鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある神社。式内社(大社)、大隅国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。別名として大隅正八幡宮とも。創始は社伝によると「神武天皇の時に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされるが、不詳。当社の北西13kmの地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵がある。欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に、「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたと言う。継体天皇の代のことであると言う。」との記載がある。 八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。信頼できる史料での初出は、醍醐天皇の時に編纂された『延喜式神名帳』に「大隅国桑原郡 鹿児嶋神社」とあるもので、大社に列している。その高い社格から桑幡氏、税所氏などの有力国人をその神職より輩出した。平安時代に宇佐八幡が九州各地に別宮を作ったのに伴い、当社に八幡神が合祀されたともされている。それ以降、正八幡宮・大隅八幡宮・国分八幡宮などとも称される。戦国時代から江戸時代には、地元の大名である島津氏の尊崇を受けた。1874年(明治7年)に神宮号宣下及び近代社格制度において官幣中社に列し、1895年(明治28年)に官幣大社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社となった。上記のうち刀2件は、第二次世界大戦後、進駐軍に接収され、所在不明となっていた。うち、秋広銘の刀はアメリカのオークションに出品されているのが発見され、2003年に神社が買い戻した。伝則重の刀は所在不明である。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。