鉄剣・鉄刀銘文(てっけん・てっとうめいぶん)は、鉄製の剣または刀に記された文字資料のこと。本項では日本の古墳からの出土品と石上神宮伝世の七支刀について述べる。なお、ここでいう剣は両刃、刀は片刃の武器を指す。これらは5世紀前後の古墳時代の情報を知るための貴重な史料である。特に稲荷山古墳出土の鉄剣銘文は文字数が多い。稲荷台1号墳は千葉県市原市の養老川下流域の北岸台地上に営まれた12基からなる稲荷台古墳群中の1基であり、径約28メートルの円墳である。同古墳には2基の木棺が納置され(中央木棺と北木棺)、鉄剣は中央木棺から検出された。鉄剣には、銀象嵌で、表面に「王賜□□敬□(安)」、裏面に「此廷□□□□」と記されている。鉄剣に紀年が記されていないが、木棺に収められていた鋲留短甲と鉄鏃の形式から5世紀中葉と見られている。銘文を読み下すと、「王、□□を賜う。敬(つつし)んで安ぜよ。此の廷(刀)は、□□□」となる。内容は、王への奉仕に対して下賜するという類型的な文章で、「王から賜った剣をつつしんで取るように」ということである。被葬者は2人の武人であり、房総半島の一角に本拠をもつ武人が畿内の「王」のもとに出仕して奉仕し、その功績によって銀象嵌の銘文を持つ鉄剣を下賜されたものと考え、銘文中の「王」を倭の五王のうちの「済」(允恭天皇)とする説が有力である。しかし和歌山県の隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡の銘に「大王」の記述が見られ、この鏡の銘の癸未年を443年とすると允恭天皇は「大王」を名乗っていたと推測されることから、「王」を上海上の首長である対岸の姉崎二子塚古墳の被葬者とみる説もある。ほか、銘文の特徴としては、「王賜」の画線が他の文字よりも太く、文字間隔が大きい。また「王賜」の二字が裏面の文字より上位に配置されている。こうした書き方は、貴人に敬意を表す時に用いる擡頭法(たいとうほう)という書法である。1968年(昭和43年)、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣である。全文115字からなる金象嵌の銘文が記されている。全長73.5センチメートル、中央の身幅3.15センチメートル、鉄剣の表裏に金象嵌の115字の銘文、表に57字、裏に58字が記されている。タガネで鉄剣の表裏に文字を刻み、そこに金線を埋め込んでいる。優れた技術者がいたと推測される。115文字という字数は日本のみならず朝鮮・中国の例と比較しても多い。日本で作られたと考えられる古墳時代の他の銘文について字数が多い例は、熊本県江田船山古墳出土の大刀銘75字、和歌山県橋本市隅田八幡神社所蔵の鏡銘48字などがある。辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。通説通り辛亥年が471年とするとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王とは、大長谷若建(おおはつせわかたける)命・大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)・雄略天皇であり、あるいは『宋書』倭国伝にみえる倭王武であると比定される。大王という称号が5世紀から使われたことの確実な証拠となる。ヲワケが地方豪族であるか中央豪族であるかの判断など研究者で意見が分かれる。加多支鹵大王とはヤマトと異なる関東の大王だとの説も有り、それによるとヤマトの支配権は関東に及んでいなかったことになる(古田武彦説)。銘文「意冨比垝」の「意」・「比垝」は百済の用字法にもある。『三国史記』百済本紀 513 年の条に、日本人 穂積臣押山(穂積押山)の名が「意斯移麻岐彌」と記されている。また、『日本書紀』神功皇后 47 年 4 月の条に「百濟記に職麻那那加比跪と云へるは、蓋し是か」、同 62 年の条に「百濟記に云はく……貴國沙至比跪を遣はして之を討たしむ」とある。「垝」と「跪」とは同音である。また「辛亥年七月中記」の「中」は、朝鮮古漢文でも758年頃に用法としてある 。「多沙鬼獲居」の「多沙鬼」は、『日本書紀』神功皇后 50 年 5 月の条に見える「多沙城」に由来する名と推定される。「多沙」は任那の地名である。 →城 (き)ほか、「百練」以外の常套句・吉祥句がない。「辛亥年七月中記」中国的要素が強い。ヲワケの祖先八代の系譜を記している。ヲワケ一族の伝統とこの鉄剣を作った理由を記している。ヲワケの臣の父(カサハヨ)と祖父(ハテヒ)には、ヒコ・スクネ・ワケなどのカバネ的尊称がつかない。部民制の用例がみられない。ヲワケの臣。すでにウジ(氏)とトモ(伴・部)の成立がみられる。当時の倭国の人名・地名を漢字音で表記している。獲加多支鹵大王のもとに中国語に精通した記録者の存在を示している。宮崎市定は「記す」の繰り返しは漢文として稚拙であるから最初の「記」は氏族名であり「記のヲワケ臣」が人名であるとした。また古事記中巻・崇神天皇のオホタタネコの系譜の最後に一人称「僕」が現れる例を挙げ、ヲワケの父の名はカサヒヨでなくカサヒであり、「余」は「われ」の意味だとして「余は其の児にして名はヲワケ臣」と読んだ。また「寺」(政庁)と「宮」の重複も不自然で、「寺」は「侍」(サムライ、貴人に仕えること)の略であるとして「奉事し来たりて今のワカタケル大王に至る。(私ヲワケ臣が)侍してシキの宮に在りし時」と読んだ。さらに「吾」の繰り返しも稚拙であり、「吾左治天下」の「吾」は本来は「為」の字で「天下を治むるを佐けんが為に」と読むべきとした。宮崎は著書の中で、最初に発表されたレントゲン写真では「為」に近い形であった文字に補修者が手を加え、「吾」という文字を創作したと述べ、写真を載せて非難した。1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(たまなぐんなごみまち)にある江田船山古墳から、全長61メートルの前方後円墳で、横口式家型石棺が検出され、内部から多数の豪華な副葬品が検出された。この中に全長90.6センチメートルで、茎(なかご)の部分が欠けて短くなっているが、刃渡り85.3センチメートルの大刀(直刀)があり、その峰に銀象嵌の銘文があった。字数は約75字で、剥落した部分が相当ある。ワカタケル大王(雄略天皇)の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。八月に大鉄釜で丹念に作られためでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿であって、子孫まで栄えて治めることがうまくいく。 大刀を作ったのは伊太□(ワ)で、銘文を書いたのが張安である。かつては「治天下犭复□□□歯大王」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説が有力であったが、1978年に埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に金象嵌の銘文が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)とする説が有力となった。この説によれば、金象嵌の鉄剣と銀象嵌の鉄刀が製作され、それらを下賜された人物が、北武蔵野稲荷山古墳と肥後の江田船山古墳に埋葬されたことになる。この銘文には、治天下、八十たび、十握などの強い日本調が混じっている。大王と王恩、四尺と一釜、十握と三寸などの前後を対応照応させて、漢文の本来の手法を巧みに利用している。年号はない。『宋書』倭国伝に引く倭王武の上表文にみえる「」(東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国)の表現に対応するかのごとくである。1984年(昭和59年)、保存修理中だった島根県松江市大草町岡田山1号墳出土の鉄刀に銀象嵌の銘文が見出された。大正年間に出土した時はには完全であったが、その後刀身の半分が失われたために銘文もわずか末尾の12文字しか残っているに過ぎず、しかもさびが進んでいて解読できる文字が少ない。確実なのは、その中の「各田阝臣」の四字だけであった。「各田阝臣」は「額田部臣(ぬかたべのおみ)と読む。この太刀の出土した場所などから、額田部臣は出雲臣と同族であり、その地域の部民の管理者であったと考えられている。(→部民制)1984年(昭和59年)兵庫県養父市八鹿町(ようかちょう)小山の箕谷2号墳から鉄刀が出土した。現存長68センチメートルほどの鉄刀の佩裏(はきうら)に「戊辰年五月□」の銅象嵌で記されている文字が見つかった。おそらくこの刀が造られた年紀と考えられる。この「戊辰(ぼしん)年」は、西暦608年と推定されている。1962年(昭和37年)奈良県天理市の東大寺山(とうだいじやま)古墳から金象嵌の長さ110センチメートルの鉄刀が検出された。推定銘文は、次の通りである。「中平□□ 五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿 □□□□」文の内容は、「中平□年五月丙午の日に、この銘文を入れた刀を造った。よく鍛えた鋼の刀であるから、天上では神の御意にかない、下界では災いを避けることができる。」という意味である。中平とは、霊帝の治世の184年 - 189年の期間の年号である。この頃は、『魏志』倭人伝には、倭国乱れ互いに攻伐し合い、長い間盟主なく、のち卑弥呼が王となる、とある。「五月丙午(へいご、ひのえうま)」とは、盛夏を意味し、刀剣や鏡などの金属器を造る時、太陽から火を採る最適の日と考えられている。実際の日の干支とは関係なく刻まれる吉祥句(常套句)である。日本の箕谷の鉄刀にも五月と刻まれている。東大寺山古墳は全長140メートルの前方後円墳で、4世紀後半頃に築造された。刀には環状の柄頭(つかがしら)が新しくつけられていた。この柄頭は、三葉環頭と称されるもので、埋葬の直前に付け替えられたと考えられる。約200年も経て埋葬された。下賜された人物とその子孫が権威の象徴として「伝世」したともみられる。七支刀は、神功皇后の時代に百済の国から奉られたと伝えられ、奈良県天理市石上神宮に保存されていた。七支刀の名は、鉾に似た主身の左右から三本ずつの枝刃を出して計て七本の刃を持つ形に由来すると考えられる。主身に金象嵌の文字が表裏計61字記されているまたまた表面にある年紀の解釈に関しては未だ定説はないが、「泰和四年」として369年とする説、泰■四年を「泰始四年」として468年を当てる説がある。宮崎市定は「泰■四年■月」を「泰始四年五月」として解釈し、次のように読解した。表面は、製作の年月、鋳造に関する決まり文句(慣用的な吉祥句)。裏面は、倭王に贈るために百済において製作したと書いている。百済王の近肖王(太子の近仇首王=貴須王)から倭王の「旨」のために造った、との解釈もある。また、『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年?)九月丙子の条に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。この頃の書紀の記述は丁度干支二巡分(120年)年代が繰り上げられているとされており、訂正すると372年となって制作年の太和(泰和)四年(369年)と符合する。千熊長彦は『百済記』によれば、「職麻那那加比跪」と表記され、367年に新羅が百済の貢ぎ物を奪ったため、千熊長彦が新羅を責めたとあり、またその二年後の369年に千熊長彦が新羅を伐ち、比自火本、南加羅、安羅、多羅、卓淳、加羅などの七カ国を平定し、また比利、布弥支、半古などの四つの村を平定したとある。倭国によるこれらの事蹟に対して百済肖古王が、久氐らを派遣した。なお、石上神宮は、朝廷の武器庫であり、多くの武器を宝蔵したともされる。七支刀もその一つ。
出典:wikipedia
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