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民主進歩党

民主進歩党(みんしゅしんぽとう、(Mínzhǔ Jìnbù Dǎng)、台湾語: 、)は、中華民国の政党である。略称は民進党(みんしんとう)。イメージカラーは党章にも使われている緑。なお「緑」は、同党を指す用語としても使われている。中華民国が戒厳令下の中国国民党一党独裁体制で、政党結成の自由がなかった時代の1986年、国民党に批判的な勢力(いわゆる党外)が結集して設立した台湾史上初めての野党である。1989年に政党結成が解禁となって合法化されると、国民大会、立法院、地方で勢力を徐々に拡大して民主化改革を推進し、1994年に陳水扁台北市長を、1998年に謝長廷高雄市長を相次いで誕生させた。2000年総統選挙では陳水扁が当選し、半世紀にわたる国民党支配に終止符を打った。翌年には初の民進党籍の行政院長(首相)が誕生し、2001年立法委員選挙でも国民党を抜いて立法院比較第1党となった。しかし、陳水扁政権の汚職スキャンダルなどに対する不満から2008年立法委員選挙で大敗し、2008年総統選挙で与党の座を失った。その後は、蔡英文主席のもとで党の再建を図ったが、2012年総統選挙・2012年立法委員選挙の同時選挙で国民党に敗北した。党基本綱領(結成直後の1986年11月に制定、1991年に修正)で「台湾共和国の建設」を掲げている(いわゆる台湾独立綱領)。1990年代半ばから社会福祉や環境保護、反原発、人権、エスニシティなどリベラルな主張を掲げて国民党との対立軸を鮮明にするとともに、台湾独立問題でやや軟化し、1999年党大会で、台湾はすでに主権が独立した国家であるとの現状認識に立ち、現状を変更する場合は必ず住民投票によって決定しなければならないとする「台湾前途に関する決議文」を採択した。国民党の反対勢力を結集して成立した政党であるが故に、党内には多くの派閥が存在する。そもそもは「党外編輯作家聯誼会」(急進派)と「党外公共政策研究会」(穏健派)の2団体によって党が結成され、当初は「美麗島系」と「新潮流系」の2大派閥体制であったが、やがて海外独立派による「台独連盟」のほか、中間派の「正義連線」、「福利国連線」が相次いで生まれ、「美麗島系」も「新世紀」と「新動力」に分裂。こうして多派閥体制が形成されたが、現在は主義主張の違いはほとんどなく、党内権力闘争の手段になっているといわれている。李登輝ら国民党本土派が離党して結成した台湾団結連盟とは、当初は友好関係にあったものの、やがて主張が近いことからライバル関係となり、陳水扁政権のスキャンダル発覚後は疎遠となった。ただし、総統時代の李登輝によって見出された蔡英文が主席となった現在は、李登輝と民進党の接近ぶりが再び注目されるようになっている。1949年の中華民国政府の台湾移転後、台湾の党外活動家は民主主義と自由を求めた活動を断続的に行っていた。1979年に発生した美麗島事件で党外運動は最高潮に達し、当局により施明徳・黄信介らの多数の活動家が逮捕・投獄された。1980年代、党外勢力は傅正の自宅などに集まり、活動のための組織化を開始した。1986年9月28日、132人の党外活動家後援が台北市円山大飯店で開催されていた「党外後援会公認候補推薦大会組織」の席上突然結党が宣言され「民主進歩党」と命名された。結党当時は国民党の一党独裁および戒厳令の下で非合法とされたが、結党宣言に対し、当時の蒋経国総統は「民進党の結成は不法だが処罰はしない」とする方針を打ち出し、事実上黙認する姿勢をとった。1989年に合法化された。1986年に結党後初めての立法委員及び国民大会代表選挙で民進党は20%以上の票を獲得する。以降民進党は街頭デモを繰り返し、当局に対し戒厳令の解除、民主直接選挙の実施、公共政策の調整を主張した。初期の民進党は「本土政党(台湾在来政党)」、国民党を「外来政党」と位置づけていた。一方、デモなどの街頭活動により、「街頭党」と蔑視の意味を含めた名称で呼ばれることもあった。同年11月10日に開催された第1回全国党員代表大会では江鵬堅を主席に選出、台湾の前途は台湾により自由・自由・普遍・公正・平等の原則の下で決定されると規定する党綱領を採択した。1987年中華民国総統蒋経国により戒厳令が解除され、民進党は総統の直接選挙を主張した。この時期民進党は「四つのif」と称される決議文を採択し、国民党が台湾人の利益を損なう行為を行ったり、両岸統一などの4内容を実行する時、民進党は台湾独立を支持するとした。1991年の第5回第1次全国代表大会で正式に台湾独立綱領と称される新しい党綱領を採択、その中で民進党の基本は住民自決の方法により独立自主的な台湾共和国の建国を目指すと明言し、台湾独立を主要な政治目標として掲げた。1992年に行われた立法委員選挙では民進党は得票率33%、翌年の県市長選挙では得票率44%を獲得した。1994年の台北市長選挙では陳水扁は国民党候補の黄大洲と新党候補の趙少康に競り勝ち当選した。1995年5月、施明徳は主席に就任後、過去の過激な言動と決別する方針転換を行う。同年9月には民進党政権下では台湾独立を行う必要はないと言及、12月14日には新党と「大和解」の前提のもと会談を行い、許信良は「大胆西進」として中国と現実的に向き合う現実路線を打ち出した。1996年総統選挙では、民進党は初期の台湾独立指導者である彭明敏を候補者に擁立したが、国民党の李登輝候補が当選。施明徳は主席を辞任した。1997年県市長選挙では民進党は12県市で勝利したが、台北市長選挙では2期目を目指す陳水扁は、清廉なイメージで選挙戦略を展開したが、李登輝により新台湾人と評価された馬英九に敗れた。1999年は翌年の総統選を考慮し民進党は基本政策に大きな変更を加えた。「台湾前途決議文」を採択し、台湾は既に独立国家であるが、国号は「中華民国」とすると現状追認の政策を発表し、中間層の取り込みを図った。同時に圧倒的な知名度を誇る陳水扁を総統候補に、美麗島事件にかかわり、当時桃園県長を務めていた呂秀蓮を副総統候補に指名した。李遠哲の支持を得るなど、連戦・宋楚瑜を破り当選、初めての政権交代を平和的に実現した。民進党は政策実行経験と人材の不足から、与党としての地位を確立後、政治危機がたびたび発生した。政局の安定を図る陳水扁は国民党籍の国防部長唐飛を行政院長、游錫堃を副院長に指名したが、政権成立からわずかか3ヵ月後には「八掌渓事件」が発生し、事件の処理に手間取った結果4人の作業員が死亡、游錫堃は自ら引責辞職し張俊雄が後任となった。また「核四問題」では民進党は台湾の脱原発を政治理念としてきたが、原発推進派の唐飛がこの問題で行政院長を更迭され、張俊雄が後任に就任すると即時核四建設中止を発表。これが政治問題化し国民党により陳水扁に対する罷免要求に繋がった。民進党は妥協案として核四の建設続行を決定、これに反発する民進党内では前主席林義雄による反核四デモが発生した。またこの影響で株価が暴落するなど、経済的にも打撃を受けた民進党は、台湾独立志向の他勢力と緩やかな連合泛緑連盟を形成し政局を乗り切る政局運営が続いた。2004年の総統選挙では泛藍連盟の国民党主席連戦と親民党主席の宋楚瑜の選挙協力が成立、前回の選挙で票が割れた泛藍支持者の票を統合する選挙戦略を実施した。これにより選挙戦は激しいものとなり、民進党の再選が危機的な状況になった。しかし、2月28日の二二八事件記念日に行われた人間の鎖活動での盛り上がりなど、台湾独自性意識の高まりもあって、状況は民進党有利となり、最終的には得票率差わずか0.22%で陳水扁が再選された。投票前日の3月19日の319銃撃事件で陳水扁が銃撃される事件も発生した。これについては野党(当時)国民党は「自作自演で、陳水扁有利に働いた」と主張している。しかし、民進党陣営はその可能性を否定している。「拳銃で殺さないで傷を負わせるような狙撃をすることは不可能であり、また、中立的な世論調査機関『山水民意調査中心』の事件後の調査でも事件により投票行動を変えた人はほとんどいないことが証明されている」などという理由である。 2004年末の立法委員選挙で、陳水扁は民進党が101議席で過半数を占める躍進を目指し、「台湾新憲法」や「軍購案」等の重要議題を次々に発表した。しかし最終的には2議席増加の89議席にとどまり、これにより主席職を辞任、柯建銘を代理主席とし、翌年1月27日に総統府秘書長蘇貞昌を後任主席に選出した。この結果を受け、それまで協力関係に軋轢を生じていた総統府と民進党中央は和解の可能性を模索しはじめた。2005年2月高雄市長謝長廷を行政院院長に指名、「和解共生」で政府と党の団結を訴えた。また、2月24日には陳水扁は親民党主席の宋楚瑜と会談し、両岸関係、安全保障、台湾団結に関する10項目の共同声明を発表し政策協力を行うことを発表した。2005年末の三合一選挙(統一地方選)では政局運営で問題続出の民進党に対し、民衆からの支持率が高い馬英九を主席とする国民党が巻き返しを図り、12月3日の投票の結果、当選は南部6県市にとどまり、長らく民進党の牙城とされていた台北県、宜蘭県の議席を失うなど、結党以来の大敗北となった。選挙結果により蘇貞昌が主席職を引責辞職、代理として副総統の呂秀蓮が主席に就任するが、民進党内部からは呂の放言癖に対する反発が根強く、呂は辞任、2006年1月26日に新に游錫堃を選出して党内団結を図ろうとした。その後、陳水扁が総統と兼任する形で主席となったが、2008年1月の立法委員選挙で定数113議席のうち27議席しか獲得できず大敗を喫し、陳は主席を辞任した(後任は謝長廷総統候補)。さらに3月の総統選挙では党公認の謝長廷が国民党推薦の馬英九に敗れ、8年間続いた政権与党の座を失った。選挙結果を受け、謝候補は党主席の辞任を表明した。総統選挙後の2008年5月、民進党は党主席選挙を行い、国民党・李登輝政権下で行政院大陸委員会委員などを務めていた蔡英文を党主席に選出、党のイメージ回復を図った。立法委員の補欠選挙で連勝を重ねて徐々に党勢を回復、2010年11月に5つの直轄市で実施された地方選挙では台南市と高雄市で候補を当選させ、総得票数では国民党を上回ったが、蔡主席が出馬した新北市長選挙では惜敗した。蔡英文は2012年中華民国総統選挙でも馬英九総統の再選を阻止できず、2月末で党主席を辞任することが決まった。ダブル選挙となった第八回中華民国立法委員選挙では現有議席を上回る40議席を獲得したが、与党国民党を過半数割れに追い込むことができなかった。民進党は蔡英文の辞意表明を受け2月22日に陳菊高雄市長を代理主席に選出、2012年5月27日に行われた党主席選挙で元行政院長である蘇貞昌を主席に選出した。蘇首席の任期満了に伴って2014年5月に行われた主席選挙では、前主席の蔡英文が返り咲きを果たした。同年11月に行われた統一地方選挙では、激戦となった直轄市の市長選挙(6市)において、4市で国民党を制したほか、台北で同党が支持した無所属候補である柯文哲が当選するなど、躍進を果たした。2016年中華民国総統選挙でも民進党の勢いは続いた。蔡英文は選挙戦中の2015年11月の時点で国民党の朱立倫候補に対し支持率で大幅にリードし、1月の投票では国民党の朱候補に300万票の差を付けて圧勝した。同時に行われた立法院の選挙でも初めて過半数を制した。民主進歩党全国代表大会は党の最高意思決定機関であり、年1回中央執行委員会を招集して、党の綱領や党章を改定し、中央執行委員会委員などを選挙、或いは罷免する。中央執行委員会は常設の執行機関で、主席を含む35人の委員から構成され、中央執行委員会の委員を何人確保するかは党内各派の党争の焦点であり、中央執行委員の内14人は中央常務委員に兼任する。党主席は党員の直接選挙で選任され、任期2年、1回のみ再任が可能。中央評議委員会は党の全国代表大会で選出された11人の委員から構成され、党務を監督する。党中央部の下に国際事務部(中国事務部は2007年8月1日付けで国際事務部に吸収合併)、組織普及部、文化宣伝部、社会発展部、扶助発展部、青年発展部、族群事務部の8個の部と、財務委員会、政策委員会の2個の委員会と、世論調査センターと“台湾民主学校”を設置している。民進党は海外支部や地方支部などの下部組織を設立している。党員数は2006年の54万4515人をピークに漸減傾向にあり、2009年現在45万8551人。民進党は、元来、反国民党勢力の寄せ集め的な性格が強く(各地方に散らばっていた党外活動家を「党名のない党」=「党外」の名のもとに結集させたのがルーツ)、各人の立場や思想的な傾向は一枚岩ではない。1986年9月28日の結党時点でも、穏健派の「泛美麗島系」、急進独立派の「新潮流系」及び中間勢力の3大勢力が既に存在していた。1990年代になると、反体制活動家の「ブラックリスト」の廃止(1992年)に伴い海外の台独連盟の主要勢力が順次帰国し、その活動家が民進党に合流した。また、美麗島事件での弁護士らを中心とする中間勢力の中から「正義連線」及び「福利国連線」の2派が形成された。これらの動きがあり、従来の3派が5派へと拡大した。さらに1997年に泛美麗島系が「美麗島系」、「新動力系」、「新世紀系」の3派に分裂し、党内主要派閥は7派となった。その後派閥整理再編の動きが生じており、最近では新潮流系と正義連線、福利国連線とで党内3大派閥を形成している(最大派閥は新潮流系)。ただし、2006年7月23日の党大会で、党内派閥活動の禁止が決議されたため、表向き従来のような派閥事務所を閉鎖、派閥会合はできなくなっている。

出典:wikipedia

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