田中 孝司(たなか こうじ、1955年11月2日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF、DF。明治大学を経て、1978年に日本サッカーリーグの日本鋼管サッカー部(のちのNKK)に入部。JSL1部で通算143試合出場を記録した。1982年1月16日のボカ・ジュニアーズ戦で日本代表として初出場した。なお、国際Aマッチで通算20試合3得点を記録して日本代表の主将も務めた。なお、1982年1月に行われた日本代表vsボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)との3試合で、ディエゴ・マラドーナとマッチアップ。試合後にはマラドーナとユニフォームを交換した。1988年に引退後は1989年から1992年までNKKのコーチを務めた後、1993年にはU-18日本代表の監督を務め、1995年から名古屋グランパスエイトのコーチに就任した。この間、U-20日本代表の監督も兼務し、1995 FIFAワールドユース選手権でベスト8の記録を残した。1997年11月からは辞任したカルロス・ケイロスに代わり、監督に昇格した。1999年には呂比須ワグナー、山口素弘、楢崎正剛の3選手が加わり優勝候補とされていたが、選手の起用法からチームの輪が乱れ、成績も低迷。シーズン途中に解任された。その後、2001年から2002年までは湘南ベルマーレの監督、2004年から2005年まではベガルタ仙台のゼネラルマネージャーを務めたが、いずれもそれぞれのチームの成績不振を理由にその職を解任されている。ちなみに解任したのがいずれも小長谷喜久男だった。2016年より松江シティFCの監督に就任した。1994 FIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦のイタリアvsナイジェリア戦で解説をつとめたが、試合終盤まで1-0でナイジェリアがリードしており、イタリアは全く精彩を欠いていた。88分、実況の山本浩が「田中さん、ロベルト・バッジオの94年はこれで終わってしまうんですかね?」と振ったところ、田中は「いやー、そうでしょうねー」と答えたが、その5秒後にバッジオの同点ゴールが飛び出す、という出来事があった。イタリア代表は、バッジオの起死回生ゴールで息を吹き返し、そのまま決勝戦まで勝ち上がった。!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算143||1|||||||||||||1982||6||0||11||0||17||0!通算
出典:wikipedia
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