ハインツ=ハラルド・フレンツェン(Heinz-Harald Frentzen, 1967年5月18日 - )は、ドイツ出身の元レーシングドライバー。1988年のドイツ・フォーミュラ・オペル選手権でチャンピオンを獲得。1989年のドイツF3でカール・ヴェンドリンガー、ミハエル・シューマッハとチャンピオン争いを繰り広げ、ヴェンドリンガーに次ぐランキング2位となる。彼ら3人はメルセデスの若手育成プログラム(ジュニアチーム)に抜擢され、ヨッヘン・マスのパートナーとして1990年のWSPCに持ち回りで参戦した。メルセデスの英才教育を受け、将来F1へステップアップすることを期待された。フレンツェンはエディ・ジョーダン・レーシング (EJR) から国際F3000にも参戦したが、F1参戦を控えたジョーダンはチーム体制が不安定であり、満足な成績を収められなかった。1991年はF1への近道としてジュニアチームを離脱し、国際F3000に専念するが成績は振るわず、ジュニアチームの元同僚2人がF1デビューを果たしたため、逆に遠回りな選択になってしまった。フレンツェンをサポートするはずだったキャメルのドイツ法人がジョーダンのスポンサーを降り、その資金をミハエル・シューマッハの所属するF1ベネトンチームに回すという皮肉な結果となった。また、私生活でも元ガールフレンドのコリーナ・ベッシュがシューマッハと交際し始めるなど、まさにどん底の時代を経験する。1992年、国際F3000のシートを失い、スポーツカーレースに参戦していたフレンツェンに転機が訪れる。全日本F3000にノバエンジニアリングから参戦していたフォルカー・ヴァイドラーが突発性難聴でシーズン途中に帰国した(その後引退)。ヴァイドラーは後任として同郷のフレンツェンを起用するよう、ノバ監督の森脇基恭に進言。フレンツェンは1992年終盤戦から1993年にかけて全日本F3000に参戦し、ミカ・サロやエディ・アーバインらと「F1予備軍」として競い合った。1993年の第3戦MINEでは、ヘビーウェットコンディションの中で他のドライバーよりも1周あたり5秒速いペースで独走し、結果的にリタイアしたものの、日本のレース界に強い印象を残した。第8戦菅生では星野一義がその走りに衝撃を受け、予選後に自らピットに赴いて「お前はこんなところでくすぶっていないで早くF1に行け」と激励したこともあった。1993年の成績はポールポジション1回、表彰台1回、ファステストラップ2回でランキング9位。速さは誰もが認めるところでありながら、全日本チャンピオンを獲得することはできなかったため、1993年の終盤、翌年のフレンツェン起用を決めていたペーター・ザウバーから、「彼は何が悪いのか?」、「彼の走りはどういう部分が問題なのか?」としきりに問われたと、森脇は1994年シーズン開幕直前のテレビ番組にて語っている。しかし、森脇の指導の甲斐もあってか、「特殊」で知られ外国人ドライバーの誰もが苦労する全日本F3000の国産タイヤを結果的に見事に使いこなした。1994年、ジュニアチーム時代の監督ペーター・ザウバーが興したザウバーからF1デビューを果たした。デビュー戦のブラジルグランプリでは、初体験となるセミオートマチックトランスミッションを難なく使いこなして予選5位を獲得した。参戦2年目のチーム、初めてのサーキットでのデビュー戦で、アイルトン・セナ、シューマッハ、ジャン・アレジ、デイモン・ヒルに次ぐポジションは周囲を驚かせた。セナがサンマリノGPで事故死した後、その代役としてウィリアムズチームからオファーを受けたが、折悪しく、この時は断ることとなった。シーズン中4戦で入賞し、日本GPでは予選3位を獲得した。1995年はメルセデスの支援を失ったチームでエースとして活躍し、17戦中8戦でポイントを獲得。イタリアGPではチームの初表彰台(3位)を獲得した。3年目の1996年は入賞3回、リタイア9回と不本意なシーズンとなった。1997年、フレンツェンは前年のワールドチャンピオンであるデイモン・ヒルに代わりウィリアムズに加入した。第4戦サンマリノGPで初優勝、第5戦モナコGPで初のポールポジションを獲得し、終盤には5戦連続表彰台フィニッシュを果たす活躍を見せた。シューマッハの成績除外によりシリーズランキング2位となったが、ワールドチャンピオンを獲得したチームメイトのジャック・ヴィルヌーヴに比べると見劣りがしたのも事実であった。翌1998年はルノーエンジンを失ったこともありヴィルヌーヴ共々精彩を欠いたシーズンとなり、フレンツェンはわずか2シーズンでチームを去ることとなった。翌1999年に移籍したジョーダンはF3000時代の旧知のチームで、マシンも常に表彰台を争える速さと信頼性を備えており、戦える環境が揃っていた。予選、決勝共にエースドライバーの元チャンピオンのヒルを凌駕し(予選14勝2敗、決勝13勝2敗1分、ポイント54対7)、シーズン中優勝2回・ポールポジション1回を獲得し、終盤までチャンピオン争いに食い込む活躍を見せた。雨中の乱戦となったフランスGPでは、巧みな燃費走行とピット戦略でワールドチャンピオンのミカ・ハッキネンを破って勝利を挙げた。イタリアGPでもフロントローから自身初のドライコンディションでの勝利を挙げ2勝目(通算3勝目)。シリーズランキングはハッキネン、アーバインに次ぐ3位。しかし、この年をピークにジョーダンは低迷し、新加入のヤルノ・トゥルーリによりフレンツェンの立場も微妙になっていった。ついに2001年ドイツGPを前に、シーズン途中にも関わらず突如チームから解雇され、地元ドイツGPを走れずに終わった。その後、ジャン・アレジと入れ替わる形でプロストへ移籍することになり、ハンガリーGPから残りのレースに参戦した。当時のプロストチームは資金が底をついていたため、フレンツェンは無給であったが、参戦チーム中唯一パワーステアリングを持たないAP04で奮戦し、ベルギーGPでは予選4位を獲得して周囲を驚かせる。この移籍劇の裏についてははっきりとした報道はなされていない。一説として上がるのはフレンツェンが開発が進まないジョーダンのマシンに業を煮やし自費でパーツの改良を願い出てエディ・ジョーダンと揉めたと言う説がある。また、ジョーダンが翌2002年からホンダエンジンを搭載するにあたり、「ホンダとの契約条項に、佐藤琢磨を乗せる事があったため、フレンツェンを解雇せざるをえなくなった」とエディ・ジョーダンが語った事もある。数年後にはフレンツェンがジョーダン時代の契約金未払いに関してジョーダンを相手に裁判を起こし、勝訴している。翌2002年にはアロウズへ移籍し、2度のポイント獲得など光る走りを見せるが、第12戦ドイツGP終了後にチームが撤退することとなり、またしてもシートを失うこととなる。第16戦アメリカGPでは、翌2003年からの復帰が発表されていたザウバーよりスポット参戦した(危険走行によりフェリペ・マッサがペナルティを受けることとなっていた為その回避として起用されたもの)。2003年、7シーズンぶりに復帰を果たしたザウバーチームでは、第15戦のアメリカGPにて表彰台(3位)を獲得するなどの活躍を見せた。しかし、ついにこの年をもってF1世界から完全に引退することになった。F1引退後は、2004年よりオペルチームからドイツツーリングカー選手権(DTM)に参戦。苦戦が続いていたが、2005年第4戦ブルノで初の表彰台(3位)を獲得した。オペルのDTM撤退に伴い2006年はアウディに移籍。最終戦のホッケンハイムで初のポール・ポジションを獲得するが、決勝レースはチームメイトとの接触もありリタイアした。結局、DTM3シーズンで未勝利に終わり、アウディに対しては「チームからのサポートが得られない」として同年限りで離脱した。移籍先は決まっておらず、このまま引退する可能性もあったが、公式ファンクラブのサイトで、2008年以降のレース復帰に向けて意欲を示すコメントを出した。そのコメント通り、2008年に「HHF Project」と銘打ち、私財を投じてグンペルト・アポロをハイブリッド化し、ドミニク・シュワガーらとともに同マシンでニュルブルクリンク24時間レースに出走した。また、ル・マン24時間レースには「アストンマーティン・レーシング」からスポット参戦した。同年にスタートしたスピードカー・シリーズにもスポット参戦し、翌年はフルシーズンを戦った。2010年レーシングドライバーからの引退を表明したが、2011年に「ADAC GT Masters」でレースに復帰。2012年も引き続き同シリーズに参戦し、コルベットZ06.R GT3を駆る。招待の形でレースに出場することもあり、2012年3月にはF1オーストラリアGPのサポートレースとして開かれたポルシェ・カレラカップ オーストラリアにゲスト参戦している。メルセデス・ジュニアチームを指導したヨッヘン・ニアパッシュ(レースディレクター)、ペーター・ザウバー(チーム代表)、ヨッヘン・マス(ドライバー)は、いずれも純粋なスピードという点ではフレンツェンが1番だったと評価している。ただし、「集中力が途切れてミスを犯すことがあった」(ニアパッシュ)「ミハエル(シューマッハ)ほどの真剣さはなかった」(ザウバー)と足りない部分も指摘している。全日本時代の師であるノバの森脇代表は、「あいつは速いけどぶつけるとかミスするとかいう噂があった。ヨーロッパの知り合いがあいつは使わないほうがいいよ、と助言してくれたりもした」と語っている。契約前のテスト走行を不安視していたが、フレンツェンは丁寧にマシンを乗りこなして契約にこぎつけた。森脇は「彼なりにずいぶん気を遣ったんでしょうね」と語っている。大変に人の良い性格で知られており、2003年のF1引退時にはペーター・ザウバーに対し、「ニック(・ハイドフェルド)は何とかしてチームに残してほしい」とお願いした。結局その願いはかなうことなく、2004年のザウバーはジャンカルロ・フィジケラとフェリペ・マッサの布陣となった。2010年の引退時には「(自らにはすでに競争力が無いことを悟ったうえで)誰かのハンディキャップにはなりたくない」と語るなど、最後まで「ナイスガイ」であり続けた。その人柄ゆえか、ウィリアムズで成功できなかった理由として、チームのドライな雰囲気に馴染めなかった事が挙げられる。ザウバーや(後に移籍する)ジョーダンのような家庭的チームには水にあったが、ドライバーを突き放すウィリアムズではパトリック・ヘッドの冷たい態度に悩み、ストレスで体調を崩したことさえあった。また1997年の序盤戦時、マシンのセッティングにおいてもチーム側はフレンツェンが希望するオーバーステア傾向のセッティングではなく、前任のデイモン・ヒルに合わせたアンダーステア傾向のセッティングで走らせていたと言う。元々ウィリアムズは、ドライバーの能力よりも自らの技術力に偏重する傾向にあるチームと言われ、まして加入したばかりのドライバーでは、なかなか言う通りはセッティングを行なわない傾向にあると言われていた。(アイルトン・セナでさえ、1994年の移籍時に同様の話が聞かれた)また、チームメイトのヴィルヌーヴはルノーのエンジニアと(フレンツェンには分からない)イタリア語であえて会話するなど、チーム内での神経戦がフレンツェンの足を引っ張った面は否めない。1998年のイギリスGPではレースでリタイアした後、ついに堪忍袋の緒が切れチームに1998年シーズン限りでの別れを告げたが、来季の構想からはすでに外れており首脳陣からは引き止めもされなかった。しかし、フレンツェンはウィリアムズのメカニックからは絶大な人気を得ていたことだけは唯一の救いだった。デイモン・ヒル側から見れば、ウィリアムズから追い出され、またジョーダンでは圧倒的な力の差を見せつけられ、引退への引導を渡された形になってしまっただけに2人の関係は険悪そうに思われがちであるが、実際は2000年のジョーダンの新車発表時においてフレンツェンは「(前チームメイトの)デイモンの分まで頑張りたい」と語り、デイモンも引退後「F1 Racing」誌の誌面上において、フレンツェンに和気藹々とした雰囲気でインタビューしたり、2001年のドイツGP後の解任劇に関してエディ・ジョーダンの姿勢を厳しく批判していた。スペイン語が堪能な理由として「離婚してスペインに移住した母親の許をよく訪ねたから」と「F1グランプリ特集」に掲載されたインタビュー中で語るなど、非常に家族思いなところもある。父は葬儀屋を経営しており、日本に来る前にはよく実家の手伝いで霊柩車を運転していた。引退後も同じく実家の葬儀屋を手伝っているという。
出典:wikipedia
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