紀元前2世紀頃には高松平野の開墾が進み、ほぼ全域に稲作地域が広がる。代表的な遺跡としては、さこ長池遺跡(林町)、天満宮西遺跡(松縄町)、井出東遺跡(松縄町)などがある。紀元前1世紀になると高松平野周辺の丘陵において高地性集落が多く造られ、久米池南遺跡(東山崎町など)、中山田遺跡(池田町)、前田東中村遺跡(前田東町)なとが確認されている。4世紀、前方後円墳が日本全国で造られはじめ、現在の高松市中心部に隣接する「峰山」と呼ばれる岩清尾連山に多数の古墳群、積石塚が造られる。大きなものとしては、鶴尾神社号墳(西春日町)、猫塚古墳(鶴市町)、高松市茶臼山古墳(東山崎町など)がある。他に小さなものも含めるとそれらは峰山を水源とする摺鉢谷川周辺に集中している。当時海岸線は現在の高松市中心部の西端を流れる摺鉢谷川の流域全て、即ち峰山の裾野にあり、人間はそれら海、山に挟まれた平野、後の宮脇町周辺に居住していたと類推される。当時の香東川は峰山の南で2方向に分岐し、後の中央通り当たりにも流れていた。その後開墾は更に東部の香東川の下流域に進み、開墾と漁獲により生活を営んでいた。大坂堺に伝仁徳天皇陵と呼ばれる大仙陵古墳などの巨大な古墳が造られ始めた5世紀頃には、今岡古墳(鬼無町佐料)、女木丸山古墳(女木町)などが確認されている。6世紀、日本に正式に仏教が伝えられた頃、高松平野では横穴式石室が多く造られ、代表的な遺跡として久本古墳(新田町)、南山浦古墳群(西春日町)、神高古墳群(鬼無町山口)、矢野面古墳(三谷町)などが挙げられる。645年(大化元年)大化の改新が行われ、日本書紀によると667年(天智6年)屋島に、山城「屋島ノ城(やしまのき)」が築かれる。そして7世紀後半になると高松平野において下司寺〔下司廃寺(東山崎町)〕、坂田寺〔坂田廃寺(西春日町)〕などの寺院が造られ始める。8世紀初頭、現在の国道にあたる道路南海道が高松平野を横断するように整備され、三谷町付近に三谿駅が造られる。南海道は現在も高松市を包括する高松平野において道路の規則性に色濃く影響を与えている「条里制」の基準にもなった。735年(天平7年)に弘福寺領讃岐国山田郡田図が作られたといわれ、741年(天平13年)讃岐国分寺、国分尼寺(国分寺町国分)が建立される。794年(延暦13年)京都の平安京に都が移った頃、香川県では日本真言宗の開祖である空海が誕生、821年(弘仁12年)に満濃池の修理工事に着手し讃岐の英雄として崇められ、921年(延喜21年)には弘法大師の諡号を与えられる。927年(延長5年)には田村神社(一宮町)が名神大社になる。939年(天慶2年)には藤原純友の乱がおこり、香川県では讃岐国府(坂出市)が炎上する。1156年(保元元年)の保元の乱では崇徳上皇が讃岐に流され、1168年(仁安3年)に西行が白峰崇徳院陵に詣でる。高松という地名が初めて歴史上に現れるのはこの時代に作られた「和名類聚鈔」に「多加津(たかつ)の郷」とあるのが最初である。地名の由来としては諸説あるが定かではない。主なものとして、「高松郷の辺りに天を突くような、大きく高い松があったから」などである。ここで書かれている高松はいずれも現在の古高松地区を指しており、高松城命名の際、当時の高松郷を「古高松」とした記録があるとされる(高松市史)また、高松市高松町の「永の谷公園」には松があったとする碑がある。その後生駒親正が篦原(のはらの)庄に建てた城を高松城と呼ぶようになり、やがて城下町全体、そして現在に至る市名に使われるようになった。その頃、現在の高松城周辺は小さな漁村であったと長らく考えられていたが、近年の高松港再開発に伴う発掘調査により、11世紀ごろには交易が行われる港町が開かれ、また無量寿院の門前町として繁栄していたことが分かっている。1362年(貞治元年) - 中臣鎌足の次男・藤原不比等の後裔である二川次郎から4代目にあたる二川四郎左衛門光吉が、讃岐国守護職細川頼之に従い、讃岐国香川郡井原荘龍満に移住した。そして、その地に龍満城(香川県香川郡香川町。現在・同県高松市)を築城する。1588年、前年に豊臣秀吉より讃岐国を与えられた生駒親正が香東郡篦原(のはらの)庄に高松郷から名前をとった「高松城」とその城下町を築く。1640年、生駒騒動といわれるお家騒動が起こり、生駒家は讃岐一国を召し上げられ出羽国(秋田県)矢島に移された。以後1642年には、当時常陸国下館藩(現在の茨城県筑西市)主だった松平頼重が東讃岐を与えられ高松城に入城する。その後高松城下町は次第に広がり明治維新までには、ほぼ現在の旧市内にまで広がった。明治時代には混乱の中香川県が成立し、1890年(明治23年)2月15日には高松が市制施行し高松市が成立した。その後日清戦争や日露戦争などの戦争も多発した中、電灯の開通や、高松丸亀間に初の鉄道の開通、高松港の第一期改修が行われたりと現代高松の基礎が造られた時代であった。1871年12月26日(明治4年11月15日)、廃藩置県により香川県が成立し高松はその県庁所在地になったが、2年後の1873年(明治6年)2月20日には名東県(現在の徳島県)に吸収合併され香川県と共に高松の県庁所在地としての地位は消滅した。更に2年後の1875年(明治8年)9月5日には再び香川県は独立し、高松は再び県庁所在地になったが翌1876年(明治9年)8月21日には再度、今度は愛媛県に吸収合併された。しかし、それも風土や文化の違いから分離独立運動が激しく起こった為長続きせず、1888年(明治21年)12月3日には現在の香川県が成立した。17年の間に4度も合併と分離を繰り返した挙句、全国で最後に成立した県となった。このことを揶揄した「名東(夫婦)別れて愛媛に身売り香川は再び里帰り」という俗語も生まれた。この県の存在を巡る混乱は県庁所在地の高松にとって、その後の発展に非常に大きな影響を与えることになる。そもそも江戸時代、藩の所在地では武士などの富裕層がその街の経済における潤沢な消費者であった。その後、版籍奉還とともに武士などの富裕層はその多くが没落して、以後は彼らに代わって軍人や官吏などがその役目を負うことになる。全国の県庁所在地の多くは旧藩庁所在地であったため、この頃になると既に他の県庁所在地は軍人や官吏などの富裕層が多く育ち、武士に代わって引き続き街の経済を繁栄させていた。しかし、同時期の高松は県庁の存在さえもいつまた消滅するかもわからない不安定なものであったほか、軍隊も丸亀へ設置(歩兵第12連隊)されたために街の消費を支える富裕層が決定的に不足していた。県を巡る大混乱が17年間も続いた香川県は結果的に他県に比べてその県庁所在地の発展が大きく出遅れることになる。しかし、その後宇高連絡船の就航で四国の玄関として発展したり、戦後はその影響で四国地方を統括する企業や物流の中心都市としての地位を確立し、さらに国の出先機関のほとんどが置かれるなど四国の行政都市としても発展することになる(→行政都市の確立)。明治維新を経て成立した日本の新政府は、それまでの幕藩体制の影響が根強く残る地方の権力を弱体化させて強力な中央集権体制を確立させようとしていた。その地方統治機構としてまず1872年11月10日(明治5年10月10日)に大区小区制が施行され、各府県下に大区、その下に小区が設置される。この大区の名称は数字であり、なおかつ府県単位であったために香川県のように合併・分離を繰り返す県の場合、度々名称が変わった。名東県と合併した1873年(明治6年)には高松は第18大区に属した。1878年(明治11年)7月22日、大区小区制に替わって地方三新法として郡区町村編制法が成立し、大都市とそれに準ずる都市には区、それ以外には大区小区制の中では名目上の存在に過ぎなかった郡を設置し、高松は香川郡に属してその郡役所が置かれた。そして、その郡区町村編制法に替わる制度として1888年(明治21年)4月17日、市制の制度が定められた。この制度が開始された当初から高松は人口要件など市制の条件を満たし全国40都市と共に内務省から指定されていたが、1889年(明治22年)4月1日に最初に市制を敷いた31都市中に高松は含まれていなかった。そのころこの地域の行政といえば香川県成立直後の混乱期であり、関係者の調整・協議が整わないまま最初の制度施行には間に合わなかったという経緯がある。最初の制度施行から8ヵ月後の同年12月26日には全国20府県の知事とともに初代香川県知事林董が更迭され新知事柴原和が赴任。内務大臣に対する市制施行の願いをこの新知事に上申し、新知事就任から2日後の12月28日、香川県下町村の町村制とともに高松の市制施行の予定日が決定し、その旨布達があった。翌1890年(明治23年)2月15日、高松は市制を施行し高松市が成立する。最初の市制の制度施行から遅れることおよそ1年、中国四国地方では最も遅く全国で40番目の市となった。初代市役所は北古馬場町の福善寺を間借りしての開庁となった。市制施行当時の人口は3万3546人、戸数は6356戸、面積は2.58km。市制施行に際して高松市となった町・村市制に際して高松市の一部となった東浜村と中ノ村の各一部はしばらくは正式な町名が与えられず、通称地名である十番長屋、瓦焼、樋ノ上と呼ばれていた。その後、1914年(大正3年)にそれぞれ八坂町、南瓦町(現・常磐町二丁目付近)、東田町という正式町名が与えられた。日本が第一次世界大戦に参戦する中、1914年(大正3年)高松市初の合併となる宮脇村との合併(第一次合併)が行われ、1921年(大正10年)には東浜村(第二次合併)、栗林村(第三次合併)との合併が実現し、この時点での市域は現在の高松の中心市街地の範囲と一致しているため、その後この地域は「旧市内」と呼ばれるようになった。また、1918年(大正7年)に全国で起こった米騒動の余波は高松にも飛び火し、その後1924年(大正13年)香川県最大の小作争議である「伏石事件」にまで発展した。高松市が市制を施行して以降、最初に市域を広げるべく合併を模索したのは市と隣接する香川郡宮脇村であった。宮脇村には江戸時代から高松の産土神として歴代藩主や、市民から篤く信仰されてきた石清尾八幡宮のほか、有名な寺院・学校などがあり、高松市とは縁深い関係にあった。そのため本来高松市が市制を施行すると同時に合併されるはずであったが、当時の事情によってそれは実現せず、20年以上も放置されていた。それは当時の高松市がまだ発展途上にあり、市も山積する課題の中、市域を広げるという事案にまで立ち至っていなかったからと言われている。しかし明治時代末期、高松市側はようやく市域の狭さを感じ、市域を広げるべく地理的に最も都合の良かった香川郡宮脇村を合併する案が浮上してきた。宮脇村側でも過去から日常生活で繋がりの深い高松市との合併を望む声が大勢を占めた。1914年(大正3年)4月、当時の香川県知事、川村竹治が合併の斡旋に乗り出したため、高松市と宮脇村の協議は急進展することになった。そして1914年4月30日宮脇村を香川郡から分離し閉村、5月1日を以ってその地域を高松市に編入(合併)する事となった。高松市に編入された旧宮脇村地区には新たに宮脇町と西浜新町の2つの町名が割り振られたが、1930年(昭和5年)4月1日には宮脇町の東部の一部を九番丁と十番丁に、西浜新町の東北部の一部を幸町と昭和町にそれぞれ分割した。第1次合併に先立つ約8年前、ちょうど日本が日露戦争の戦勝祝賀に沸いていた1906年(明治39年)、かねてから高松市の将来構想を練っていた当時の香川県知事、小野田元熈はこの時期にこそ隣接村の統合を図る絶好のきっかけであると考え、手始めに香川郡栗林村と東浜村の内意を探るため諮問案を作り両村に送った。それを受け取った栗林村、東浜村は両村とも合併に対し時期尚早であるという意見が強く、諮問案に対し合併に反対することを答申した。そのようなことでこの時は合併される側である、栗林村と東浜村の反発でこの合併は立ち消えすることとなった。それから10年後の1915年(大正4年)、当時の香川県知事、若林賚蔵は東浜村と高松市に対し合併促進の再諮問を行った。そして東浜村は村会を開き諮問案を審議した結果、税金、道路改修など6件の希望条件つきで合併に賛成することを決定し、この意向を県に答申した。一方の高松市は東浜村の答申を踏まえたこの事案を市会に諮ったところ、東浜村の合併条件を不当であるとしこの受け入れを強く拒んだ。このときも今度は高松市の反発で東浜村と高松市の合併は不成立に終わった。それからさらに5年後の1920年(大正9年)3月4日、当時の香川県知事、佐竹義文は三度東浜村に合併諮問案を提示した。これは幾分圧力的なものであった。それを受け、東浜村は村会を開き審議した結果、合併希望条件として、松島-沖松島に新しく道路を造ること、合併区域を高松市の水道工事第一期施工地域に繰り入れること、などの意見書を付け満場一致で賛成し県知事へ答申した。これに対し高松市側も市会を開いて審議した結果、合併承認に大勢が占めた。東浜村、高松市とも合併準備のための県の議決を経て構想から15年経った翌1921年(大正10年)1月1日を以って東浜村を高松市に編入した。合併に伴い旧東浜村の区域には、新たに福岡町、松嶋町、鹽上町、花園町の4つの町ができた。1906年(明治39年)香川郡栗林村は県から隣接する東浜村と共に合併に関する諮問を受けたが、栗林村会は合併に対し時期尚早であり、合併に反対するという答申を県に申し入れた。そのため東浜村と共に高松市への合併は立ち消えとなった。しかし15年後の1921年(大正10年)1月東浜村が高松市に合併(第2次合併参照)したことは栗林村を少なからず刺激し、村の世論も合併論に傾いた。そのような中、東浜村の合併を成功させた県知事佐竹は栗林村にも合併再諮問案を送った。そのため栗林村は村会を開き諮問案を検討した結果、全員異議無く合併を承認し、県へ答申した。一方の高松市も天下の名勝といわれた栗林公園が高松市になると沸き立ち、これも満場一致で賛成し県へ伝えた。そうして東浜村の合併から10箇月後の1921年(大正10年)11月1日、栗林村は高松市に合併された。この合併で旧栗林村の地域は、栗林町、藤塚町、中野町、上之町、櫻町、楠上町、花宮町が新たに設けられた。昭和に入り、1928年(昭和3年)高松市主催の全国産業博覧会の開催や、1934年(昭和9年)瀬戸内海国立公園の指定、1940年(昭和15年)高松市と周辺5町村との合併(第4次合併)などで高松市の規模は拡大した。その一方で1931年(昭和6年)の満州事変に始まる日本の戦争色は更に濃くなっていった。高松でも次第に言論統制が強められていき、1933年(昭和8年)には左翼主義者が一斉に検挙される「高松八・三・三事件」が起こった。1941年(昭和16年)、日本は第二次世界大戦に参戦し、太平洋戦争が起こる。1945年(昭和20年)7月4日、米軍による本土攻撃が激しさを増す中、戦禍は高松にも襲来。「高松空襲」では市域の80%が消失し、それまでの歴史や発展の積み重ねは一晩で消滅した。終戦後、高松は復興し1956年(昭和31年)の周辺15町村との合併(第5次合併)、1966年(昭和41年)の山田町との合併(第6次合併)で高松市の市域は大幅に拡大する。1973年(昭和48年)には「高松砂漠」と呼ばれる大渇水が発生(この時、井戸水をめぐって殺人事件まで発展した)したが、翌1974年(昭和49年)には香川用水が完成し、歴史的に高松の課題であった渇水被害は少なくなった。1955年(昭和30年)の「紫雲丸事故」ではその後の瀬戸大橋建設の気運を高めた。1988年(昭和63年)坂出市に瀬戸大橋は完成し、より安全に本州に渡れるようになり、本州との交流も多くなったが、その一方でそれまで四国の玄関口として発展してきた港町高松は瀬戸大橋開通をピークに、その後のバブル崩壊も相まって成長のペースをゆるめることとなる。この合併は木田郡屋島町、古髙松村、木太村、香川郡太田村、鷺田村の5町を同時に合併するというこれまで高松市が経験したことの無い大規模なものであった。そのため受け入れる側の高松市を始め関係1市5町村は特に慎重な態度で協議に臨んだ。1938年(昭和13年)10月28日それまで個別に打ち合わせをしてきた関係町村の代表者が高松市役所に集まり、第一回合併協議会を開いた。それ以降翌1939年(昭和14年)11月まで10数回の合併協議会を重ねた末、市と町村側の意見が概ねまとまったため、1939年(昭和14年)12月27日に当時の香川県知事、藤岡長敏は関係市町村に対し合併諮問案を送った。合併諮問案を受け取った各市町村は1940年(昭和15年)1月8日それぞれ市町村会を開いて合併を承認する答申の手続きを行い、県会も1月23日の会議で合併に基づく境界変更を議決、県知事から内務大臣、小原直へ合併の許可を願い出た。1940年(昭和15年)1月26日付けで内務大臣(小原が更迭され児玉秀雄)から許可書が届き、2月4日付の県令第85号を以って5町村の高松市への合併を告示した。そして紀元節である1940年(昭和15年)2月11日、1市5町村の合併が実現した。当時の香川新報の見出しには「榮光永遠に輝き歡喜に脈打つ大高松」とあり、当時のこの合併に懸ける期待がいかに大きかったかわかる。旧町村の地域には以下の町名が設定された。高松市の第4次合併で新たに設けられた町名のうち、東ハゼ町と西ハゼ町は当初この地区の字名である「櫨(はぜ)」の漢字が当てられる予定であったが、難読であるが故、既に地元でもカタカナ書きでの代用が日常化していた為、7か月間検討した末1940年(昭和15年)9月15日にカタカナでの表示が公示された。全国でも初めての試みであるカタカナ書きの町名は当時の高松市長、冨家政市の判断が大きかった。戦後、太平洋戦争に敗戦した日本は連合国総司令部(GHQ)の統治下に入ることにより、それまでの大日本帝国施政下の統治システムは順次解体された。そして、7年間のGHQ統治時代を経て1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ条約の発効により再び独立国となった日本は、新たな国の統治システムとして地方自治体は中央とは独立した個別の団体としてその業務を執行し、中央官庁は地方のブロックごとに出先機関を設置して管内業務を掌握することとした。四国地方では高松市にその出先機関のほとんどが置かれることにより、以後高松市は四国地方の政治・経済の中心都市としての地位を確立することになる。この他にも四国電力本社の誘致に成功したり、都市銀行の支店設置などが多く行われ、この時期から高松市は四国地方の政治・経済の中心都市として中枢性を高めていった。1945年(昭和20年)7月4日の高松空襲では市街地の約80%が消失。高松市は戦災復興計画を立てるが、戦災後10年間の市街地の急発展は市民の生活圏を高松市の行政圏外へ追いやり、市は市勢の急激な伸びに追いついていない市域の壁を感じていた。復興計画を円滑に進めるには周辺町村の合併が必要不可欠であった。世論においても、合理的な市政の運営と市民生活のゆとりを図るため周辺町村を合併する必要があると認識されて始めていた。また当時高松市は四国の玄関口として特殊な立地条件にあるが、人口は15万人にも満たず、四国の主要都市の中で人口、面積共に最下位であった。前回の合併からも15年近くが経っていたため、この際周辺町村を合併して市域を広げ、名実ともに「四国の玄関」としての高松市を建設するという知識層の思惑などもあったが、それまで合併が実現することは無かった。しかし1953年(昭和28年)9月1日に公布された市町村合併促進法(いわゆる昭和の大合併)はそれまでの合併構想について公にしてこなかった市の合併への有力な足がかりとなり、1954年(昭和29年)1月9日に高松市役所で開かれた高松地区伝染病院組合協議会の席上、当時の高松市長、國東照太は初めてこの合併問題について言及した。それから高松市を取り巻く周辺町村の協議が行われ、合併促進法や世論の動きなどからこの合併は時間の問題であると思われ始めていた。その後高松市議会は改選され、改選後の市議会は國東の合併議案の再提案を審議し、独立機関である行政調査特別委員会を設置、合併構想を計画し、先進都市の視察や、世論調査などから合併が適切であるとの結論に達した。そうして合併案は急速に前進し、1956年(昭和31年)4月18日には合併に関する協定事項の成案が決められた。その後も市は関係町村との協議を重ねた結果、1956年(昭和31年)7月28日に前田村、川添村、林村、三谷村と、8月31日までには15町村全ての合併調印を終えた。9月7日には高松市と15町村がそれぞれ一斉に議会を招集し、以って合併認可までの全ての手続きを終了した。高松市と関係15町村の合併申請は県、県議会を経て、自治庁の認可を受け、その法的手続きを終えた日から起算して23日目の1956年(昭和31年)9月30日、1市15町村からなる高松市の昭和の大合併が実現した。15町村の編入という合併は他に類を見ない非常に大規模なものであり、現在に至るまで中国・四国地方ではこの3年前に合併した鳥取市の例しか存在しない。この合併の際、前回の第4次合併で廃止された各旧町村とともに旧町村域をもってそれぞれ高松市の出先機関である出張所が設置され、またそれぞれ高松市の地区として一般にも認識されるようになった。1960年代には昭和の大合併で編入された地域の多くで旧町村から引き継がれた中学校が新設統合されたが、校舎建設が間に合わず、1年ほどは前身の中学校を新設校の教場としていた。旧町村の地域には以下の町名が設定された。もともとこの地区、香川郡香川町寺井地区は香川郡大野郷に属し、寺井村という独立した村だった。それが1890年(明治23年)2月に近代村制を施行するにあたり、隣接する大野村と合併し大野村大字寺井となった。それから65年後、高松市の第五次合併のおよそ1年前に大野村は隣接する浅野村、川東村と合併し香川町が新設された。しかし合併後の寺井地区は香川町の中心部からかなり離れた北部に位置することになり、公共施設、交通機関をはじめ日常生活における繋がりは隣接する一宮村との方が密であった。そのような事情から一宮村の高松市合併論が確実視され始めたのを機に、この寺井地区を香川町から分離し一宮村へ合併する運動が起った。そして香川町議会は寺井地区の一部0.68km²、105世帯の香川町からの分離を認め、1956年(昭和31年)9月5日この寺井地区の一部が一宮村へ編入された。高松市第五次合併で一宮村が高松市と合併する25日前であった。寺井地区の一部が一宮村へ編入され、一宮村が高松市に合併された後、香川町に残された寺井地区で再び香川町からの分離運動が起った。この時の住民運動は賛成派と反対派双方の激しい対立で、板挟みとなった合併推進委員夫妻が自殺にまで至るという壮絶なものであった。香川町側はこの事態に収拾をつけられず、1958年(昭和33年)4月1日その希望地区0.36km²、68世帯だけを再分割し高松市に編入させた。これより先に一宮村を合併した高松市は、旧寺井地区に寺井町を新設していたので、後に受け入れた香川町寺井地区もこの寺井町へ組み入れられた。高松市と隣接する山田町は1953年(昭和28年)9月1日に公布された市町村合併促進法、いわゆる昭和の大合併を受けて1955年(昭和30年)4月1日に木田郡川島町・十河村・東植田村・西植田村の1町3村が合併して発足した。その後次第に生活圏を共有する高松市との交流は密になり、高松市との合併案が浮上し始めた。また、山田町には豊富な天然資源があるものの町の財政力では限界があり、その恩恵を受けたい高松市との思惑ともあいまった為、速やかに合併に持っていく必要があるとされた。人口の面においても山田町発足時には1万7183人であった人口は10年後の1965年(昭和40年)には1万4272人に減少、元々人口の少ないこの地域で10年の間に2911人も減少したことは特に学校教育に影を落とし、過疎化が問題視されていた。それを受けて町でも町建設委員会を設置し非公式で過疎化に始まる町の諸問題を研究していた。同じく高松市水道局でも町内にある四箇池の余剰水を高松市の飲料水に当てるべく、四箇池土地改良区との交渉を始めていた。1964年(昭和39年)1月16日高松市と山田町の首脳部が会談し合併意見について交換、双方とも10名の委員を申し合わせた。10月2日には高松市役所で第一回高松市山田町合併促進研究会が開催され、会則の審議と会長・高松市長國東照太、副会長・高松市助役山口武男、山田町長赤松彰を選出、その後10月9日に高松市側から委員を14名に増員したい旨の申し入れがあり、双方の委員が14名に増員された。1965年(昭和40年)6月14日の第三回合併促進協議会では特例法に基づいた合併協議会へ切り替えるべく市、町の臨時議会を招集し合併協議会規約を議決する申し合わせをし、8月2日に県知事宛に「合併協議会の設置届」を提出、12月15日には高松市役所第六会議室で合併協議会開催にこぎつけた。協議会会長は國東高松市長、副会長は山口高松市助役、赤松山田町長が選任された。翌年1966年(昭和41年)2月8日市役所で開かれた市、町の理事会で、同年度事業予算を打ち合わせ、3月10日に市役所で合併に向けたロードマップを設定、3月中に財産目録の調製、4月中に建設計画の審議、5月に市、町議会で合併を決議し、6月県議会での承認を求めることで一致した。4月25日に高松市役所で開催された合併協議会で合併の期日を決定、建設計画、合併協定書などを承認し、1966年(昭和41年)7月1日山田町を高松市に合併した。高松市にとって昭和最後の合併であった。有史以降一貫して増加してきた高松の人口は他の地方都市と同様増加ペースはゆるやかになった。平成に入ってからは1989年(平成元年)の新高松空港の開港や、四国横断自動車道の高松順延などのインフラが整備された。これらを含めた交通機関の発達は大都市への所要時間を短縮させ、高松にあった支店・支社の閉鎖や他都市への統合によるストロー現象が始まった。しかしながら高松市にはまだ四国を統轄する機関が多くあり、「サンポート高松」や「丸亀町商店街再開発事業」など大規模再開発で高松の中核管理機能を確固たるものにしようとしている。1994年(平成6年)7月、前年の冷夏長雨とは打って変わって少雨猛暑が続き、早明浦ダムが貯水率0%になった。このため高松は19年ぶりの大渇水に見舞われた。県内全域で夜間断水や時間給水に見舞われ、高松市内も午後3時から9時までの時間給水となり、市民生活に多大な影響を及ぼした。その後もほぼ毎年のように渇水問題は続いている。今のところ1994年(平成6年)の状態にまで至ったケースはないものの、2005年(平成17年)8月19日と9月1日に貯水率0%となったが発電用の貯水を緊急放流することが決まり断水を回避することができた(9月6日に台風14号による大雨で満水まで回復)。2008年8月31日にも貯水率0%となり、同様の対応がおこなわれた。三豊市に大規模な調整池・宝山湖(ほうざんこ)を建設し、2009年(平成21年)完成・供給開始した。2013年(平成25年)の渇水時に香川用水への送水が実施され、水不足を補った。当時の報道で、満水状態の宝山湖で対応できるのは「1ヶ月弱」とされている。1998年(平成10年)9月22日午後一時すぎ和歌山県に上陸して近畿地方を進んだ台風7号の暴風域に入り、高松市では、昭和16年の観測を初めて2番目の記録となる時間雨量66㎜を記録した。アメダスの解析雨量では、十一時までの一時間に牟礼町付近で約100㎜の降雨があったとみられ、記録的短時間大雨情報を発表した。高松市内を中心に床上・床下浸水が1160棟となり、国道など33カ所が冠水して通行止めとなった。丸亀町のアーケード街にも水があふれた。琴電は、午前十時半から志度、琴平、長尾の三線とも全区間で運転を休止、志度線は線路の冠水のため午後七時四十分まで運休が続いた。JRは、高徳線で正午から約五時間全区間の運転を見合わせた。高松自動車道のさぬき三木-津田東間が午前十時から午後四時まで全面通行止め。中央通りなど国道、大内町の県道など33カ所が通行止めとなった。2004年(平成16年)8月30日から8月31日にかけて九州・中国地方を通過した台風16号は高松港と宇野港で過去最高の潮位を記録し、高松市では2人の死者、延べ1万5645棟、980haが浸水、浸水による電気ショートで6件の建物火災、24件の車両火災が発生し、1億1000万円の被害を出すという未曾有の高潮被害をもたらした。高松港では22時42分に観測史上最高潮位TP+246cmを記録。この台風によって、高松での最大瞬間風速は8月31日1時の15.5m/s、降水量は47.5mmであるから、風雨は特筆すべき物ではない。被害のほとんどは高潮によるものである。最低海面気圧が978.1hPaを記録し、ちょうどこの時期が大潮の時期であったこと、また満潮の時間が重なったことで、被害が大きくなった。8月30日16時45分高松地域に大雨洪水警報が発表。21時30分頃から高松市の屋島地区から中心部、下笠居地区にかけて住宅の浸水や道路冠水が発生し、22時10分から床上浸水が始まる。その後22時から22時40分にかけて被害の想定される地域に相次いで避難勧告が発令されたが、この時、後に最悪の被害を出すことになった福岡町や松島町周辺には避難勧告が発令されなかった。避難勧告の出された瀬戸内町では指定避難場所の日新小学校が浸水したため、自宅の二階や付近の店舗などに待機する住民が続出した。同じ頃海水が逆流し水位が上昇した詰田川沿いの木太町では自主避難をする住民もいた。浸水は一部の地区を除き8月31日1時30分頃までには解消に向かっていたが、福岡町など一部の地域では9月1日未明まで冠水したままであり、ゴムボートが出動し自動車が立ち往生したりマンホールから水が噴出す光景がローカルニュースなどで伝えられた。この台風で高松市内では2人の死者が出た。1人は一人暮らしの83歳の女性で、就寝中に床上20cmまで浸水し溺死した。もう1人は扇町のJR予讃線の下を通過する市道で、浸水したアンダーパスに進入した自動車に乗っていた37歳の男性が溺死した。海水が浸かり塩分の付着によって漏電したことによる建物火災が6件、同じ理由によるショートで発生した車両火災が24件あった。深いところでは人の腰まで浸水したため電気、水道、ガスなどのライフラインに大きな障害が起こり、797戸が停電した。工場の機械、事務所や商店の事務機器、エアコンの室外機、自動販売機などが多数故障したため、一般商店やコンビニ、スーパーでは営業できなくなった店舗も多い。中央通りやさぬき浜街道沿いの樹木は倒木あるいは海水によって落葉した。公共施設・店舗の被害最も浸水高が大きく、浸水時間が長かった福岡町、松島町一帯は江戸時代から干拓や埋め立てによって陸地化した地区である。もともと地盤高が満潮時の海面よりも低いいわゆる海抜ゼロメートル地帯であって、自然排水が困難な地区であった。そのためこの地区の排水は高松市福岡ポンプ場に依存していた。今回の高潮でこのポンプ場の排水能力(雨水排水ポンプ383m/分、汚水送水用ポンプ158m/分)を超えたことが30時間以上による浸水を招いた。半分近くの被災者が実際に水が浸入してきてから高潮の発生に気づいた。避難勧告については特に被害の大きかった福岡町、松島町地区には一切発令されなかった。現場に派遣された高松市職員による確認や、市民からの通報に頼り、明確な発令基準も無い市の避難勧告システムの弊害が被害を大きくした。既に避難勧告が出された地区でもサイレンなどでの周知は無く、発令をテレビやラジオで知った。そもそも発令された時点ですでに広報車が通行できないほど道路が浸水していたり、電話などのライフラインが切断されたりしていたため、高松市の勧告における対応の遅さが批判された。このことから、およそ1週間後に襲来した台風18号では被害こそ少なかったものの、早急な避難勧告が広範囲にわたって発令された。台風16号による避難勧告この高潮被害では高松以外にもその他香川県の沿岸部一帯、岡山県、広島県など瀬戸内海沿岸で軒並み未曾有の被害を出したが、その割に全国ニュースでは昼前の枠こそトップニュースで伝えられたものの、夕方枠以降はヘッドラインに載る程度で詳しく伝えられることはほとんどなく、首都圏以外の出来事には無関心といわれる在京メディアの東京偏向報道が露呈した。※組替による人口とは2010年までに合併などにより高松市域となった旧町村の区域を含んだ人口、すなわち過去調査時点においても高松市が現市域のままであった場合の人口である。

出典:wikipedia

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