ティホン・フレンニコフ(チホン・フレニコフ、チーホン・フレーニコフ、Tikhon Nikolayevich Khrennikov 〔〕, 1913年6月10日 - 2007年8月14日)はソビエト連邦およびロシア連邦の作曲家。芸術家としての力量よりも、政治的な才覚や権勢欲によって有名になったが、交響曲とピアノ協奏曲(各3曲)や、ヴァイオリン協奏曲とチェロ協奏曲(各2曲)のほか、歌劇、オペレッタ、バレエ音楽、室内楽、機会音楽や映画音楽を残している。 ロシア帝国イェレツ(現:ロシア連邦リペツク州)に生まれる。少年時代にピアノを学ぶ。十代でモスクワに移り、グネーシン音楽大学でミハイル・グネーシンとイェフライム・ゲルマンに1929年から1932年まで師事。その後は1932年から1936年まで、ヴィッサリオン・シェバリーンに作曲を、ゲンリフ・ネイガウスにピアノを師事。最初のピアノ協奏曲は在学中の作品であり、最初の交響曲は卒業制作であった。1948年にアンドレイ・ジダーノフによってソ連作曲家同盟の書記長に任命され、1948年度ソ連作曲家同盟総会の席上でプロコフィエフとショスタコーヴィチに名指しで「形式主義者」の烙印を押し、その後も在任中に両大家を激しく譴責したことにより、こんにちフレンニコフに対する評価はすこぶる悪い。また、いかさまの選挙によって、ソ連崩壊までその書記長職に居座った。その一方で、その地位を有意に用いて、国内の作曲家を擁護し、援助したとの証言もあり、プロコフィエフとショスタコーヴィチが1950年にスターリン賞を授与されたのも、フレンニコフの弁護あればこそであったというものもいる。しかし、フレンニコフの手をもってしてもロシア・アヴァンギャルドを救うことは絶望的で、彼らの名は音楽事典から抹消された。『ショスタコーヴィチの証言』には、フレンニコフに関する批判的な記述がされている。1960年代に演奏会場に復帰し、自作のピアノ協奏曲を演奏した。ヴァイオリニストのレオニード・コーガンやチェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ピアニストのエフゲニー・キーシンの協力を得て、自作の協奏曲を録音している。1980年代に入って再び精力的に作曲活動に復帰し、《交響曲 第3番》では、かつて糾弾した音列技法を用いている。1994年に上梓された回顧録(ISBN 5714005635)は、ソ連時代の秘密文書が公開されているとの触れ込みであった。2007年8月14日、心筋梗塞のためモスクワで死去。。日本では、1948年10月、日ソ音楽家協会が、当時のソ連作曲家同盟議長のフレンニコフと初代運営委員長芥川也寸志の親交をもとに設立された。ソ連崩壊後は、日露音楽家協会と名称を変更した。同協会の会報には、フレンニコフは「一度も作曲家たちを管理したことはなく、一度も何を作曲すべきか、どう作曲すべきかと言っていない。彼は作曲家がメンバーである組織を管理したのである。」「明白な功績は、自分の権力を一度も誰かを害することに使わなかったばかりか、常に援助することに傾けたことである」という訃報を伝えた際の賛辞が掲載されている。日本人の中島克磨を弟子にする計画があった。1987年に東京でワレリー・ゲルギエフ指揮の下、ウラジミール・クライネフ・エフゲニー・キーシン・ヴァディム・レーピンをソリストにしてピアノ協奏曲第三番、ピアノ協奏曲第二番、ヴァイオリン協奏曲第一番を演奏し大成功を収めた。その後、フレンニコフの管弦楽作品の演奏は日本ではほとんどなくなってしまっている。
出典:wikipedia
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