弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。弘前改称以前を鷹岡藩(高岡藩)、鷹岡移転以前を堀越藩ともいう。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名、幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は 弘前城(青森県弘前市下白銀町)に置いた。鎌倉時代の津軽は、北条氏の得宗領であり、得宗被官として送り込まれた津軽曾我氏や、津軽生え抜きの領主から地頭代官に抜擢された津軽安藤氏(安東氏)が支配した。曾我氏は、南北朝時代の元中年間(1380~92年)に、詳細は不明であるが根城南部氏によって滅んだとされ、また、安東氏は南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努めたが、15世紀半ば頃、糠部郡から勢力を伸ばしてきた南部氏に追れた。戦国時代初期、三戸南部氏の当主・南部信時は津軽地区を領国内に納めようと進出をおこない、延徳3年(1491年)に一族の南部(大浦)光信を津軽西浜種里城に配置し安東氏への押さえとするとともに、明応7年(1498年)に四男・南部(達子)光康を外浜堤ヶ浦に配置し「津軽郡代」とした。文亀2年(1502年)、種里城主・南部光信は新たに築いた大浦城に盛信を置き、大浦盛信は「大浦屋形」と称され、喜田、大浦を含む鼻和郡は勢力基盤となっていく。そして、天文15年(1548年)以降、三戸南部氏は当主・南部安信の弟南部(石川)高信を石川城に、南部政行を大光寺城に配置し、強力な支配体制を築き上げた。津軽氏は、元は大浦氏を称し、大永6年(1526年)、初代光信が没し、嫡男・盛信が跡を継ぎ、以後、三代は盛信の娘婿・政信、四代は政信の子・為則、永禄10年(1567年)婿養子として入った為信が五代目としてが継承した。初代藩主となる津軽為信は、もとは南部氏の被官であり、戦国末期に独立化を進め、天正18年(1590年)3月、浪岡城を囲み城代楢山帯刀を三戸に敗走させた際に、南部信直は為信討伐を九戸政実に命じるが病気と称して出馬せず、久慈政則・櫛引清長・七戸家国らも抑えたため、津軽への出兵を断念することとなり、為信の独立と津軽・外浜の領有は達成される。為信は、同天正18年7月の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して南部氏の領地を切り取る形で独立して、大名の地位を公認され、さらに、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が江戸時代を通じて津軽地方一帯を治めた。弘前藩の領地と石高は、当初陸奥国津軽領4万5,000石と関ヶ原参陣の功によって加増された上野国勢多郡大舘領(現群馬県太田市尾島地区など)2,000石の計4万7,000石。元禄2年(1689年)に黒石津軽家の分家が絶え、分知していた1,000石を召し上げられて4万6,000石となる。この際領内に生じた飛び地の天領を解消するため、元禄11年(1698年)に幕府との間で領地を交換し、大舘領を返上して陸奥国伊達郡秋山村(現福島県伊達郡川俣町内)を取得した。その後、9代寧親の代の文化年間に高直しがあり文化5年(1808年)に10万石となった。これに伴い従四位下昇進と大広間詰めが認められ、準国持ち大名に列することになった。この家格向上は蝦夷地警護役を引き受けることに対してなされたものであり、実際の加増を伴わないため藩の負担増ばかりを招いた。またこの家格向上により、対立関係にあった陸奥盛岡藩主・南部利用より寧親が上座となり、これに対する屈辱から盛岡藩士の下斗米秀之進が寧親の暗殺を計画した相馬大作事件が引き起こされた。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、当初奥羽越列藩同盟に属したが後に脱退、新政府に与して箱館戦争などで功績を挙げ、戦後に新政府より1万石を加増された。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により弘前県となる。同年9月、黒石県、七戸県、館県(現北海道)、斗南県、八戸県を併合、後日県庁の青森移転に伴い青森県に改称された。説教節では安寿は拷問によって非業の死を遂げるが、彼女を酷使し殺害した山椒大夫・山岡太夫らはいずれも丹後の国の者であったため、津軽領に丹後の人間が入ると安寿の怨霊によって災害が起こって人々を苦しめた。そこで江戸時代末期になってさえ、津軽藩では丹後の住人を忌避した。これは藩の公式の記録にも残っているが、事実は、津軽藩が自らの苛政を隠蔽し、領民の不満を丹後人に向けて逸らせようとする策であったという。参照:安寿と厨子王丸慶長12年(1607年)初代藩主・為信の死後、為信の三男・信枚と長男・信建の遺児・熊千代が藩主相続を争った騒動。熊千代を擁立したのは信建側近で信建・信枚の妹婿である津軽建広(旧姓大河内氏)で、彼は幕府に対し熊千代の藩主相続を訴え本多正信に訴状を提出した。訴状は正信に受け入れられ熊千代の相続が決定するかと思われたが、安藤直次がこれに反対した。結局直次の主張が容れられ、慶長14年(1609年)に幕府から信枚の藩主相続を認められた。それを受け、信枚は熊千代派の粛清を行い、金信則は自刃、津軽建広らは大光寺城に立て籠もったが、高坂蔵人の活躍によって落城した。また、村市館では、熊千代の母方の祖父一戸兵庫之助が、松野大学と激闘を繰り広げた。熊千代の叔父で豪勇で知られた一戸清三郎(一戸兵庫之助長男)は乾安儔の自宅へ招かれ、だまし討ちにされ殺された。後、熊千代は肥後の加藤氏に仕えたが病弱のため辞し、信枚から合力金を受けて江戸に住し若くして死去したと言われている。津軽建広は津軽追放を命じられ、江戸城に医師として仕えた。追放後も津軽姓を名乗り続け、『寛政重修諸家譜』にも弘前津軽氏、黒石津軽氏とともに記載されている。慶長17年(1612年)に2代藩主・津軽信枚と、津軽騒動で信枚側につき活躍した重臣高坂蔵人が、1人の児小姓を奪い合った騒動。騒動の発端は慶長17年2月27日津軽信枚のお気に入りの児小姓八木橋専太郎を高坂蔵人が久里九兵衛の屋敷に招き、幾度もの命令にも関わらず八木橋専太郎を帰さなかったため、八木橋専太郎を弘前城に呼びつけ殺した。そして、3月3日久里九兵衛の屋敷を攻め立て、久里九兵衛は寺に逃げ込み切腹して果てた。さらに、高坂蔵人の南部藩への脱藩計画も発覚、その翌日弘前城に挨拶に来た高坂蔵人を乾安儔、竹森六之助、東海吉兵衛、服部孫助、兼平源助が殺した。その知らせを聞き、屋敷を取り囲まれた高坂蔵人の家来たちは、屋敷に火をつけ、下町馬屋町の戸田茂兵衛の屋敷へ逃げ込み、鉄砲を弘前城に撃ち込んだため、またも屋敷を取り囲まれ、激しい斬りあいの末一人残らず討ち取られた。高坂蔵人の母・同士、連判の士80名余りの家族・親類・縁者が斬罪になり、逃亡する家臣も多数出たため、弘前藩の家臣数が半分にまで減ったといわれている。寛永11年(1634年)、3代藩主・信義の時に起こったお家騒動。2代藩主・信枚の側室・辰姫は藩の飛び領地上野国大舘で暮らしており、3代藩主となる信義も大舘で産まれ育った。その時乳母となったのが旧宇喜多秀家家臣・船橋半左衛門の妻である。元和9年(1623年)に辰姫が死去したため、信義は江戸弘前藩邸に引き取られ、信枚の死後の寛永8年(1631年)に13歳で藩主となった。それに伴い信義が幼少の頃から近侍していた船橋半左衛門親子の権力がにわかに強力となる。藩内では元々古参の譜代家臣と新参者の家臣の間に対立が生じており、これを契機に新参家臣らが船橋半左衛門に集まって、双方の対立は決定的となった。同10年(1633年)10月、信義が津軽領内へ初国入りした際に船橋も供をし同時に入国したが、領内高杉村まで出迎えた国許家臣らに対し、船橋は下馬もせず、挨拶もなかったため、彼らの怒りを買ったと伝わる。12月に船橋は1,000石が与えられ、一方これまで国許で政務を執ってきた譜代の家老、兼平信孝と乳井建定が家老職を罷免された。寛永11年(1634年)7月、信義は3代将軍徳川家光の上洛に同行、翌月江戸藩邸に帰りつく。この時譜代派の家臣が江戸の町家に立て篭もり「船橋半左衛門らの放逐」を藩に求めた。藩は説得にあたったが失敗、結局幕府が介入し藩主・信義、船橋派の代表、譜代派の代表らを喚問して騒動解決をはかった。裁定が下ったのは2年後の寛永13年(1636年)、信義は若年であり態度も神妙であることから咎めはなく、喧嘩両成敗として譜代派中心人物の乳井建定・兼平信孝は長門の毛利家、船橋半左衛門・長仍親子や乾安儔らは伊予松山藩松平家の松平定行にお預けとなった。正保4年(1647年)、3代藩主・信義を強制隠居・嫡子信政を廃嫡させ、信義の異母弟で幕府旗本で幕府の覚えも良い信英を藩主に擁立しようとする主君押込の企てがあった。計画段階で信義へ密告があり、大きな騒動となる前に防がれている。(この密告者は信英の弟・津軽百助信隆と家老の北村宗容だとされている。)異母弟(信光、為盛、(大道寺)為久)や妹婿すらも処罰したが、信英の身柄については、信英本人の関与が明らかでないこと、既に幕府直参旗本の身分であったために津軽藩の自由にはできないこと、信義自身が信英に好意的であったことからなにも咎められなかった。企ての背景には複数の要因があったとされる。そのうち主なものは以下のようなものである。関係者は流罪や切腹となったが、告発したとされている一人の北村宗容は翌慶安元年(1648年)1月17日、弘前城中で遺恨を持った村山七左衞門(村山滋朝)により殺害されている。村山は元・信英擁立派であり、処罰の際の同派の仲間の切腹の際、村山が介錯を命じられていた。元禄2年 (1689年)、 4代藩主・津軽信政の異母弟である津軽信章(津軽兵庫)は、一族を引き連れて出羽久保田藩との藩境にある石の塔を通り、無断で久保田藩へ越境(亡命ないしは逐電)を試みた。連絡を受けた津軽家や幕府の指示で津軽兵庫と一族は久保田藩から弘前藩へと呼び戻され、家族は別れ別れにされて生涯蟄居の身となった。一族は待遇面でも経済面でも苦しく、悲惨な最期を遂げた。越境の理由にはいくつかの説があるが、藩主の信政との不和や、山鹿系家臣を優遇する信政の偏った人事に対する不満から、津軽藩を出て久保田藩ないしは紀州藩に仕えようとした、などと言われている。盛岡藩南部氏は、戦国時代から弘前藩津軽氏と確執を抱えていた。津軽氏は元々、南部氏の分家・大浦氏であったが大浦為信のときに独立した(もともと大浦氏に従属意識は薄かった)。その際に盛岡藩初代藩主となる南部利直の祖父にあたり、南部氏家中の重臣でもあった石川高信らが討たれている。その後の中央工作によって大浦氏は津軽氏と名乗った上で豊臣政権から正式に独立大名として認められてしまったため、南部氏の主張していた領地は大幅に減少することになった。この遺恨は江戸時代も続き、弘前藩主津軽氏の参勤交代は南部領を一切通らずに行なわれ、江戸在府期間も原則として両家は重ならないように配慮され同席させられなかった。江戸後期には南部家の家臣による津軽当主暗殺未遂事件(相馬大作事件)の遠因にもなった。弘前城東門近くの弘前文化センター正面入口前に、太平洋戦争時に撤去された初代藩主・津軽為信像が再建された2004年時点でも、落成行事に石川高信の居城があった石川地区からの集まりが悪く、主催者側からも特に催促はされなかったという。外様 4万7,000石→4万6,000石→7万石→10万石幕末、弘前・黒石両家で藩祖為信の血統が途絶えたため、この家から血統の復活がはかられた。弘前藩の支藩に、陸奥国津軽郡黒石(現在の青森県黒石市)に置かれた黒石藩(くろいしはん)がある。黒石藩は本家4代藩主信政が藩主就任時幼少だったため、幕府の指示により叔父の信英(3代藩主・信義の弟)を本藩の後見人とすべく、明暦2年(1656年)信政が本藩を継ぐと同時に弘前藩より5,000石を分知されたのに始まる。旗本黒石八代目となる親足の代に至り、文化6年(1809年)弘前本藩より更に6,000石の分与があり、1万石の外様大名として柳間に列した。居城は黒石陣屋(黒石城)。信英は分知の際、賀田・猿賀・青森を希望したが叶えられず、津軽家の為信時代の拠点の一つ、黒石に配されたと伝わる。5,000石の内訳は、黒石周辺2,000石、平内周辺(現青森県東津軽郡平内町)1,000石、弘前藩の飛び領地上野国大舘(現群馬県太田市尾島地区など)一帯2,000石。また、歴代当主(政兕以降)は、本家である弘前藩主(上記)からの偏諱を受けている。幕末の戊辰戦争では本家の弘前藩と行動をともにした。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により黒石県となる。同年9月、他県とともに弘前県に合併し、現在の青森県の一部になった。交代寄合 5,000石→4,000石外様 1万石弘前藩は、明治維新後に、いったん開拓使直轄領となった後志国島牧郡の一部が再び所領に加わった。
出典:wikipedia
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