東映Vシネマ(とうえいブイシネマ)は東映ビデオ株式会社が1989年より制作・発売を開始した、劇場公開を前提としないレンタルビデオ専用の映画の総称。「V CINEMA(ブイシネマ)」は、東映ビデオ株式会社の登録商標である(登録番号 第2361224号)。Vシネマは当初、世良公則、名高達男、神田正輝、草刈正雄、大杉漣等のベテラン、香川照之、仲村トオル等の新進といった有名な俳優を起用したハードボイルドタッチの作品が数多く制作されたが、哀川翔が主演した『ネオチンピラ・鉄砲玉ぴゅ~』シリーズのヒットにより、次第に東映のお家芸である極道物やギャンブル物が主流となっていった。また、大御所の名優が特別出演をしているのも特徴である。西城秀樹主演の作品には丹波哲郎が出演(老刑事役で特別出演)、安藤昇(安藤が原作の作品もある)や東映Vシネマ2周年記念作品『ビッグボス BIG BOSS』と5億円の総製作費をかけた東映Vアメリカ作品『復讐は俺がやる DISTANT JUSTICE』には菅原文太が主演。(菅原は他の東映Vシネマにも特別出演をしている)また北島三郎も重みのあるやくざの親分役で2作品で特別出演している。往年のスター萩原健一も、1作品だけだが主演している。創成期の製作費は基本が6000万円で、うち宣伝費が20%であった。キャスティングに強烈なスターが出て、売れる見通しがあればもっと多かった。これは当時の東映の単館ロードショー作品と同程度の制作費であった。これは、Vシネマ開始当初は邦画不況時代であり、作品を劇場配給網に乗せる予算を制作費につぎ込むことにより作品のクオリティを維持しつつ制作を継続するという苦肉の策から生じたものであると言われていると同時に、当時、実質的に経営破綻状態にあった日活の製作スタッフに救いの手を差し伸べるという側面もあった。この試みは功を奏し、作品自体で収益を得ることに成功したのみならず、邦画黄金期のプログラムピクチャーと同じく、監督・スタッフ・俳優など現在に至る人材が量産体制の中で鍛えられ成長し、現在の映画・テレビ業界を背負う人材が多数輩出された。無名時代の遠藤憲一、豊川悦司、北村一輝、谷原章介、押尾学らの出演作もある。東映Vシネマが先鞭をつけ新しい映像作品としての地位を確立したことで、にっかつ、東北新社、バンダイ、ポニーキャニオン、東和、ジャパンホームビデオ、大映、松竹その他映画会社、ソフトメーカーが製作を開始、追随した。しかし、いつしかすべてのオリジナルビデオ映画が、先駆けとなった「Vシネマ」の呼称で認知されるようになった。当初、Vシネマのターゲットは男と決められていた。これは当時ビデオショップに来る女性も増えてはいたが、まだ圧倒的に男が多かったことによる。ターゲットは15、6歳から32、3歳くらいまでの男性客を対象とし、センターを20歳としている。1984年、ビデオ部門に移った東映ヘッドプロデューサー(当時)吉田達が、当時からビデオ・オリジナル作品の製作を着想していたのを始まりとする。当時の東映ビデオ社長・渡邊亮徳が推進した。ただ実際の製作にはふんぎりがついていなかった。脚本家だった大川俊道が30歳までに監督作品を作りたいと考えて、特殊効果のカタログみたいな作品を作りたいという構想を持っていたがテレビ朝日で放送されていた『ベイシティ刑事』のプロデューサー・武居勝彦が、大川に「ガン・アクションをやろう」と持ちかけてきたことで企画が動き出した。1988年、大川が世良公則と組んでガン・アクションに徹したビデオを作りたがっている、という話を吉田が耳にしたことで、第一弾『クライムハンター 怒りの銃弾』の製作が東映ビデオで決まった(1989年3月10日発売)。大川は「『ゲッタウェイ』や『ダーティハリー』みたいな映画を日本でやれないかと考えていて『仁義なき戦い』みたいな映画をやりたいわけではなかった」と述べている。吉田達がビデオレンタル店を回ったおり、5本も借りていく若いお客さんに「それ全部見るのか」と聞いたら、「早送りするから」と言われ、それなら早送りさせないものを作ってやろうと同作品は、通常の劇映画より短い60分で製作された。ところが先のビデオレンタル店のお客さんに感想を聞いたところ、「面白かったけど話にもう一展開欲しい」と言われたため、それ以降の作品は基本85分の長さで製作することになったという。東映は当時全国に13000ぐらいのビデオショップと契約を持っていて、店長試写会を開き10数箇所で計700人ぐらいに観てもらい、「この次は誰が欲しい」と店長の要望を聞き、例えば「岩城滉一が欲しい」と言われれば、それを掴まえて次作を作った。「皆さんの要望で作ったものだから仕入れてよ」と言いやすかったという。吉田はVシネマはビデオショップの店長の意見を多く取り入れたと話している。最初に『怒りの銃弾』を出した時には、初めから長期展望で繋がるとは思ってなく、恐る恐る始めた。『怒りの銃弾』が16000本ぐらい売れて利益が出て、吉田がセントラルアーツの黒澤満にも薦めたら、黒澤が仲村トオル主演で『狙撃 THE SHOOTIST』を製作、初回出荷は26764本出てこれも利益が出た。この2本のテストケースをみて1990年2月にオールハードアクションで10本の製作を発表。またこの頃『怒りの銃弾』がテレビ放映され15.7%の高視聴率を記録した。これを受け、1990年4月から月1本ずつ作品を出したが調子がいいので10月からは2本、東映本社から来る劇場作品がない月は3本、TVアニメもあるので月3~4本程度の製作を決めた。1989年2月頃、ビデオ用劇映画の製作が決まった際に、多くの俳優に声を掛けたが、「Vシネマで劇場公開はない」というと嫌がる俳優がほとんどだった。世良公則がやると言ったことと、世良主演で『怒りの銃弾』が成功したことで、その後多くの俳優が出演を希望するようになった。一年余りで特に若いユーザーが"Vシネマが面白い"と口コミで広がった。ビデオレンタル店は、1988年に頂点として翌年から減少に転じた。つまりVシネマは、始めからビデオブームの下り坂に向けて作られたジャンルであり、「ヤクザなファン層」たちの生き残りを確保した場所でもあった。また携わるスタッフや俳優そのものが、職場として生き残りを賭けた「ヤクザな連中」の吹き溜まりの様相を呈していた。Vシネマが始まったときの面々は、世良公則、仲村トオル、清水宏次朗、西城秀樹、渡辺裕之、宍戸開、又野誠治、哀川翔。「帯に短し、たすきに長し」な、なんとも微妙な人たち、悪役としてはまだアクが足りず、主役を張らせるには、若く、存在感も不足という人たちで、社会からあぶれたチンピラを体現する彼らは、その後の"アニキ"となる予備軍であった。吉田は「映画批評家も何人かの人を除いて今はVシネマに鼻も引っ掛けないような所があるけど。批評家は客が来ないような映画を褒めてるんだよね。初めの頃の東映のヤクザ映画路線みたいなものでね。なんだこれはと言ってるうちに客がどんどん増えて行って、いつの間にか批評書き始めたりするんだけど」と1990年のインタビューで話していた。実際1990年の後半から、「映画は映画館で観ろ」という主張の急先鋒だった批評家の一部に、「ヴィデオドラマはプログラムピクチャーの復活だ」と唱え始める者も出てきた。1989年3月発売された第一作の『クライムハンター 怒りの銃弾』はテストケースでタイアップはなかったが、同年8月25日発売された『狙撃 THE SHOOTIST』はTBSが制作費を半分出した。同年11月24日発売された『クライムハンター2 裏切りの銃弾』は東北新社が共同制作、初回出荷は20066本。1990年4月13日発売の宮崎ますみ主演『ブラックプリンセス 地獄の天使』は東洋レコーディングがタイアップ。1990年からは最初からテレビに放映権を売るということでテレビ局が主に出資した。1990年4月に製作を予定された10本中、半分をTBS、2、3本をテレビ朝日が出資した。東映ビデオは販売会社を全国11社でネットしているが、東映以外は市場提供するためには製作・流通の一部が欠け、アンバランスな状態が生じた。オリジナルビデオは東映だからこそ可能であったのである。吉田達は岡田茂の薫陶を受けた人物の一人で、「東映Vシネマ」は、岡田が仕掛けた「アクション映画」や「仁侠映画」、「エログロ映画」、「実録映画」、「東映セントラル」などの流れを汲むもの。アクションものが続くことによるマンネリ化を防ぐために、毛並みの変わったレーベルでリリースしたこともあったが、1,2作程度で終わった。本来はVシネマとして制作されたにも関わらず、単館上映されたためパッケージに「劇場公開作品」と記載した作品が増え、厳密な意味でのVシネマは減少の一途にある。レンタルビデオ市場も縮小傾向にあり、市場に投入してきたDVDにより、オンラインDVDレンタルや、特典映像を付加してDVDセル市場に力をいれる傾向にある。東映製作による特撮テレビドラマのシリーズ「スーパー戦隊シリーズ」のオリジナルビデオ作品「スーパー戦隊Vシネマ」のうち、VSシリーズでDVD化された作品には「スーパー戦隊Vシネマ」の表記とは別に、パッケージの背表紙に「東映V」の表記を用いている。ただし、一部の作品は「スーパー戦隊Vシネマ」の名称が用いられる前の「スーパー戦隊OVシリーズ」の表記を用いている。また、平成仮面ライダーシリーズ初のオリジナルビデオ『仮面ライダーW RETURNS』(2011年)や宇宙刑事シリーズ初のオリジナルビデオ『宇宙刑事 NEXT GENERATION』(2014年)といった往年の特撮テレビドラマのオリジナルビデオ作品にはパッケージの表紙に「東映V」の表記が用いられており、東映Vシネマの作品として制作されている。2014年は東映Vシネマ25周年と位置付けられ、厳選された名作Vシネマ25作品が「25th Anniversary 東映 Vシネ伝説」と題してDVDリリースされるほか、東映Vシネマ25周年記念作品『25 NIJYU-GO』が同年11月1日に公開された。この作品も上に記した様な「劇場公開作品」だが、主演の哀川翔ほか東映Vシネマで名を成した俳優たちが大勢出演し、Vシネ25周年を祝う。前述のとおり、Vシネマ創設時の製作費は6000万円とされているが、8000万円だったという証言もある。1991年、名取裕子主演・長崎俊一監督の『夜のストレンジャー 恐怖』が8000万円、撮影期間が20日間。その後さまざまな会社がVシネに参入して製作費のダンピング合戦となり、ケイエスエスが5000万円に製作費を下げた。この辺まではまだフィルムで撮れる余裕があった。やがてテレビ映画を撮っていたプロデューサーが参入してきて、連続テレビ映画のノウハウを活かし2本撮りで5000万円。撮影も三週間で2本の時代が続いた。黒沢清監督が「勝手にしやがれ!!」シリーズや「復讐」シリーズを撮っていた1990年代中頃。東映Vシネマ1996年、佐々木浩久監督の『GO CRAZY 銃弾を駆け抜けろ!』は、製作費1800万円、御宿の日活保養所で毎日徹夜で8日間で撮影した。製作費は下がり始めるとアクション中心のVシネマは減り、低予算で撮れるエロVシネマの時代がやってきた。これも当初はフィルムで撮っていた。他社はさらなる低予算でビデオ映画のノウハウを活かし、廣木隆一門下フィルムキッズを中心に若手の大量投入で傑作を量産した。製作費はどんどん下降して2008年頃は3500万円くらいになった。ギャラのトップは竹内力で、竹内のギャラは1本1000万円まで吊り上った。2008年頃の2時間ドラマで、製作費が5000万円なら、主演俳優のギャラは200~300万円が相場。テレビに比べVシネマの主演スターはギャラが破格だった。
出典:wikipedia
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