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宅見勝

宅見 勝(たくみ まさる、1936年6月22日 - 1997年8月28日)は、20世紀に活動した日本のヤクザ。指定暴力団・五代目山口組若頭。宅見組組長。兵庫県神戸市出身。バブル期を通して金融や不動産などのフロント企業を使い蓄財した2000億円とも言われる豊富な資金を背景に、渡辺芳則を首領に据えた五代目山口組の発足(1989年)に立役者として関与、以後、山口組のナンバー2にあたる若頭として3万6000名を擁する山口組の事実上の仕切り役として活動し、“山口組の金庫番”と呼ばれた。「山一抗争」(1984年 - 1989年)、「八王子抗争」(1990年)、「山波抗争」(1990年)、および「中野会会長襲撃事件」(1996年)などの各種暴力団抗争や、「山口組五代目跡目問題」(1988年 - 1989年)などに当事者として関与。1997年に暗殺を受けこの世を去った。1936年、神戸市生田区出身。幼少の頃に三重県伊勢市に移住し、少年期のほとんどを当地で過ごした。中学時代は学力優秀で大阪府立高津高校に進学。しかし両親が相次い亡くなった事情から学校を中退し知り合いのツテを頼って20歳前後の頃は和歌山県に居住し、那智勝浦漁港の周辺や和歌山市の飲食街でバーのマネージャーをしていた。この頃に同い年の女性と結婚している。結婚と前後して大阪へ居を移し大阪ではミナミの不良グループの仲間入りをする。1959年頃 博徒でもある土井組系川北組の若衆となり、翌年には早くも若頭に就任。しかし1962年に所属する土井組は抗争などによる警察の集中取り締まりを受け解散する。その後、当時ミナミで大きな勢力を持っていた南道会(会長・藤村唯夫(三代目山口組舎弟)系の福井組(組長・福井英夫)の若衆となった。1966年には、その実力を認められ福井組の若頭補佐となり、翌1967年、三重県鳥羽市を本拠に宅見組を創設した。1970年に福井組若頭に昇格したのを機に大阪に本拠を移し、そのころ三代目山口組若頭・山本健一(山健組組長)と親しくなった。1975年の「大阪戦争」では武闘派として活躍するなど貢献が認められ、山本健一の強い推薦により1977年には三代目山口組組長・田岡一雄から盃をもらい山口組直参に昇格した。1982年に山本健一が病死。これをきっかけに山口組四代目跡目問題が浮上し、宅見は竹中正久を山口組四代目に推すグループに属した。のちの山口組組長・竹中正久が若頭に就任した同年、宅見は若頭補佐に就任。渡辺芳則を首領に据えた五代目山口組の発足とともに1989年、山口組若頭に就任。同年5月、渡辺芳則は山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。渡辺芳則は、英組・英五郎組長、倉本組・倉本広文組長、黒誠会・前田和男会長、弘道会・司忍会長、芳菱会・滝澤孝総裁を、若頭補佐に据え、益田啓助を舎弟頭に据えた。また章友会・石田章六会長、大石組・大石誉夫組長、西脇組・西脇和美組長を舎弟頭補佐に据え、嘉陽宗輝、桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり山口組総本部長に就く。二代目吉川組・野上哲男組長は山口組総本部副本部長となった。益田組・益田佳於組長、小西一家・小西音松総長、伊豆組・伊豆健児組長は顧問に就任した。これらの新人事には宅見の意向が強く反映されていた。1996年7月10日、山口組系三次団体中野会の会長中野太郎が会津小鉄会系組員に銃撃され、部下2名が射殺される事件、いわゆる「中野会会長襲撃事件」が発生。同日、四代目会津小鉄若頭・図越利次ら会津小鉄最高幹部が山口組総本部を訪れ会津小鉄系組員が山口組若頭補佐・中野太郎を襲撃したことを詫びた。宅見は図越らの謝罪を受け入れ、中野太郎と協議することなく和解。中野は当事者であった自身を抜きにした宅見の裁定に激しい不満を抱き、両者が激しく対立することとなる。そして1997年8月28日午後3時20分ごろ、宅見若頭射殺事件が発生し、午後4時32分、搬送先の神戸市立中央病院で死去。61歳であった。

出典:wikipedia

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