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都営トロリーバス

都営トロリーバス(とえいトロリーバス)は、東京都交通局が運営していた無軌条電車(トロリーバス)である。戦後復興期、上野公園から今井までと、亀戸 - 池袋 - 新宿 - 渋谷 - 品川の、ほぼ明治通りに沿った路線を運行していた。全線複線で、直流600V。トロリーバスの場合は架線を敷設するだけであるため、さらにレールが必要な路面電車よりも簡易に敷設でき、新時代の交通機関として期待されたものの、大型バスの出現により採算が合わず、最終的には交通局が財政再建団体に指定されたことに伴う再建計画により都電と共に地下鉄・バスへの置き換えが決まり、開業から16年後の1968年に全廃となった。踏切通過の際にはトロリーポール(集電装置)を架線から外して補助エンジンで駆動した。床下のモーターが浸水すると機能しなくなるため、風雨や積雪などには弱く、積雪時もアースの関係からタイヤチェーンを巻けず、タイヤチェーンを巻いた通常のエンジン駆動である作業用自動車がバスの前に先行したりしていた。また、架線とトロリーポール保守、安全の観点から極力バック運転を行わなかった。また廃止時までワンマン化されず、車両も自動ドア車は存在していたが、すべて中央部にドアが1つのツーマン専用車で男性車掌が乗務していた。東京市電気局では1912年に浜松町工場でトロリーバスを試作した。1912年4月14日付け東京朝日新聞に写真付で掲載されており屋根の無い車体で運転席上に櫓を組み立てそこにポールを据え付けていた。浜松町工場から数寄屋橋車庫まで試運転をし結果は良好であった。ただ試験車であり営業用には使えないとしていた。東京市がトロリーバスの営業運転を計画したのは1922年(大正11年)のことで青山六丁目 - 明治神宮正門間の路線を計画していた。しかし関東大震災の発生により中止になってしまう。その後昭和に入り江東地区に延長6キロのトロリーバス路線を申請したが認可がおりなかった。戦後になり交通量は増大し都内交通は拡充を求められるようになる、しかし当時の燃料事情(ガソリン不足および価格高騰)からこれ以上のバス事業の拡張は困難であり、また軌道事業も巨額の建設費を必要とするところから同様に難しかった。そこで建設費が低廉で動力も電気であるトロリーバス建設が計画されることになった。計画の概要は新橋駅 - 品川 - 渋谷 - 池袋 - 亀戸駅間、上野公園 - 亀戸四丁目間、戸田橋 - 巣鴨駅間、東洗足 - 大崎広小路間、今井橋 - 亀戸駅間の5路線計65キロ、定員72人のバス100台によりラッシュ時6分、日中に5分ないし10分の運行をする。建設費は550,000千円であった。そしてこの計画に基づき1949年(昭和24年)10月、運輸省に認可申請をおこなった。ただこの時点で先願者が3社あった。大和自動車交通は品川区北品川 - 江東区東陽町間、中央区日本橋小網町 - 木挽町間で東京都の出願した路線とかぶる区間があった。西武鉄道(現・西武ホールディングス)が出願した新宿駅西口 - 荻窪駅北口間の路線には都電杉並線があるが、これは合併により西武鉄道所有の軌道になっていたものを戦時中に東京都が受託していたもので、この路線をトロリーバスで建設した上で東京都に譲渡するという目論見であった。京成電鉄も錦糸町 - 日暮里間の路線を出願していた。運輸審議会では公聴会を開くなど審議を重ねたのち、1950年(昭和25年)10月になり東京都以外の出願を却下し、東京都は品川駅前 - 亀戸駅間、上野公園 - 亀戸四丁目間、今井橋 - 亀戸駅間が特許される結果となった。この時却下された区間のうち、新橋駅 - 品川駅前間には都電1系統、東洗足 - 大崎広小路間は都営バス100系統、また戸田橋 - 巣鴨駅間は都電志村線が既に存在していた。なお都電杉並線は東京都に1951年(昭和26年)に譲渡された(詳細は「都電杉並線#歴史」「都電志村線#歴史」参照)。第一期工事として着工されたのは特許となった上野公園 - 亀戸四丁目間と今井橋 - 亀戸駅間を1本にまとめた今井 - 上野公園間であった。この区間には都電26系統があり、他線と接続していない独立した26系統の代替路線として建設され1952年(昭和27年)5月に50型20両により開業となった。品川駅前 - 亀戸駅間の第二期工事は国鉄や東武鉄道、京成電鉄との平面交差(架線を交差)や東急玉川線との並行路線の問題があり調整に手間取り着工が遅れた。まず平面交差については異なる電圧(鉄道線1500Vとトロリーバス600V)の平面交差の技術的方策として鉄道、トロリーバスとも惰力通過する案。鉄道は惰力通過しトロリーバスは普通通過する案。電源切替装置により通過する線に通電する案。以上3案を提示したが国鉄や東武鉄道、京成電鉄、運輸省監督局、建設省道路局等より了承を得られなかったため、やむを得ず平面交差を補助機関で走行するトロリーバス(300型と350型)を製造することになった。なお、却下された戸田橋 - 巣鴨駅間については昭和30年代の後半になって、都営地下鉄三田線構想の基礎となる(詳細は「都営地下鉄三田線#建設経緯」参照)。次の2営業所・1派出所の体制で営業していた。6形式121両300型と350型は補助ディーゼルエンジンを搭載していた(踏切を通過するため)。全車、シャーシーは日野ヂーゼル工業(現在の日野自動車)、ボディは富士自動車工業(現在の富士重工業)が製造した。

出典:wikipedia

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