小瀬 甫庵(おぜ ほあん、1564年(永禄7年) - 1640年10月6日(寛永17年8月21日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての儒学者、医師、軍学者。『太閤記』『信長記』の著者として知られる。名は道喜(どうき/みちよし)、通称は又次郎、長太夫、甫庵は号である。甫菴、甫安とも。美濃土岐氏の庶流で、尾張国春日井郡の出身であるという。阪井(坂井)氏の養子となったといい、後に土肥氏を名乗り、最後に小瀬氏に改めた。はじめ医学と経史を学んで、織田氏家臣の池田恒興に医者として仕えた。恒興の死後は、豊臣秀次に仕えた。秀次の死後は堀尾吉晴に仕えて、松江城築城の際に縄張りも行った。吉晴死後は浪人となったが、播磨にしばらく住み、京都に移った。寛永元年(1624年)には子の小瀬素庵が前田利常に仕えた縁で加賀藩で知行250石を貰い、藩主の世子光高の兵学の師となり、諸書の著述に専念。医書などを刊行した。慶長16年(1611年)頃には太田牛一が著した『信長公記』を元に『信長記』(甫庵信長記とも)、寛永10年代には『太閤記』(甫庵太閤記とも)、他に『童蒙先習』『太閤軍記』『天正軍記』をそれぞれ刊行している。寛永17年(1640年)、死去。美作の日上山城主を務めた国人小瀬氏の一族、小瀬政秀の長子・小瀬秀正(官途名を中務ないし中務正。中務の唐名である中書とも)は別人である。宇喜多秀家に仕え、関ヶ原の戦いでの敗戦後に大隅国に逃亡し島津氏に匿われていた際、家老としてその折衝にあたっていた人物。加賀藩には旧宇喜多家臣が少なくなかったが、その一人堀部休庵の子で750石を知行した養叔の次男又四郎が甫庵の小瀬家に養子に入りその家を継いだと見られ、その話が不正確な形で備前に伝わって備前藩士土肥経平の書いた『備前軍記』で中務と甫庵の経歴が接合され、それを敷衍した『岡山市史』などで同一人物として扱われた結果、甫庵と中務が同一人物であるかのようにみなされた。現在では両者が別人であることが明らかになっている。甫庵はその生涯の大半で医学を食い扶持としていたが、現在有名である理由は主に著作した本による。現存する最古の活字本が甫庵の著した『蒙求』である他、太田牛一の『信長公記』を自分流に書き直した『信長記』は江戸時代に刊行され、一般的な書物として読まれるなど、高い文才を持っていたことがわかる。太田牛一『信長公記』が実証的著述姿勢で記録資料としての趣が強い一方で、甫庵の著書は儒教的価値観や自らの再仕官を意図し虚構を入れた性格の資料であることが指摘される。長篠の戦いにおける三段撃ちなど、彼の本から知られた逸話は多いが、これらはかなりの部分が創作ではないかと考えられており、同時代よりその誤りが指摘されていた。甫庵は太田牛一を「"愚にして直な"(正直すぎる)」と侮蔑の意を込めて評し、実際に牛一の『信長公記』が写本でしか伝えられなかったのに対し、甫庵の『信長記』は刊本として大いに流行り広く大衆に親しまれた。実証的歴史学においては、牛一『信長公記』を該当期の記録資料として活用する一方で、甫庵の『信長記』は文学作品として評価し資料価値を認めない傾向にある。
出典:wikipedia
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