馮 跋(ふう ばつ)は、五胡十六国時代の北燕の第2代天王。漢族出身の後燕の将軍であったが、慕容熙を殺害して高句麗出身の慕容雲(高雲)を擁立し、北燕を立てた。慕容雲が近臣に殺された後、馮跋が北燕の天王の位についた。南朝宋へ入朝した。晋の長楽信都の出身である。永嘉の乱が起きると、馮跋の祖父の馮和は上黨へ逃げた。馮跋の父の馮安は武勇と器量があり、西燕の慕容永の将軍となった。西燕が滅ぶと馮跋は東の和龍に移り、家を長谷においた。馮跋は幼い頃から立派であまり喋らず、寬仁で大度があったという。後燕の慕容宝が立つと、その中衛將軍となった。慕容熙が即位すると、馮跋は罪を得、禍を恐れて馮万泥等と共に慕容熙を殺害、養子の慕容雲(高雲)を擁立した。慕容雲は馮跋を使持節・侍中・都督中外諸軍事・征北大將軍・開府儀同三司・錄尚書事・武邑公とした。慕容雲が人望のあった配下の離班と桃仁を殺すと、衆は馮跋を君主に推し、正始三年(409年)に昌黎で天王を称し、旧国号に手を付けずに「燕」のままとし、境内を大赦して太平(北燕)と改元した。馮跋は政事に勤め、農耕を奨励し、税役を軽くしたので市民は大喜びしたという。北魏に南境を侵されながらその治世は二十余年続いた。太平二十二年に馮跋は病死し、太子の馮翼に国を任せた。しかし宋夫人が自分の子を王位につけるため、馮弘に馮翼を殺させてその諸子を誅した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。