『ピアノ協奏曲ト長調』(ぴあのきょうそうきょくとちょうちょう、 )は、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが最晩年に作曲した2曲のピアノ協奏曲のうちの一つ。ラヴェルの死の6年前(1931年)に完成され、ラヴェルの完成された作品としては最後から2番目にあたる。並行して作曲された『左手のためのピアノ協奏曲』(1930年完成)の重厚さとは対照的な陽気で華やかな性格を持ち、生き生きとしたユーモアと優雅な叙情性にあふれている。作品中には、ラヴェルの母の出身地であるバスク地方の民謡や、スペイン音楽、ジャズのイディオムなど、多彩な要素が用いられているが、ラヴェル自身は「モーツァルトやサン=サーンスと同じような美意識」に基づいて作曲したと語っている。ラヴェルは、1928年に行った自作を指揮してのアメリカ合衆国演奏旅行が大歓迎で迎えられたことから、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ、アジアを回る大規模な2度目の演奏旅行を計画し、これに向けて自身がソリストを務めることを前提としたピアノ協奏曲の作曲にとりかかった。ラヴェルの友人ギュスターヴ・サマズイユによれば、ラヴェルには1906年に着手したものの未完で終わってしまったバスク風のピアノ協奏曲『サスピアク=バット』(“Zazpiak Bat”)があり、この主題の一部がピアノ協奏曲に転用されたとされる。作曲は1929年に着手されたが、同年冬からは『左手のためのピアノ協奏曲』との同時進行となり、『左手のためのピアノ協奏曲』完成からさらに丸一年を経過した1931年にようやく完成した。完成当初、ラヴェルは自分自身のピアノ兼指揮で初演することを望んでいたが、自分の力量を見極めて(体調不良で医者から休養を薦められたこともあった)、信頼する女流ピアニスト、マルグリット・ロンに独奏を任せた。2ヶ月近いリハーサルの末、1932年1月14日、パリのサル・プレイエルにおいて、ロンの独奏とラヴェル自身が指揮するラムルー管弦楽団によって行われた初演は大成功をおさめ、作品は初演ピアニストのロンに献呈された。ただし、初演の時の実際の指揮者は、ルイス・デ・フレイタス・ブランコであったという説もある。初録音のレコードでも、このポルトガル出身の指揮者が棒を振ったのに、ラヴェルはレコーディング・ディレクター的な立場だったにも拘らず、マーケティング面を考慮して、ラヴェルが指揮した事にされたという。当初予定されていた演奏旅行はラヴェルの健康状態の悪化により、ウィーン、プラハ、ロンドン、ワルシャワ、ベルリン、アムステルダムなど、ヨーロッパの20の都市を回るものに縮小されたが、ピアノ協奏曲は各地で好評をもって迎えられ、多くの会場において、鳴り止まぬ拍手に応えて第3楽章がアンコール演奏された。『左手のためのピアノ協奏曲』とは対照的にオーケストラの規模は小さい。『左手のためのピアノ協奏曲』は単一楽章であるが、この作品では古典的な「急 - 緩 - 急」の3楽章構成となっている。
出典:wikipedia
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