尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日 - 1992年4月25日)は日本のミュージシャン、シンガーソングライター。青山学院高等部中退。東京都出身。1983年12月、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で高校在学中にデビュー。ライヴでの熱烈で破壊的なパフォーマンスや、夢や愛、生きる意味をストレートに表現した赤裸々な歌詞など、社会や学校の中で感じる葛藤や心の叫びなどを表現した楽曲の数々が1980年代から1990年代初頭にかけての若者を中心に多くの人から共感を呼び、カリスマ的存在となる。その作品と活動と精神性は、日本の音楽シーンに多大なる影響を与え、作品に迸るメッセージは死去から20年以上経過した現在でも多くのファンやミュージシャンに尊敬されている。1992年、あまりにも若すぎる26歳での突然の死は、当時、社会的にも大きな衝撃を与えた。死後20年を過ぎてもなお、尾崎を慕うものは絶えず、新たなファンを生んでおり、彼が遺した曲の数々は多くのアーティストにカバーされ続けている。ジャクソン・ブラウン、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエル、浜田省吾、佐野元春、井上陽水、アナーキー、甲斐バンドなどから強い影響を受けている。1965年(昭和40年)11月29日、東京都練馬区にて2人兄弟の次男として誕生。練馬区立田柄第二保育園から区立田柄第二小学校に入学したが、1976年(昭和51年)8月、尾崎が小学5年生の時に埼玉県朝霞市へ転居し、朝霞市内の公立小学校へ通う。しかし、転校先の学校に馴染めず、毎朝登校する振りをして家を出た後1時間ほどして家に帰り、実際には登校していない日々が続くようになった。尾崎が音楽に触れるきっかけとなったのは、兄が購入して使用されていなかったクラシック・ギターを手に取り始めた事であった。あらゆるフォークソング、シンガーソングライターの曲に興味を持っていた尾崎は、特に井上陽水の詞の世界のシチュエーションに強く惹かれていた。小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続けており、その間、井上陽水やさだまさし、イルカの曲をギターを弾きながら歌う日々が続いていた。小学校を卒業すると、本人の希望で練馬東中学校へ越境入学。生徒会副会長、文化祭実行委員長を務めたが、喫煙により停学処分が下る。高校受験では青山学院高等部に合格。さらに、陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも20倍の競争率を突破して合格した。しかし髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、すでに合格していた青山学院高等部に進学することになった。高校在学中には喫煙やオートバイでの事故などで停学、さらに、高校3年生の時に渋谷で同級生達と飲酒した挙句、同じクラスの女子生徒が一気飲みをし急性アルコール中毒で搬送、さらに大学生のグループとパトカーが出動するほど乱闘騒ぎを起こし、無期限停学処分を下される。これがオーディションを受ける契機となる。のちに停学処分は解けたが出席日数が足りず留年となり、自主退学。高校在学時には新聞配達と飲食店でのアルバイトをしていた。また、高校時代は剣道部に所属していた。その後、ジャケットを見ただけで何となく購入したジャクソン・ブラウンの「ランニング・オン・エンプティ」を聴いて衝撃を受ける。その影響で「町の風景」や「ダンスホール」などの曲が製作されたが誰にも公表せずにいた。高校2年の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎はCBSソニーが主催した『CBS SONY Sound Development Audition 1982』、ビクター主催のオーディションにそれぞれ応募し、CBSソニーのオーディションに合格する。デビューアルバムとなった『十七歳の地図』は初回プレスが2000枚ほどであり、事務所やレコード会社も積極的なプロモーションも行わなかったために、セールスは伸び悩んだ。しかし、その後口コミにより人気が出て、3rdシングル「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった。特に10代の頃は「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」「若者のカリスマ」などとも呼ばれた。校内暴力や学生による飲酒・喫煙が横行し、偏差値教育や受験戦争のひずみが露呈していていた時代世相と相まって一部の若者の間で社会現象となる。10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。10代の代弁者として一世を風靡した尾崎は、20歳になり方向性を見失い突然無期限活動休止を宣言し単身渡米する。当時曲を生み出せないことに苦悩していた尾崎は、何の収穫もないままその年の末に帰国する。そんな中で所属事務所が立ち上げたレコード会社移籍へ決定、プロデューサーの須藤ら懇意にしていた音楽スタッフとも離れてしまい、新しいアルバムの制作は何度も中断された。その後、新曲の発売がないまま1年半ぶりのライヴツアーが始まるも、9月に肉体的な疲労から倒れ、残りのツアーは中止となる。さらにはその年の暮れに覚せい剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷、バックバンド「Heart Of Klaxon」のメンバーとも関係が悪化する。復帰後リリースした「太陽の破片」がヒット、フジテレビ系列の『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演、そして東京ドームにて復活ライブを行うが、同時期に制作していたアルバム『街路樹』は発売延期を繰り返し、シングル『核 (CORE)』の完成度を含め満足のいく活動からは程遠かった。一方プライベートでは一般人女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、レコード会社を古巣のCBSソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。さらに個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を設立し、翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。だが同時に事務所やマスコミへの猜疑心は止むことはなく、尊敬する浜田省吾の個人事務所であるロードアンドスカイも短期間で契約を解除、個人事務所を立ち上げるも経営面の管理の他にプロモートからライヴスケジュール自ら取り仕切らなければならず、多忙な日々を送るなかで、再び精神的に追い詰められた尾崎は自殺を図るなど混迷を深めていった。その後、遺作となる『放熱への証』の制作に取り掛かるが、1991年末に母親が急死、交友関係も狭くなっていき、精神的状況はさらに悪い方向へ向かっていた。20代になってからの尾崎は、かつての「自由」「反支配」といったものとは違い、「真実の愛」「贖罪」「罪」といったものを主題にした歌を多く作っていった。1992年(平成4年)4月25日早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に見てもらった方がいい」と診断したが、尾崎は妻と兄ともに自宅マンションに戻る。しかし、10時ごろになって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。搬送先の日本医科大学付属病院で手当を受けるも、午後0時6分に死亡した。後日、雨の降る中、東京都文京区の護国寺にて葬儀、追悼式が行われ、参列者は4万人近くに上り、規模はHIDE、忌野清志郎、美空ひばり、坂井泉水、吉田茂に匹敵するものとなった。密葬は日蓮正宗にて営まれた。戒名は「頌弦院智心碩豊居士」、墓所は埼玉県所沢市にある。長渕剛は2003年、自身の番組『長渕剛のオールナイトニッポンフライデースペシャル・今夜もバリサン』で「尾崎は最後レコード会社からも見捨てられ、本当に孤独だったんだ。彼みたいな才能ある人間を業界は孤独にさせたらだめだ。」と語っている。クールで尖ったイメージのある尾崎だが、プライベートの尾崎は普通の明るい好青年であった。当時はロックバンド「OZONE」でボーカルとして活躍し、尾崎と同じCBSソニーに所属していた俳優の坂上忍は、インタビューで「尾崎はいつも暗い顔して写真に写ってたけど、プライベートはホントに明るくて。こっちのほうがよっぽど暗かったですから。『忍ちゃーん!』とか言って登場して来るぐらいですからね」と語っている。別の対談では、坂上は尾崎のファーストアルバムを聴いて「クドくない?」と思ったという。坂上は1度だけ尾崎と2人きりで飲む機会があったが、そこで尾崎から「もう曲が書けない」という本音を聞き、それでも尾崎が4人の中では最後まで歌い続けるだろうと思ったが、26歳の若さで誰よりも先に亡くなるとは坂上にも信じられなかったと語っている。2013年12月1日にWOWOWで放送された『尾崎豊デビュー30周年記念日-THE DAY』で、尾崎の曲のアレンジャーも務めたギタリストの町支寛二は「話を交わすときはいつも純真な青年ってイメージで。だから初めてライブを観に行ったとき、スイッチがひとつ入っちゃう感じに鳥肌が立ちましたね」と、RED WARRIORSの小川清史は「リハーサルの間に「実は尾崎、俺『Bow!』って曲凄く好きなんだ」って言ったら、顔をくしゃくしゃにして『本当?』って喜んでくれて」と語っている。1991年の「1991 BIRTH TOUR」のサポート・ベーシストを務めた渡辺茂は「初対面のときに、それまでいろんな仲間から変わってる奴だと散々聞いてたが、普段は礼儀正しくて大人しかった。でもステージの上では破壊的で、跳ぶわ、ピアノの上に寝るわでびっくりしました」と、サクソフォンを担当した関誠一郎は「服装は派手だけど、普通の人で、気さくな感じだ」と、パーカッションの里村美和は「熊本(熊本県・阿蘇で行われたロックイベントBEAT CHILDのこと)で僕が佐野元春とやってるときに初めてあったんだけど、真面目で礼儀正しいやつだと思った」と語っている。また、10代の頃は尾崎自身のカリスマ性やイメージを保つ為に、写真は全てモノクロームで掲載され、笑顔の写真も自粛された。尾崎のバックバンドは、ツアーやライブごとに名称やメンバーが異なっている。詳しくは「Heart Of Klaxon」を参照。尾崎の友人の1人として、デビューが同期の吉川晃司が挙げられる。2人は1984年8月5日に日比谷野外音楽堂で開催予定だった「TOKYO ROCKFEELING FESTIVAL」で共演しようとしたが、尾崎が前日の「アトミック・カフェ」出演中に足を骨折してしまい、実現しなかった。その後、無期限活動休止中の1986年1月31日にHOUND DOGの日本武道館での公演で吉川と共演している。吉川の他に、岡村靖幸、金山一彦、RED WARRIORSのメンバー、渡辺美里、川上麻衣子、白井貴子、中村あゆみ、南野陽子、白竜、村上龍、坂本龍一、米米CLUBの石井竜也、チェッカーズの藤井フミヤ、沢木耕太郎、筑紫哲也、元横綱の北勝海との交流もあり、大友康平、泉谷しげる、キラー・カーン、坂上忍、とんねるずの石橋貴明、中山秀征、加藤登紀子、小田和正なども素の尾崎を懐かしむコメントを出している。光GENJIとしてデビューする以前の大沢樹生とも、よく夜の六本木で遊んでいた。また、俳優・歌手の高橋克典は青山学院高等部の1年先輩で、さらにバレーボール全日本女子元代表・ロサンゼルス五輪銅メダリストの中田久美は練馬東中学校の同級生で、1年生時同じクラスメートだったという。弟分として、俳優の吉岡秀隆がいる。尾崎の影響を受け、曲作りを始めたという。吉岡が出演したフジテレビ系ドラマ『北の国から』では、尾崎の曲をBGMとして使ったこともある。生前、尾崎豊は自作の小説『幻の少年』を映画化することがあれば、吉岡を主人公にしたいと思っていた。オーディション受賞が同じだった辻仁成とはニューヨーク滞在時にも会っていて自身の悩みを相談していた関係であった。尾崎の公式ファンクラブは「Edge Of Street」と呼ばれており、1991年3月に設立された。ファンクラブでは同名の会報も発行されており、0℃から3℃までは尾崎自身が手がけていた。尾崎の死後も会報は発行されていたが、57℃をもって、発行を休止している。ファンクラブは尾崎の死後も活動を続けていたが、2005年末をもって、一旦休止している。公式サイトでは『2006年春以降に新しい形態でスタートする予定』と発表されているが、現在は新規入会を受け付けていない。「Edge Of Street」という名称については、会報の創刊号である「Edge Of Street 0℃」において、『浜田省吾が「ROAD」なら、自分は「Edge」だ。』と書かれている。尾崎の死後にはさまざま特集番組が放送されている。「BS2」・「BSプレミアム」では尾崎の特集番組が1999年からほぼ毎年放送されている。1998年(平成10年)「19651129-19920425」同じツアー内でも、ライブ会場によってセットリストは一部異なっていた。
出典:wikipedia
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