島病院(しまびょういん)は、広島県広島市中区にある医院のかつての名称。1990年代に島外科になり、2009年8月以降は島外科内科になっている。1945年8月6日に投下された原子爆弾の爆心地で知られる。1933年に開業。当時より診療科は外科である。1945年の原子爆弾投下により壊滅したが、1948年、同所に再建された。1990年代に病棟を建て替えた際に病床数を減らし、病院から診療所になった。また2009年8月1日、医院名が「島外科」から「島外科内科」に改められ、診療科も若干変わっている。広島市への原子爆弾投下における爆心地として、各時代の史料に「島病院」「島外科」と記載されるが、これらは全て現在の「島外科内科」にあたる。1945年8月6日に原子爆弾(リトルボーイ)が投下された際、病院の上空でリトルボーイが炸裂したことが調査により判明したため、同所が爆心地とされている。島病院は、1933年8月31日、広島市細工町29-2(現中区大手町1丁目5-25)に外科病院として開院した。壁1m以上の頑丈なレンガ造りの2階建て、正面玄関両脇の円柱と丸窓を特徴とするモダンなデザインの病院であった。初代院長(被爆時の院長)は島薫(1897年 - 1977年)である。薫は安芸郡中野村(現広島市安芸区中野)で代々続いていた医者の家に生まれ育ち、旧制大阪医科大学を卒業、欧米での医学研究生活などを経て広島に帰郷、同所にて開業した。開業当時は大阪医科大学の後身である大阪帝国大学医学部(現大阪大学医学部)の講師も勤めていた。病院を建てる際には、アメリカ留学時代に感銘を受けたセント・メアリーズ病院(現メイヨー・クリニック)の運営方針を範とし、患者が低料金で治療・入院が受けられるように工夫したという。被爆前、細工町内には島病院を含め5つの医院があったが、島病院は安い治療代と「盲腸もすぐ治る」と噂されたほどの手術のうまい病院として評判であったと言われている。1945年8月6日、B-29「エノラ・ゲイ」から投下された原子爆弾「リトルボーイ」は、島病院南西側の上空約600mで炸裂した。原子爆弾の炸裂によって発生した、爆風と高熱によって病院は跡形も無く大破・炎上し、80人余の職員と入院患者は全員が即死した。しかし薫と付添いの看護婦1人は、前日の8月5日から世羅郡甲山町(現世羅町)にある知人の病院に出張診療(出張手術)に出かけていたため難を逃れた。電話連絡により市内が壊滅的破壊を受けたことを知り、また救援要請を受けた2人は、3人の患者のうち1人の手術を終えた後、直ちに広島市に引き返し、その日のうちに入市したが、激しい炎に遮られ、病院に帰着できたのは翌8月7日の午後であった。帰着した2人は瓦礫の下から夥しい数の白骨化した遺体を発見、焼け残った器具ケースの中にあった手術用具のみが島病院の唯一の痕跡であったという。薫は甲山の知人の病院から持ってきたわずかな救急用医療資材を持って8月6日の夜より、商工会議所前の広場(島病院より約300m、なお広島商工会議所は現在も同所にある)で被爆者の救護活動をはじめ、その後、救護所となった袋町国民学校(島病院より約460m、現広島市立袋町小学校)で被爆者の救護活動に従事したという。1948年、物資の乏しい中で木造モルタル2階建てで同所に再建された。薫は戦後、被爆についてあまり語らなかったという。現在の島外科内科名誉院長である島一秀(薫の長男)は「戦争中の話は母親から間接的に聞くだけだった」と語っている。なお一秀は原爆投下時、比婆郡西城町(現庄原市)に学童疎開しており、難を逃れた。薫は「私の新しい病院は平和と貧しき者、窮乏したる者を世話することにささげられている」という言葉を遺している。現在、島外科内科の玄関横の道路には、爆心地であることを示すモニュメントが設置されている。
出典:wikipedia
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