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公弁法親王

公弁法親王(こうべんほっしんのう、寛文9年8月21日(1669年9月16日) - 正徳6年4月17日(1716年6月6日))は、江戸時代の天台宗僧侶。後西天皇の第6皇子、貴宮秀憲親王。出家後、親王宣下を受け法親王となる。毘沙門堂門跡のほか日光山(東照宮、輪王寺門跡)、東叡山寛永寺貫首、東叡山輪王寺門跡、比叡山延暦寺天台座主を兼任した。一品、准三宮。号は脩礼、玄堂。隠居後は大明院と称した。狩野常信に書を学び能筆家としても知られる。天台教学の整備につとめ論議書の編纂、勧学寮の整備振興につとめた。公弁の命によって編集された『台宗二百題』は今日でも基礎文献として重用されている。また、真言立川流を邪法として弾圧した。延暦寺に入会権を認められていた八瀬童子の権利を剥奪したが、宝永4年(1707年)に老中秋元喬知によって裁定が下され、八瀬童子の権利は保障された。日光山の興隆のため山麓村郷の産業振興もすすめた。元禄15年(1702年)に起こった赤穂事件では、公弁が5代将軍・徳川綱吉に赤穂浪士に切腹を命ずる決断を促したとする逸話が『徳川実紀』などによって伝えられている。公弁法親王の母方の叔母が綱吉の正室・鷹司信子の侍女だった縁から両者は親しく、公弁法親王の方が綱吉よりはるかに若年ではあったが綱吉の相談に与る立場にあった。事件後、浪士達の処置をめぐって幕閣内で意見の対立があり綱吉は裁定に苦慮していた。元禄16年2月1日(1703年3月17日)、公弁法親王が年賀のため綱吉に謁すると、綱吉は雑談の中で赤穂浪士の処断に苦慮していることを話題にした。綱吉はいったんは切腹を命ずる決裁を下していたが、浪士の命を惜しむ気持ちを捨てきれなかった。しかし将軍として彼らを許せば、かつて浅野長矩にだけ切腹をさせた自分の裁断は片手落ちであったと認めることになってしまい、将軍権力に傷が入ることが避けられなかった。そこで公弁法親王から助命があったということにできれば、あくまで皇族からの要請であるという形にできるので、それに基づいての赦免ならば将軍権力にも傷が入らないということを期待していたようである。また公弁法親王自身も浪士の討ち入りを義挙ととらえており、同年正月5日には浪士を褒める和歌も詠んでいたが、この時は軽く相づちを打つだけで受け流し浪士の助命を切り出すことはなかったという。綱吉はやむなく2月4日(3月20日)に処断を浪士預かりの諸藩に通達し、浪士は同日中に切腹した。後に浪士の助命を願わなかった理由を問われた公弁法親王は「本懐を遂げた浪士を生き永らえさせて世俗の塵に汚すよりも、切腹させることによって尽忠の志を後世に残すべきである」と答えたといわれる。また『堀部金丸覚書』には討入り後、堀部金丸(弥兵衛)らが輪王寺宮(公弁)を通じて公儀に訴え出て外聞を正そうとした記録が見られ、これをきっかけとして輪王寺が幕閣内の政争に巻き込まれることを避けたのではないかとする意見もある。

出典:wikipedia

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