Tu-104(ツポレフ104;ロシア語:)は、ソ連の航空機設計機関であったツポレフ設計局が最初に開発したターボジェット双発旅客機である。短中距離用の機体であった。北大西洋条約機構(NATO)は、「キャメル」(駱駝)というNATOコードネームを割り当てた。また、Tu-104は世界で営業運航をした2番目のジェット旅客機であり、これはアメリカ製ジェット旅客機よりも早かった。しかし、機体は中距離爆撃機のTu-16から開発されたため、燃費が悪いなど運航費用も高く経済的ではなかった。200機以上が生産されたといわれている。なお派生形としてTu-110がある。Tu-104は、1954年に初飛行を果たした。1955年11月6日には、ウクライナのハルキウ航空機工場()で最初の量産機が飛行した。西側諸国にはじめてTu-104の存在が知られたのは1956年であり、当時のソ連の指導者ニキータ・フルシチョフがイギリス訪問で使用(このときの飛行は原型機であったという)したためである。当時は世界初のジェット旅客機であるイギリス製コメットが構造欠陥のために運航停止していた上、まだボーイング707やダグラスDC-8も開発段階であったため、ソ連による予想外のジェット旅客機の就航は西側に衝撃を与えた。実際には、前述のようにTu-16爆撃機の改良型であり、旅客機としてみればあらゆる面で物足りないものであった。 また、この旅客機のエンジンの取り付け方法はTu-16に近似の主翼の根元に埋め込んだものであり、コメットに類似した方法でもあった。着陸時の減速用に内蔵パラシュートを使用することも多かった。Tu-104の早期の営業路線導入は、「共産主義国であるソ連がジェット旅客機を運航しているほど技術が進んでいる」ということを世界に示すというプロパガンダの目的があったともいえる。そのため経済的でなかったにもかかわらずアエロフロート・ソビエト航空に納入されたのは1956年5月であり、9月には国内線に就航した。その時の乗客定員は50名であったが、その後胴体延長により100名まで増加した。またチェコスロヴァキアの国営航空会社チェコスロヴァキア航空(CSA)も運航した。チェコスロヴァキア航空が運用した機体のうち、登録記号OK-NDFの機体は映画撮影のためにアリタリア航空機の塗装に変更され、機体の左半分はアリタリア航空の塗装で運航された。冷戦下においてソ連製航空機に西側航空会社の塗装がなされた珍しい例である。Tu-104は初期のジェット旅客機であったため、技術的に未完成であったことによる航空事故が多かった。たとえば1958年にはアエロフロート・ソビエト航空の2機のTu-104が巡航中に乱気流に遭遇したため操縦不能になり墜落したが、2機目のパイロットが最期に経過を報告した通信記録により、高高度での自動操縦での飛行では突然の乱気流に対応することに難点があったためと判明し、水平安定板の改良がなされた。生産は1960年に打ち切られたが、1981年まで旅客機として運航された。その後空軍に引き取られ要員輸送用として利用された機体もあり、またソ連の宇宙飛行士の移動専用の機体も存在した。1986年に博物館へのフェリーフライトを最後に退役した。Tu-104にはさまざまな不備や問題点はあったものの、それでも設計上の問題点により事故の多発したコメットMk.1よりはるかに安全性の高い機体であるといわれた。
出典:wikipedia
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