罪の女(つみのおんな)は日本語で定着した言葉ではないが、英語で the Sinner と大文字で書くと、「悔悛した罪の女」、マグダラのマリアの異名となる。単なる罪人(つみびと)ではなく女性の、とくに性的不品行に結びつけられ、娼婦をも意味する。由来はカトリック教会において、ルカによる福音書に登場する「罪深い女」がマグダラのマリアと同一視されたことによる。ヨハネによる福音書に登場する 姦通の女あるいは姦淫の女も同一視されることも多い。他方、正教会にはこのような同一視は存在しない。「マグダラのマリア」の項目も参照のこと。よく似たエピソードは他にも福音書に登場する。ベタニアの無名の女性がイエスの頭に香油を注いだ 。あるいはベタニアのマリアがイエスの足に香油を注ぎ、イエスの足を自らの髪で拭った。イエスに香油を塗る行為は、イエスがキリスト(メシア=油を注がれし者)として祝福されること、あるいは近く来たるべき喪葬を暗示する。実際のイエスの喪葬には、マグダラのマリアが香油を用意した。香油にまつわるこれら3人あるいは4人の人物を、591年、グレゴリウス1世 (ローマ教皇)は同一人物とした。「罪深い女」とマグダラのマリアを同一視するもうひとつの理由は、彼女が「七つの悪霊を追い出していただいた」と紹介されていることにもよる。この「七つの悪霊」を、グレゴリウス1世は七つの大罪に当てはめた。このため、マグダラのマリアはベタニアのマリアと、また「罪深い女」と同一視され、「罪の女」(the Sinner)と大文字で書かれる異名を受けることとなった。悔悛した罪人(つみびと)の代表であるばかりでなく、女性の、とくに性的不品行に結びつけられ、娼婦をも意味する。マグダラのマリアは更生した娼婦の守護聖人となり、13世紀には娼婦や性的なトラブルに遭った女性の保護あるいは更生施設として、聖女マグダラのマリアの名を冠した修道院がヨーロッパ各地に設立される。「magdalene」 と小文字で書く聖女の名は、こうした更生した娼婦を意味することともなった。映画にもなった『マグダレンの祈り』は、アイルランドに最近まで存続していた聖メアリー・マグダレン修道院を舞台とする。カトリック教会では、1969年、パウロ6世 (ローマ教皇)の下で見直された「ミサの朗読配分」において、聖女マグダラのマリアの日に読むべき聖書の一節を、これまでのルカによる「罪深い女」の節から、ヨハネによる福音書を用いて、マグダラのマリアが復活したイエスと出会う場面に変更した。わずかながら聖女の名誉回復の一歩となった。「罪深い女」、ベタニアのマリア、マグダラのマリアを同一人物としたのは、もともとカトリックに特有の教義であったので、現在、これらを同一人物とする教派はほとんど無いことになるが、長年の伝統は欧米に、また日本にも、根強く残っている。2006年3月に米国カトリック司教会議(USCCB)が開設したウェブサイトJESUS DECODEDによれば、マグダラのマリアは、上記「罪深い女」やベタニアのマリアとは別人の、イエス・キリストの「特筆すべき弟子の一人」(a prominent disciple)としている。いっぽうCatholic Encyclopediaは、これらを同一人物とする論を掲げている。ヨハネによる福音書第8章3節-11節にあらまし次のような記述がある。ただし、初期の写本にこの部分は無く、後世の付加であるとされる。イエスを試すために、律法学者たちやファリサイ派の人々が、"姦通の現場で捕らえられた女"を連れて来た。律法では石打ちの死刑に値する。イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言った。これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。また、イエスも女の罪を許した。罪を犯しながらイエスに許されるこの女もまた、マグダラのマリアに重ねられることも多い。キリストを描いた映画には好んでこの逸話が挿入される。たとえば『偉大な生涯の物語』(1965年)は、これをマグダラのマリアを紹介するシーンとして使っている。このため、この女性こそマグダラのマリアであると誤解する人が多いが、これが教義として教えられてきたわけではない。「姦通」の語は新共同訳による。訳によっては「姦淫」と訳されるので、上記エピソードは「姦淫の女」とも呼び馴らされている。また、キリストを題材とした絵画でこのシーンを描いたものも多い。ハン・ファン・メーヘレンによる「キリストと悔恨の女」もこのシーンを題材としたものである。
出典:wikipedia
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