LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

竈山神社

竈山神社(かまやまじんじゃ、釜山神社)は、和歌山県和歌山市和田にある神社。式内社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。和歌山市南部、竈山の地に鎮座する。「竈山」とは『古事記』『日本書紀』に見える地名で、両書では神武天皇(初代)長兄の彦五瀬命(五瀬命)が竈山に葬られたという。当社はその彦五瀬命の神霊を祀る神社であり、本殿の背後には彦五瀬命の墓と伝える竈山墓(かまやまのはか、宮内庁治定墓)がある。明治初期までは小さい神社であったが、戦前の国家神道の発展に伴って最高の社格である官幣大社に位置づけられ、社殿等が整備されて現在に至っている。また境外摂社として、式内社(名神大社)である静火神社を所管する。祭神は次の通り。主祭神配祀神祭神の彦五瀬命は神武天皇(初代)の長兄にあたる。『古事記』『日本書紀』によれば、神武天皇の東征の際に行軍した彦五瀬命は、孔舎衛坂(くさえざか)で長髄彦の軍との戦いで流矢にあたって負傷、その後雄水門(おのみなと、男之水門)で崩御、のち竈山に葬られたという。この彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定されている。天正の兵乱で文書が散逸したため竈山神社・墓の由緒は明らかでないが、『紀伊続風土記』では当地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「竈山神社」と記載され式内社に列しているほか、『紀伊国神名帳』では「従四位上 竈山神」と記載されている。また『延喜式』諸陵寮では「竈山墓」の記載も見える(後述)。永徳元年(1381年)の日前宮文書では、鵜飼新五郎の紀国造家からの神主補任の記載があり、以降中世を通じて鵜飼家が神職を世襲していたとされる。天正13年(1585年)の羽柴秀吉による紀州攻めでは社宝・古文書を焼失、社領の神田8町8段も没収されたという。慶長5年(1600年)に紀伊国に入った浅野幸長によって小祠が再建され、寛文9年(1669年)に初代紀州藩主・徳川頼宣によって社殿が再建された。しかし江戸時代を通じて寺社奉行の支配下に置かれたため、氏子・社領なく衰微したという。明治6年(1873年)に近代社格制度において村社に列した。その後、明治18年(1885年)4月22日に官幣中社、大正4年(1915年)11月10日に官幣大社に昇格した。村社から官幣大社まで昇格したのは、竈山神社が唯一の例である。昭和13年(1938年)頃、現在の規模の社殿が整えられた。戦後は神社本庁の別表神社に列している。神職は明治まで代々鵜飼家(うがいけ)が世襲した。鵜飼家は、『古事記』において吉野川(紀の川)で魚を取ったと見える人物・贄持之子(苞苴擔之子、阿陀之鵜飼の祖・阿太養鸕部の祖)に始まるという。古くは永徳元年(1381年)の日前宮文書で、鵜飼新五郎の神主補任の記載が見える。鵜飼家文書によれば弘治年間(1555年-1557年)の鵜養半太夫まで79代を数えたという。一族は官幣中社列格の際に禰宜を任じたが、数年で郷里を出たため91代で社家としては断絶した。『延喜式』諸陵寮では竈山墓に守戸3烟があったと記すが、この3烟とは鵜飼・木野・笠野の墓守3家を指すという。境内の広さは34,979平方メートル(約3.5ヘクタール)。現在の社殿は昭和14年(1939年)の造営。現在は竈山墓の南側の丘上に鎮座するが、かつては東南約100メートルの地にあったという。本殿は春日造檜皮葺。その左右には脇殿がある。そして南に中門を隔てて、流造の幣殿・拝殿が建てられている。竈山墓(かまやまのはか)は、竈山神社の本殿後背にある古墳()。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により彦五瀬命の墓に治定されている。公式形式は円墳。高さ約9メートルの独立丘上に位置し、墳丘は直径約6メートル、高さ約1メートルで、裾に護石を配する。『古事記』『日本書紀』では、彦五瀬命は「紀国之竈山」または「紀伊国竈山」に葬られたと記載されている。『延喜式』諸陵寮では「竈山墓」と記載され、紀伊国名草郡にあり、兆域(墓域)は東西1町・南北2町で守戸3烟を付して遠墓としている。『延喜式』において紀伊国唯一の陵墓である。その後康和2年(1100年)の解状では、紀伊国等の陵墓は格式に規定されているにも関わらず、国司によって兆域侵犯や陵戸収公が行われていると記している。上記の記録があるものの、その後竈山墓の所在地は不明となった。『紀伊続風土記』では寛文9年(1669年)に区域を定めて殺生を禁じたというが、これは神社の区域を定めたものであり、竈山墓の所在自体はなお不明であった。寛政6年(1794年)に本居宣長とともに竈山神社を参拝した本居大平は、所在不明の旨を「なぐさの浜づと」に記している。明治9年(1876年)に現在の古墳が「竈山墓」に治定され、明治14年(1881年)に修営された。静火神社(しずひじんじゃ/しづひじんじゃ)は、竈山神社の境外摂社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。伊達神社(和歌山市園部)、志磨神社(和歌山市中之島)とともに「紀三所社(きのさんしょしゃ)」と称される。祭神は次の1柱。社家・鵜飼氏の文書では、祭神は火結神とされていた。別説として、『続風土記』では「紀三所社」が伊太祁曽三神(五十猛命・大屋都比売命・都麻都比売命)を分祀するとし、静火神社祭神を都麻都比売命に推定する。一方、「木の国」である紀伊国の「鎮火の神」であったとする説もある。また『住吉大社神代記』では、住吉大社摂社の船玉神社が紀氏の神であり「志麻神・静火神・伊達神」の本社であるとしている。静火神社の創建は不詳。国史では、いずれも伊達神・志摩神(志磨神)とともに承和11年(844年)に正五位下、嘉祥3年(850年)に従四位下、貞観元年(859年)に正四位下、貞観17年(875年)に従三位の神階昇叙の記事が記載されている。『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「静火神社 名神大」と記載され名神大社に列しているほか、『紀伊国神名帳』では「正一位 静火大神」と記載されている。いずれも竈山神社に比して上位である。静火神社は伊達神社(和歌山市園部)、志磨神社(和歌山市中之島)とともに「紀三所社(きのさんしょしゃ)」と称されたとされる。「紀三所社」の記載は、永承3年(1048年)の収納米帳を初めとして、『中右記』天仁2年(1109年)条、『梁塵秘抄』四句神歌等に見える。『住吉大社神代記』では紀三所社の由来について、神功皇后が三韓征伐に用いた船3艘を武内宿禰に祀らせたことによるとする。また、当地の和田村はかつて日前神宮・國懸神宮の神領であったため、静火神は同神宮や紀伊国造家に深く関係した。同神宮境内に祀られている草宮では、9月15日に静火神が神幸して静火祭が行われたという。静火神社は、元は現在地の東約200メートルの地に鎮座した()。『続風土記』によると、静火神社は永仁年間(1293年-1299年)以前に廃絶したとされるが、長享元年(1487年)の日前宮文書には粢散米1斗を静火神社にあてた記載がある。『南紀徳川史』によると享保8年(1723年)頃までには廃絶しており、同年に和歌山藩によって薬師山(前山・天霧山;現社地)に社殿が再建され、竈山神社が管理したという。明治6年(1873年)に近代社格制度において村社に列したが、明治42年(1909年)に竈山神社末社の稲荷神社に合祀された。昭和25年(1950年)、元の薬師山に社殿が造営され遷座した。なお神階は次の通り。所在地交通アクセス注釈原典出典

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。