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川上氏

川上氏(かわかみし)とは、川上を苗字とする一族のことである。複数の川上氏が存在する。川上 (かわかみ)氏。造姓。続日本後紀承和元年12月に、散位従七位下の川上造吉備成(かわかみのみやつこきびなり)が春道宿祢の姓を賜ったことがみえ、伊香我色雄(いかがしこおのみこと)の後裔とされる。造(みやつこ)は,朝廷に仕える人の意「四道将軍」「丹波道主王」(たんばのみちぬしのみこと)の妃として記紀では「丹波川上摩須郎女」と記されている。尾張氏、海部氏の系図では、亦名「川上麻須」、「川上麻須郎女」「川上麻須稚郎子」「川上眞稚命」(かわかみまわかのみこと)などが見える。丹波道主王を父、丹波之河上之麻須郎女を母とする子は、有名な「日葉酢媛」(ひばすひめのみこと)であり、垂仁天皇の后となり景行天皇を産んだとなる。古事記には、景行天皇の皇子であるヤマトタケルによるクマソタケル(熊襲建、川上梟帥)の征伐譚が記される。日本書紀・景行(けいこう)紀27年条「熊襲(くまそ)に魁帥(たける)者有(といふものあ)り。名は取石鹿文(とろしかや)。亦は川上(かはかみの)梟帥(たける)と曰ふ。」とある。川上氏(薩摩)(かわかみし)は、薩摩島津氏の一族。島津宗家5代当主の島津貞久の庶長子、頼久が薩摩加世田別府半分地頭職を与えられたことから始まる。代々島津宗家に仕え、5代兼久の時に薩摩日置郡伊集院の地頭職となる。しかし10代昌久は島津宗家14代当主の島津勝久の行状を諌め自害した。その子孫は薩摩・大隅・日向の各郡の地頭職に任命されている。以下略戦国時代に島津家家臣として知られる川上氏は、5代兼久の三男、忠塞の流れである。島津義弘を守って戦死した久朗、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取ったとされる忠智・忠堅、朝鮮の役で活躍した忠実、そして関ヶ原の戦いに参加し小返しの五本鑓に数えられる忠兄・久智・久林などは全て川上氏の庶流にあたる。また、薩州家の島津実久に与して島津宗家に叛いた辺川忠直は、川上氏3代家久の三男忠村の孫にあたる。庶家には、小原氏、山口氏、安山氏を称した家などがある。川上氏本家は各地の地頭職を歴任し、「堅馬場家」とも称され600石の家禄を得て一所持の家格とされた。また昌久の孫にあたる久利の家も本家とは別に403石を拝領し、「竜衛家」と称され寄合衆の家格となる。また、久尚の子の久明の系統は「弥五大夫家」と称し、やはり寄合衆となった。庶流である久朗の系統の家は「式部家」と称され(寄合衆)、237石を得て代々家老・目付の要職にあった。                  島津貞久

出典:wikipedia

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