弥富市(やとみし)は、愛知県の西南部の市である。平成の大合併に伴い、2006年(平成18年)4月1日に成立した愛知県35番目の市。名古屋市の西側20キロ圏内に位置し、木曽川下流のデルタ地帯に干拓によって開拓された。海抜ゼロメートル地帯が大きく広がり、西から東南へ緩やかな傾斜を持つ低湿地地帯。地質は、木曽川およびその支流の堆積土で形成された沖積層である。気候は温暖で夏季多雨、冬季乾燥型であり、冬には伊吹おろしによる北西からの風が吹く。北部は鉄道・幹線道路が充実しており、名古屋市の通勤に便利な地域として、人口は増加の一途を辿っている。これに伴いベッドタウンとしての住宅開発が進んでおり、東洋経済「住みよさランキング2014」では、愛知県下6位、全国39位にランクインした。農業では畑・ビニールハウスでの花き・野菜の栽培が比較的多く行われている。南部は市街化調整区域となっており、水田が広がっている。湾岸部は名古屋港西部臨海工業地帯を経て製造業・物流業が主要産業であり、自治体の積極的な企業誘致が行われている。鍋田川、木曽川を挟んで三重県と接する。キンギョ、ブンチョウ(ハクブンチョウ)の産地である。愛知県内の「市」のなかで、最も人口が少ない。弥富市の地名を参照。キンギョとブンチョウの人工繁殖がされている。弥富金魚の項目を参照されたし。弥富市は文鳥愛好家の間で俗に「文鳥村」と称される。ブンチョウは、1864年(元治元年)、尾張藩武家に奉公していた八重女(やえじょ)が、又八新田を開発した犬山成瀬家家来大島新四朗に嫁いだ際、桜文鳥のつがいを持参し飼育を始め、それを機に又八新田地帯にてブンチョウの飼育が流行したのがブンチョウ文化の発端とされている。明治時代初期、あるブンチョウが突然変異で純白の文鳥を産んだことをきっかけに飼育改良に成功し、日本唯一のハクブンチョウの特産地となった。1962年(昭和37年)頃から10年間、生産量はピークを迎えた。現在の飼養戸数は4戸にまで減少している。ハクブンチョウとサクラブンチョウは6:4の割合で生産され、雛鳥の8〜9割は手乗り文鳥、残りは種文鳥となる。最近では、羽毛が茶色がかった「シナモン」・羽毛が灰色の「シルバー」の新種2種が繁殖され、その希少性が評価されている。2001年(平成13年)からは文鳥の足に弥富文鳥を示すシールがつけられている。市内の国道1号沿いには、ハクブンチョウの鳥模型が天井に装飾された電話ボックスが設置されている。水郷地帯である風土から、木曽川や用水でとらえた淡水魚を食べる文化が根付いている。特にコイ、モロコといったコイ科やハゼの仲間が多く、「ぼら雑炊」、「鮒味噌」、モロコを使った押し寿司である「箱寿司」といった料理を人が集まる時に好んで食べていた伝承がある。新田開発によって形成された40以上の村神社毎に、毎年10月秋祭りが開かれ、山車が奉納される。市内には神楽39基、桑名市の石取祭に由来する山車が14基伝えられている。村名を金糸で刺しゅうした「梵天」と呼ばれる赤い旗を行列の先頭に進む。神社では、江戸時代から続く獅子舞や神楽太鼓、明治時代に伝えられた剣舞など郷土芸能が奉納される。原始から古代までは市の殆どが伊勢湾の海中であり、遺跡などは存在していない。平安末期になると現在の弥富市にあたる場所には、木曽川の土砂が堆積し、小島がいくつか形成されていた。弥富町誌によれば、1106年(長治3年)、東寺文書「平盛正」にてその地を「市江」(現在の愛西市西保・東保・西條・東條および弥富市五之三・荷之上・鯏浦にかけて跨る地区)として藤原家が開墾し、荘園としたという史料として残っており、弥富の有史はこの記録からとされている。また当時、平治の乱に破れた源義朝を乗せた船が当地を通ったとの伝承がある。市江は藤原信長から藤原頼長に伝領しのち皇室領の樑江庄となった。「市江八郷」と呼ばれた市江地区は「市江島」として室町時代に開発したが、当初は尾張と伊勢の国境が曖昧であり、伊勢国に属していた。のち、市江島と五明をはじめとする輪中が形成されていったと見られている。その後、荘園制が崩壊し村々の力が強くなると村周辺を次々と開墾し、「杁」と呼ばれる技術が進むと低い土地でも堤防で囲み田畑を広げ、新田開発が発展した。水から生活を守るため、自然堤防・州上に集落は立地し、葦洲がいたるところにみられた。戦国時代には地域一帯に一向宗が広まっており、その中心人物で、『信長公記』に二の江の坊主と記される服部左京進(左京助・左京亮とも)が、市江島の鯏浦(うぐいうら)を拠点に海西郡一帯を支配する豪族として勢力を誇っていた。服部左京進は尾張の一角にありながら織田信長の支配に与せず、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの際にも今川義元の援軍として出兵している。左京進は一向宗の中心である長島城の城代を務め、蟹江に進出してきた信長勢と戦った。1565年(永禄8年)には鯏浦の東・難畑にて織田信興の侵攻を受け、1567年(永禄10)年、信興は大楠あたりに鯏浦城を築いた。1568年(永禄11年)に左京進は伊勢でだまし討ちに遭い、自刃に追い込まれたが、服部党の抵抗は続き、1570年(元亀元年)には蜂起した長島一向一揆門徒の一角として他の門徒衆と共に小木江城(現在の愛西市)を攻めて織田信興を討っている。その後、1571年(元亀2年)、1573年(天正元年)と織田方の侵攻をしのいだが、1574年(天正2年)に信長10万の兵で攻撃が開始され、「市江島から南に人影なし」と呼ばれるほど激しく焼き尽くし、信長は五明に陣を敷き、門徒宗は長島一向一揆壊滅と運命を共にした。一揆殲滅後、この地は無人となっていたが、1575年(天正3年)、服部正友らが入植し、百姓を集めて土地を再建した。市内の重要文化財「服部家住宅」は服部正友が天正年間に建てたものとされている。1607年(慶長12年)、徳川家康の命により御囲堤が設けられたことをきっかけに、藩や豪農、豪商による大規模な干拓新田の開発が行われるようになる。時に水害によって水没しながらも再度の開発が繰り返され、南へと新田が延びていった。現在の市域の大部分はこの時代以降に陸地化されたものである。元々、国境である木曽川の流し出した土砂の堆積に輪中を造る事で成立した村々であるだけに、東側が尾張(尾張藩)、西側は伊勢(長島藩)という不文律こそ有っても、新しく(あるいは再度)開発する土地についての領有争いも多かったと言う。木曽川の流路変更による国替えなどもあったが、現在の市域の大部分を占めた尾張藩領(尾張藩佐屋代官所管轄)と犬山藩領の飛び地は尾張国、南西部の長島藩領と北西部にあった天領(笠松代官所管轄)は伊勢国という形で明治を迎えている。江戸後期からは漁業や海苔の養殖が始まり、特に海苔養殖に関しては尾張藩主から「蓬莱海苔」との称号を与えられるほどの名産となった。また市の特産品であるキンギョ(弥富金魚)の養殖とブンチョウの飼育もこの頃から始まる。明治に入ると文鳥・金魚の養殖がますます盛んになり、1872年(明治5年)には前ヶ須に最初の商業地が設けられた。それまで東海道は愛知県と三重県の間は七里の渡しが主なルートだったが、この間を陸路で結ぶ新東海道が現在の弥富市域を通る形で開設され、前ヶ須に渡し場と駅宿が設けられた。後には海西郡の郡役所も置かれている。その地は現在、弥富市歴史民俗資料館となっている。廃藩置県後に鍋田川左岸で三重県桑名郡に属していた地域(小島新田・五明村・川原欠新田・富島新田・富島付新田・富崎新田・加稲新田・加稲付新田・加稲山新田・加稲九郎治新田・稲荷崎新田・稲荷崎付新田・三好新田・境新田)については、1880年(明治13年)に愛知と三重の県境を木曽川及び鍋田川と定め、愛知県海西郡に編入されて現在は弥富市の一部になっている。1889年(明治22年)、町村制施行により鯏浦村・平島新田・前ヶ須新田・中山新田村と旧伊勢領の五明村・小島新田を合併し、海西郡彌富村が発足した。彌(弥)富は「いよいよ富む、いやがおうにも富む」事を願って命名された瑞祥地名。1898年刊行の『愛知県海東郡志』には「彌富は維新後、東海道の駅次となり、海西郡役所のある所にして、一市街をなし、警察署、郵便局、高等小学校、停車場等ありて、稍繁華の地なり」と記されている。1903年(明治36年)に町制施行により、海西郡彌富町に改称。1906年(明治39年)に市腋村の荷之上・五之三地区、および十四山村の鎌倉新田地区を彌富町に編入した(同時に町内前ヶ須新田・中山新田地区を海西郡鍋田村に編出)。1913年(大正2年)、海東郡と海西郡が合併し海部郡が成立したため、海部郡彌富町に改称。昭和に入ると、五明にのちのニッケとなる昭和毛織紡績弥富工場が開業。昭和後期まで「ガチャマン景気」と呼ばれる戦前戦後の尾州繊維産業の快進撃に流れ、彌富町にも全国各地から女工が集い、当時の人口統計にも若い女性の比率が高いとの記録がある。昭和の大合併では1955年(昭和30年)に鍋田村および市江村楽平地区を合併(市江村のその他地区は佐屋町に合併)。町名を“海部郡彌富町”から“海部郡弥富町”に改称した。翌年隣接する三重県桑名郡木曽岬町とも合併協議がもたれたが、こちらは三重県議会の反対などから実現しなかった。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風では、海岸や河川の堤防が多くの箇所で決壊し、入植が開始されたばかりの鍋田干拓地を含む全域が水没。町内で308名の犠牲者を出した。台風後は治水設備も大幅に強化され、洪水の危険性は減少した。一方で、縦横に流れていた水路の多くが埋め立てられ、水郷地帯としての風景も様変わりした。高度成長期と並行して耕地整理や道路事業・公共施設建設・団地開発ラッシュが進み、主力産業のひとつであった漁業や海苔養殖はほぼ消滅した。昭和40年代に減反政策が行われると町内多くの農家が弥富金魚の養殖業に転業し、昭和50年代に生産量はピークを迎えた。一方で、産業の発展や人口増加に伴い地下水の揚水量が著しく増加すると、町内で地盤沈下現象を起こし、問題となった。また町北部では、名古屋大都市圏のベッドタウンとしての需要が高まり、田畑や金魚の養殖池を埋め立て宅地開発が行われた。名古屋港の一部として沿岸部の埋め立ても進められ、これらの埋め立て地は1976年以降順次弥富町に組み入れられている。1996年(平成8年)には、長年帰属が問題となっていた木曽岬干拓地の一部も編入された。平成の大合併施策に伴い、2002年(平成14年)から海部郡飛島村、海部郡蟹江町、海部郡十四山村との合併協議会が行われた。しかし、飛島村は合併に伴う村民サービス低下の懸念から住民投票にて反対過半数となり、蟹江町は対等合併という協定で進められるも弥富町が新市名を「弥富市」とすると主張したことから対立となり、両町村の併合は白紙撤回となった。十四山村でも編入合併という立場に議会が反対したが、賛成派住民による議会リコール申し出て、住民投票の結果、賛成52%・反対48%でリコールが成立。2006年(平成18年)、十四山村を編入合併・市制施行し、愛知県35番目の市弥富市が発足した。就業者人口(平成22年国勢調査より)主な事業所主な事業所主な物流事業所商業施設2005年に開催された愛知万博で、愛知県内の市町村(名古屋市を除く。)が120の万博公式参加国をそれぞれ「一市町村一国フレンドシップ事業」としてフレンドシップ相手国として迎え入れた。。市の中心となる駅:弥富駅・近鉄弥富駅他に、飛島公共交通バスの停留所が市内に2ヶ所ある。東名阪自動車道:弥富IC伊勢湾岸自動車道:湾岸弥富IC、弥富木曽岬IC
出典:wikipedia
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