姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。姫路城は、播磨国飾東郡姫路、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。この他、「国宝五城」や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱・無能な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられた。昭和に入り、太平洋戦争において姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。昭和の大修理を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。橋本政次『姫路城の話』では、別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来として、推論も含め、以下の4説が挙げられている。白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり、村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもある。これに対し、前出の橋本は漢学的な名称であることから、「しらさぎじょう」という読みを退け、「はくろじょう」を正しい読みとしている。現在は、『日本歴史大事典』(小学館)、『もういちど読む山川日本史』(山川出版社)のように「しらさぎじょう」の読みしか掲載していないもの、『日本史事典』(三訂版、旺文社)、『ビジュアルワイド 日本名城百選』(小学館)のようにどちらかを正しいとせずに「はくろじょう」「しらさぎじょう」を併記しているものなども見られる。。姫路市内では市立の白鷺(はくろ)中学校や白鷺(はくろ)小学校のように学校名に使用されたり、小中学校の校歌でも「白鷺城」または「白鷺」という言葉が使われていることが多い。戦前の姫路市内の尋常小学校で歌われていた『姫路市郷土唱歌』の歌詞にも「白鷺城」や「池田輝政(三左衛門)」などが使われている。他にも以下のような別名がある。1333年(元弘3年)、元弘の乱で護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた。南北朝の争乱で足利尊氏に呼応した則村が再度挙兵し、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに庄山城(しょうやまじょう)を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める。1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で赤松満祐・教康父子に対して山名宗全が挙兵、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶、赤松満祐に属していた城代の小寺職治は討死した。その後、山名氏が播磨国守護に、山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。1458年(長禄2年)、長禄の変で後南朝から神爾を取り戻した功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許された。1467年(応仁元年)、応仁の乱で山名氏に対立する細川勝元方に与した政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、当城に本丸・鶴見丸・亀居丸を築いた。1469年(文明元年)、則村が隣国の但馬国に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代になった。1491年(延徳3年)、豊職の子・政隆が城代になり、御着城(姫路市御国野町御着)を築城開始。1519年(永正16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になった。1545年(天文14年)、則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。黒田重隆・職隆父子が主君で御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として1555年(天文24年)から1561年(永禄4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。姫路(姫山)に城があったと確認できる一次史料は、永禄4年の『正明寺文書』に「姫道御溝」の記述や『助太夫畠地売券』に城の構えがあるという記述で、これらを根拠に姫路城の始まりという説もある。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた。1567年(永禄10年)、職隆の子・孝高が城代になった。1568年(永禄11年)、青山・土器山の戦いで赤松政秀軍の約3,000人に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300人という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退する。以後、1573年(天正元年)まで孝高(官兵衛・如水)が城代を務めた。1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。1577年(天正5年)、孝高は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。1580年(天正8年)、三木城・英賀城などが落城し播磨が平定されると孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移った。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀城落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある。1581年(天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣した(中国攻め#鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年)。1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った。1600年(慶長5年)、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた。中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津を運河で結ぶ計画であったが輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わる。運河計画は後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになる。普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている。また、姫路城の支城として播磨国内の明石城(船上城)・赤穂城・三木城・利神城・龍野城(鶏籠山城)・高砂城も整備された。姫路藩の歴史も参照。1617年(元和3年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安であることを理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。忠政は城の西側を流れる妹背川を飾磨津までの舟運河川に改修し船場川と改名した。1618年(元和4年)には千姫が本多忠刻に嫁いだ化粧料を元に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。城内の武士階級の人口は次の通り。藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家と目まぐるしく入れ替わる。1749年(寛延2年)に上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職の責務も相まって藩の経済を圧迫していた。幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜とともにあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲され、車門・市ノ橋門、清水門に兵を配置されている。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が景福寺山に設置した大砲で姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。1871年(明治4年)に廃藩置県が実施され陸軍が置かれ大阪鎮台の管轄下になった。さらに1873年(明治6年)の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む金物商の神戸清次郎(かんべ せいじろう)が23円50銭(現在の貨幣価値に換算して約十万円)で落札した。落札の際、酒井忠邦城主より東屋敷庭前に据え置かれた芥田匠作の雪見灯籠を購得し、これを1892年(明治25年)に歩兵第10連隊本部へ寄贈した際に「撮歴縁起」書と銀杯を拝受した。陸軍省と協力して城の永久保存をするために落札したという説と、城の古鉄または瓦を売るのが目的であったという説の2つがあるが、後者の説では、瓦を一般家屋に転用するには城の瓦は大きく重いことや解体費用が掛かりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消失した。その後1927年(昭和2年)5月末、その息子である神戸清吉が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは提訴する意思がないことを述べており、また同記事で1874年(明治7年)に買い受けた後に陸軍省に買い上げてもらったとしている。城跡は陣地として好適な場所であったことから陸軍の部隊は城跡に配置される例が多く、姫路城でも1874年(明治7年)に三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置され、この際本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに1882年(明治15年)には失火で備前丸を焼失した。1896年(明治29年)には姫路城南西に歩兵第39連隊が設置された。この頃の建物は第10師団兵器庫(1905年(明治38年)-1913年(大正2年)。現在の市立美術館)、第10師団師団長官舎(1924年(大正13年)。現在の淳心会本部)、旧逓信省姫路電信局(1930年(昭和5年)。後のNTT西日本兵庫支店姫路2号館、現在の姫路モノリス)などが残っている。中曲輪南東部(射楯兵主神社周辺)には第8旅団司令部や偕行社が置かれた。1873年(明治6年)から1876年(明治9年)にかけて東部外堀の東半分が埋め立てられ、生野銀山と飾磨津を結ぶ生野鉱山寮馬車道が整備された。一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年(明治10年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。この頃の姫路城は、屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だった。陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠工兵大佐は、1878年(明治11年)に陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。1879年(明治12年)に行われた大天守の地階を補強支柱工事の文書が残っている。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、1908年(明治41年)には市民による白鷺城保存期成同盟の結成や城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年(明治43年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。工事は1910年(明治43年)7月10日から1911年(明治44年)7月15日に行われ、修理個所は、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守・はの渡櫓・ろの渡櫓・いの渡櫓・にの渡櫓・台所・水の四門・水の五門・水の六門が対象となった。明治の大修理終了後、姫路市は陸軍が使用していない本丸・二の丸と三の丸の一部の城域を借り受け、姫山公園として整備し、1912年(大正元年)8月から一般公開を始めた。1919年(大正8年)には陸軍省が西の丸を修理している。城内にあった歩兵第10連隊は後に岡山市へ移転し、歩兵第39連隊は姫路所在のまま太平洋戦争の終戦を迎えた。1912年(大正元年)から1932年(昭和7年)にかけて南部中堀が埋め立てられ道路とされた(現在の国道2号)。1928年(昭和3年)に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで1931年(昭和6年)1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年(昭和25年)施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。1933年(昭和8年)、本来は繋がっていない三の丸東部の内船場蔵と喜斎門南の下三方蔵を繋ぐ通路を整備、1957年(昭和32年)に拡幅した。1944年(昭和19年)、中村重遠大佐の顕彰碑を建立。太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていて且つ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された。かつて、姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったと言われていたこともあるが、獨協大学の四宮満の研究によって否定されている。城内にも実際に着弾したものの、運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったと考えられる。当時のB-29搭乗員も「レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と語っており、実際の空爆時刻が夜間だったこともあって上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がないと判断したため爆撃しなかったと回顧している。この戦争の前後、いわゆる「昭和の修理」が行われた。直接的な契機は1934年(昭和9年)の豪雨で櫓や石垣の一部が損壊したことによる。この年から順次行われた修理は、戦時中の中断をはさんで1964年(昭和39年)まで続き、特に1956年(昭和31年)からの大天守の修理を「昭和の大修理」という(1934年からの修理全体を広義の「昭和の大修理」とする場合もある)。一連の修理は全解体を伴う大規模かつ抜本的なものであったことから「昭和の築城」の異名もとる(詳しくは#昭和の大修理参照)。なお、この機会に後出の俗謡にも歌われた城の傾きを改善するために、礎石の取替えが行なわれ、鉄筋コンクリート製の基礎構造物になった。1976年(昭和51年)から姫路公園整備計画が行われ城北の姫山住宅跡地が公園に整備され野外ステージなどが建てられた。この整備工事の過程で清水門の石垣が発掘された。1992年(平成4年)、日本は世界遺産条約を批准すると、世界遺産暫定リストに姫路城などを記載した。そして、姫路城は最初に推薦された物件の一つとなり、1993年(平成5年)12月11日、法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界遺産(文化遺産)に登録された。後述するように、木造建築物であり抜本的な修理工事を経ている姫路城の登録は、文化財のオーセンティシティ(真正性、真実性)をどう評価するかという問題を改めて提起し、その後の世界遺産登録にも大きく影響した「奈良ドキュメント」成立につながった。この世界遺産登録を機に制定されたのが「平成中期保存修理計画」である。このときには大天守の修理は昭和の大修理から50年を経て別途検討することとなっていたが、その後の破損などを踏まえて計画が前倒しにされ、2009年(平成21年)から2015年(平成27年)に姫路城大天守保存修理工事が行われることとなった。これがいわゆる「平成の大修理」である(詳細は#平成の修理参照)。典型的な平山城で、天守のある姫山と西の丸のある鷺山を中心として、その周囲の地形を利用し城下町を内包した総構え(内曲輪は東西465m南北543m、外曲輪は東西1418m南北1854m)を形成している。堀は姫山の北東麓を起点にして左回りに城北東部の野里まで総延長約12.5kmあり、内堀で囲んだ1周目は内曲輪、中堀で囲んだ2周目は中曲輪、外堀で囲んだ3周目は外曲輪といい、3重の螺旋を描くような曲輪構造で渦郭式縄張を形成している(内曲輪だけに注目すると階郭式)。しかし外堀は城北部の野里で不完全に終わり最後まで閉じていないため姫路城の総構えの欠点になっている。これは輝政が城郭を大規模に整備する頃に野里周辺で力を持っていた芥田氏に対して強硬な行動を取る事が出来なかったためと推測されている。この欠点を補うために榊原時代に城の守備について描かれた『姫路城防備布陣図』には有事の際に堀を掘る計画が示されている。1992年(平成4年)、昭和時代から空堀になっていた東部中堀を整備し水堀に戻した(1998年(平成10年)と2007年(平成19年)には北部中堀も整備)。堀の水は船場川から取水していて、現代ではポンプを使用して約5日間で循環するようになっている。各曲輪を仕切る門が以下の通り置かれた。大まかには、内曲輪は天守・櫓・御殿など城の中枢、中曲輪は武家屋敷などの武家地、外曲輪は町人地や寺町などの城下町が置かれた。これらの多くが城郭の内にあり、江戸時代の日本では数少ない城郭都市を構成していた。このような総構えは他に江戸城や小田原城などの例がある。明治維新以後の陸軍設置や近代化で堀の埋め立てや建造物の破壊が行われたが、中曲輪・外曲輪は堀と石垣の一部が残っているほか、国道372号に竹の門交差点、野里街道沿いに野里門郵便局といった形で門の名前が残っている。外曲輪の南側は山陽本線姫路駅付近にまで達している。1888年(明治21年)に外曲輪の外堀南側に姫路駅が作られ、そこを通る形で山陽鉄道(山陽本線の前身)が敷設された。内曲輪以内の面積は23ha、外曲輪以内の面積は233haとなっている。現在では内曲輪の範囲が姫路城の範囲として認識されている。輝政による築城はちょうど関ヶ原の戦いと大坂の陣の間であり、ゆえに極めて実戦本位の縄張となっている。同時に優美さと豪壮さとを兼ね備えた威容は、「西国将軍」輝政の威を示すものでもある。姫路城以降は慶長20年(1615年)の江戸幕府による一国一城令(同年閏6月13日)や武家諸法度(同年7月)によって幕府の許可なく新たな築城や城の改修・補修ができなくなったこともあり、一大名のもので姫路城に続くほどの規模の城は建築されていない。石垣の積み方や加工の詳細は石垣の積み方を参照。建物や塀の屋根に用いられている鬼瓦や軒丸瓦などには、その瓦を作った時の城主の家紋が意匠に使用されており、池田氏の揚羽蝶紋、羽柴(豊臣)氏の桐紋、本多氏の立ち葵紋などがよく見られる。家紋の他には、桃の実(カの櫓、への渡櫓)、銀杏(井郭櫓)、小槌(への門)、波頭と十字(にの門)などが意匠に使用されている。また軒平瓦に滴水瓦が使用されているのは現存城郭では姫路城だけである。大天守に使われている瓦は昭和の大修理時に集計した約8万枚とされてきたが平成の修理時に再集計したところ1割ほど少ない約7万5000枚であることが分かった。姫路市城周辺整備室では昭和の大修理での数字は葺き直した瓦の枚数ではなく取り外した枚数ではないかと推測している。天守以外の櫓の屋根にも鯱が載せられている。城壁には狭間(さま)という射撃用の窓が総数997個(往時は城郭全体で数千とも)残っており、開口部の内側と外側に角度を付けることで敵を狙いやすく、敵には狙われにくくしている。また城壁を折り曲げて設置している箇所では死角がより少なくなる。形は丸・三角・長方形の穴が開いており長方形のものが「矢狭間」、ほかが「鉄砲狭間」である。長方形の狭間はほかの城にもよく見られるが、さまざまな形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。狭間は姫路市内においても公共施設のデザインに組み込まれている。さらに天守の壁に隠した隠狭間、門や壁の中に仕込まれた石落としなど、数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。大天守と小天守を繋ぐ渡櫓、小天守同士を繋ぐ渡櫓の各廊下には頑丈な扉が設けられ、大天守、小天守それぞれ独自に敵を防ぎ、籠城できるように造られている。城主の居館は当初、天守台の下にある本丸にあって「備前丸」といった。これは池田輝政の所領備前国にちなむ名である。しかし、備前丸も山上で使いづらいため、本多忠政は三の丸に本城と称する館を建てて住んだ。以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。徳川吉宗の時代の城主・榊原政岑が吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。西屋敷跡およびその一帯は現在では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。内曲輪は大きく分けて本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸(御作事所)・勢隠曲輪の多重構造になっている。さらに内部は、いの門・ろの門などいろは順に名付けられた門などによって水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などの曲輪に細かく区切られている。内曲輪における櫓や門の位置関係についてはを参照。内曲輪には天守や櫓群などの軍事と、御殿や屋敷などの政務の中枢が置かれた。姫山北部には樹木が生い茂る「姫山原生林」がある。この原生林の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが、その存在は確認されていない。姫山の西を流れる船場川は、内堀に寄り添う形で流れており、堀同様の役割を果たしている。江戸時代にはその名の通り水運のために利用されていた。内曲輪の通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫である。たとえば、現在の登城口(三の丸北側)から入ってすぐの「菱の門」からは、まっすぐ「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から三国濠の脇を右手に進んで石垣の中に隠された穴門である「るの門」から進むのが近い。「はの門」から「にの門」へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。「ほの門」は極端に狭い鉄扉である。その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。「はの門」へ続く坂道は「将軍坂」と呼ばれている。「菱の門」は伏見城から移されたという伝承があり、長押形の壁に火灯窓を配した古式な姿を残している。また、「との一門」は置塩城から移築したという伝承があり、壁が板張りであって、門の下側にいる敵を弓矢や槍などで攻撃できる「石落し」がないなど古風な様式で、城内に現存する門の中でも異色の存在である。天守丸は連立した天守群によって構成され、天守南の備前丸には御殿や対面所があり池田氏時代には政務の場であった。御殿や御対面所などは明治時代に焼失している。姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている12の現存天守の一つで、その中で最大の規模を持つ、まさしく姫路の象徴といえる建物である。姫路城の天守群は姫山(標高45.6m)の上に建っており、姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、大天守が31.5mなので合計すると海抜92mになる。天守の総重量は、現在はおよそ5,700tである。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修であてられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られた。天守内には姫路城にまつわる様々な物品が展示されている。姫路城の最初の天守は1580年(天正8年)の春、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられた。この天守は池田輝政により解体され、用材は乾小天守に転用された。2代目の天守は池田輝政により建てられ、5重6階天守台地下1階(計7階)の大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)、その各天守の間を2重の渡櫓で結んでいる「連立式天守」である。天守は全て2重の入母屋造の建物を基部とする望楼型で、建設時期や構成からさらに後期望楼型に分類されることもある。壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の大壁造で造られており、防火・耐火・鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。折廻櫓には編目格子が施されている。天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、「水一門」から「水五門」までの門を設けている。天守の北側にある腰曲輪(こしくるわ)には、籠城のための井戸や米蔵・塩蔵が設けられている。なお平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。腰曲輪の中、ほの門内側、水一門脇に5.2m分だけ、油塀(あぶらべい)と呼ばれる塀がある。白漆喰で塗られた土塀ではなく、真壁造りの築地塀である。製法については油、もしくはもち米の煮汁を壁材に練りこんだと考えられている。理由については、秀吉時代の遺構という説があるが、防備の上で特に高い塀を必要としたという説もある。外観は最上部以外の壁面は大壁塗りで、屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)に懸魚が施され多様性に富んでいる。最上階を除く窓はほとんどで格子がはめ込まれている。各階の床と屋根は天守を支えるため少しずつ逓減され、荷重を分散させている。大天守の心柱は東西方向に2本並んで地下から6階床下まで貫き、太さは根元で直径95cm高さ24.6mの木材が使用されている。うち、西大柱は従来の材が継がれたものであったため一本材に取り替えようとしたが、その際に折れてしまったので3階床下付近で継いでいる。東西の旧大柱は、目通りは東大柱十尺、末口は五尺三寸の杉木材。西大柱も同様の木材ではあるが三重目あたりで松に継いであり、根元から二尺に継ぎ目に補修した「貞享保四年丁卯の六月」の墨書きがあった。その他の柱用材は欅・松・犬桜など堅い樹種を二寸角にして使用している。敷居・鴨居は一尺二寸幅で舞良戸をはめていたが現在は建具は取り付けられていない。3基の小天守の最上階は蟻壁長押、竿縁猿頬天井の書院風意匠になっている。釣鐘のような形の火灯窓を西小天守、乾小天守の最上階に多用している。火灯窓は同様の後期望楼型天守である彦根城天守や松江城天守などにも見られる。乾小天守の火灯窓には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき未完成状態(発展途上状態)を保つため格子を入れていないという。3重3階・地下1階で天守丸の北東に位置する。西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていた。3重4階・地下1階で天守丸の北西に位置する。建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていた。秀吉が築城した三重天守であったという説があり「昭和の大修理」では秀吉時代の木材が転用された事が分かっている。3重3階・地下2階で天守丸の南西に位置する。水の六門が付属している。建設当初は未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれていた。2002年(平成14年)、西小天守の修理が完了した。大天守と各小天守を連結している渡櫓。イ・ロ・ハの渡櫓はいずれも2重2階・地下1階、ニの渡櫓は水の五門が付属して2重2階の櫓門になっている。天守群と渡櫓群で囲まれた内側に台所櫓があり大天守地階とロの渡櫓1階を繋いでいる。秀吉時代の縄張りを活かした雛壇状の作りになっており通路は迷路のように入り組んでいる。江戸時代、三の丸西側には御殿や屋敷があり本城(御居城)と呼ばれ、東側には向屋敷と庭園があり本多氏以降の政務の中心の場であった。本城には、などの御殿建築があった。東側の向屋敷には池泉式庭園・築山・茶室が設けられ、北側には御用米蔵や上三方蔵があった。本多忠刻・千姫夫妻が居住していた武蔵野御殿は金箔や銀箔を張った戸襖に千姫が幼少のころに過ごした武蔵野を偲んで一面に緑青でススキの絵が描かれていたことに由来する。三の丸からは西の丸の石垣下にある鷺山口門が内堀に通じていた。江戸時代の建物や庭園は明治時代に取り壊され現存していない。1998年(平成10年)、姫路藩主・本多家の家老であった中根家の子孫宅から第二次本多時代(1682年(天和2年)、本多忠国から1704年(宝永元年)、本多忠孝まで)の姫路城内曲輪を詳細に描いた『播州姫路城図』が発見された。この絵図から兼六園のように広くはないが三の丸・向屋敷にも大名庭園があったことが分かるなど、失われた御殿や屋敷など往時の様子を偲ばせる貴重な史料となった。1939年(昭和14年)4月、旧制の姫路市立鷺城中学校(現姫路市立姫路高等学校)が設置されたが1945年(昭和20年)の姫路空襲で焼失した。三の丸跡のうち本城跡は千姫ぼたん園に、向屋敷跡は三の丸広場に整備された。三の丸広場は市民の憩いの場となっており、花見や各種のイベントスペースとしても使用されている。三の丸の東部と東側に位置する出丸(御作事所)は姫路動物園の一部になっている。1947年(昭和22年)、三の丸に野球場と相撲場が建設された。2014年(平成26年)11月6日、姫路市教育委員会が三の丸の発掘調査で大手から菱の門前まで通じる南北200m、幅21mの三の丸大路の跡や礎石の跡などを確認したと発表した。また三の丸西にあった御居城への通路の幅も約8mと分かった。『播州姫路城図』に描かれていた当時の様子が明らかになりつつある。9日に現地説明会が行われた。西の丸は本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に整備・拡張された曲輪。北端に位置する化粧櫓及び櫓群と、これらを結ぶ渡櫓(長局)が残っている。千姫は西の丸内に設けられた中書丸(天樹院丸)と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。天守東部の搦め手から北部一帯の広い曲輪で喜斎門・八頭門・北勢隠門・南勢隠門で仕切られていたが、いずれの門も建築物は無く石垣が残っている。内堀に面する北側は屏風折れに石垣が組まれ死角を少なくしている。「ゐの櫓」・内船場蔵・下三方蔵があった。酒井忠実の時代にはこの曲輪内で南部産の馬を飼育していた。東端区域は姫路神社になっている。大正時代に一般公開されてから終戦までは搦め手の登城口から入城していた。中曲輪は武家地で、城主が居住する東屋敷・西屋敷(樹木屋敷)、家老などの上級武士の侍屋敷などが建ち並んでいた。内曲輪の正面(南側)やそこに近いほど役職が高く広い屋敷を与えられた。東部から北部にかけては中級から下級武士の屋敷、南部には姫路藩校の好古堂、東部端には桐の馬場があった。明治維新後から太平洋戦争終了まで帝国陸軍が置かれ軍の建物や広大な練兵場になっていた。桜門へ通じる大手筋があった城南部は城南練兵場に、城北部は姫山練兵場になり、城南西部は歩兵第39連隊が、城東部は第10師団司令部や衛生病院が建設されていた。終戦後は城の北東部に市役所(現在の市立美術館)、裁判所、検察庁、労働基準局、保健所などの官公庁があった。酒井氏時代の筆頭家老・高須隼人の屋敷があった場所は平成になって『姫路侍屋敷図』を元に大手筋の復元や飲食店や土産物販売をする家老屋敷館(い・ろ・は・にの屋敷)が建てられた家老屋敷跡公園に整備された。家老屋敷館のシャッター(36箇所・全長134m)には『行軍横図 鉄砲洲警衛絵巻』(姫路市所蔵)が描かれている。内曲輪の南勢隠門から堀が続く中曲輪には11の門があり、中曲輪西部の市ノ橋門から反時計回りに車門・埋門・鵰門(くまたかもん)・中ノ門・総社門・鳥居先門・内京口門・久長門・野里門・清水門となっている。いずれも門や櫓などの建物はなく石垣や土塁が残っている。外曲輪には下級武士や町人の居住区・寺院などが置かれた。広峰山を山あて(目印)にした立町筋(竪町筋)を中心に、78町に町割りした城下町(姫路町)が形成された。姫路市中心部に現在も残る町名として、鍛冶町・白銀町・金屋町・材木町・紺屋町などの職人の町、呉服町・綿町・米屋町・塩町・魚町・博労町などの商人の町、小姓町・鷹匠町・同心町・坊主町など身分に因む町名、上寺町・下寺町などの寺社の町がある。二階町には国府寺本陣や脇本陣、家老の河合道臣が藩の財政を立て直すために作った木綿会所・切手会所、札の辻などがあった。2012年9月28日、市内平野町での住宅建設工事における調査で17世紀初め頃の外曲輪の武家屋敷跡が発見されたと姫路市埋蔵文化財センターが発表した。池田時代の外曲輪の遺構が見つかるのは初めて。江戸時代後期の絵図では川合又四郎の屋敷にあたり井戸・溝跡などの遺構の他、「安永九年」(1780年)と書かれた茶碗など17世紀から幕末にかけての土器・陶磁器なども発見された。中曲輪の清水門から続く外曲輪には5つの門があり、外曲輪南西部の備前門から反時計回りに飾磨津門・北条門・外京口門・竹ノ門となっている。いずれも門や櫓などの建物はなく石垣や土塁も破壊または地中に埋められている。2012年11月15日、市内白銀町(当時の町屋と浄恩寺があった場所に相当)での発掘調査で礎石・石組・井戸・土坑・かまどなどの跡が発見されたと姫路市埋蔵文化財センターが発表した。城北の野里(野里町)や城西の船場(龍野町)は外堀の外縁にあって総構えには含まれてはいないが、築城以前からある町で、野里は但馬道、船場は山陽道や船場川と通じており流通や交通で栄えた。野里や船場の建物は三叉路や街路に対し斜めに配置されたノコギリ横丁と呼ばれている。城下に攻め込まれた場合にも斜めに配置することで死角に身を隠すことが出来た。大天守の大規模な補強修理は、1656年(明暦2年)に東・西大柱の腐った根元を取り除き栂材をはめ込み、更に帯鉄を巻き添え柱を建てる根継ぎ補強工事、1684年(貞享元年)と1700年(元禄13年)の梁などへの補強支柱の組み入れの他、1692年(元禄5年)、1743年(寛保3年)にも行われている。小規模な修理では、軸部の補強修理19回、屋根や軒廻りの修理17回が墨書などにより確認されている。酒井氏時代には「姫路城は広大で修繕する箇所が多い」、「壁の塗り直し以外にも基礎の手入れを怠らぬように」といった趣旨の記録が残っている。姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止めることは難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われる有様であった。工事は1910年(明治43年)7月10日から1911年(明治44年)7月15日に行われ、修理個所は、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守・はの渡櫓・ろの渡櫓・いの渡櫓・にの渡櫓・台所・水の四門・水の五門・水の六門が対象となった。1910年(明治43年)6月24日、第10師団経理部で工事入札が行われ、中村祐七(姫路)、松村雄吉(福知山)、中村勘次郎(神戸)、澁谷治三郎(京都)、大溝組(大坂)が参加、中村祐七が当時の額5万6900円で落札した。同年7月10日から工事が行われ、まず資材の搬入出をするために大天守の東側の喜斎門側から全長150m、幅4mの桟橋が架けられた。桟橋にはモーターで巻き上げるワイヤーロープが設置されトロッコで資材を運び、天守の周りには1万本の木材を組んで足場が組まれた。筋交いを2層目に3本、3層目に6本、4層から7層目には8本入れ、支柱を2層と3層目の東南部分に各14本入れた。破損や腐食のある梁・桁・隅木・棟木・根太・床板・破風は取り換えられた。瓦は全て取り外され半数は洗浄の後に再利用された。葺き替えの際には屋根漆喰は5回の重ね塗りが行われた。木材は大天守の各階の壁面に筋交い柱として組み入れボルトで締められた。同時に大天守の屋根修理と壁漆喰の塗り直しも施された。しかし、明治の大修理では天守の傾きを根本的に修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。修理個所は、井郭櫓・折曲櫓・帯郭櫓・帯渡櫓・菱の門・喜斎門・各門(に・ほ・へ・と・ち・り・ぬ)・各櫓と渡櫓(い・ろ・は・に・ほ・ち・り・を)・土塀各所が対象となった他、場内の通路整備などが行われた。1910年(明治43年)10月25日、第一期工事と同じ場所と参加人で工事入札が行われ、松村雄吉が2万9015円で落札した。同年11月5日から第一期工事の資材を再利用して工事が始まった。昭和の大修理は、1934年(昭和9年)6月20日、西の丸の「タの渡櫓」から「ヲの櫓」が豪雨のため石垣もろとも崩壊したことに端を発する。1935年(昭和10年)2月から修復工事が始まったが同年8月の雨で「ルの櫓」の石垣が崩落する。これを受けて修理計画を見直し西の丸全域の修理を国直轄事業で進め、全ての建物を一度解体してから部材を修復し再度組み立て直すという方法が採られることとなった。大工棟梁は和田通夫。建築物の修復の他、石垣の修復も行われたが、その際に作業員が死亡している。第一期工事は1935年(昭和10年)から1950年(昭和25年)3月まで行われることとなり、まず天守以外の建物のある西の丸及び北腰曲輪の櫓群や門・土塀などがその対象となった。1938年(昭和13年)に西の丸の解体修理が終わり北腰曲輪の修理に取り掛かるが1944年(昭和19年)、太平洋戦争での日本の戦局悪化により中断を余儀なくされた。姫路空襲による焼失の危機を免れると、1949年(昭和24年)、姫路市長らが「白鷺城修築期成同盟」を結成し市民の署名とともに『姫路城補修、保護施設費国庫補助請願』を政府に提出し、衆議院本会議において採択された。国からの1300万円(当初予算1千万円と災害費300万円)と、県と市を併せて300万円の合計1600万円(金額は全て当時の額)の予算が組まれ文部省直轄事業で行われた。1950年(昭和25年)に大修理が再開され、第二期修理計画は第一次と第二次に分かれて行われた。工事正式名称は「国宝姫路城大天守保存修理工事」で工事期間は2009年6月27日着工から2015年3月18日竣工。事業費は28億円(素屋根工事費 12億6千万円、補修工事費 15億4千万円)と見積もられている。施工は鹿島建設・神崎組・立建設JV。「昭和の大修理」により「50年は保つ」と言われていたが、大修理から45年が経過した時点で予想以上に漆喰や木材の劣化が進んでいたため、大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした補修工事が進められている。漆喰はカビが原因で黒ずみが発生するため防カビ強化剤が塗布された。天守台入り口付近・上山里下段・清水門・車門・内京口門各所の石垣修復には竜山石が使われた。2009年(平成21年)4月6日から保存修理を目的にした「平成の「姥が石」愛城募金」が行われている。昭和の大修理のような大規模解体修理ではないため、工期中も工事や安全に支障がない範囲で大天守内部と周辺の公開は続けられていた。大天守を覆う素屋根は徐々に設置・解体されるために工事の進み具合で見え方は異なった。2010年(平成22年)春頃までは大天守の外観を見ることができたが、2011年(平成23年)春頃からは大天守からの展望や外観の展望が完全に望めなくなっていた。また大修理のことを知らずに旅行で日本を訪れ、現地で大天守に登ることができないことを知り落胆する外国人観光客が後を絶たないとも報じられた。素屋根の撤去が進んだ2014年(平成26年)5月初旬には大天守の姿が見え始め、6月中旬にはほぼ全体が見えるようになっていた。日本の世界遺産条約締約は1992年(平成4年)のことであり、姫路城はその年の10月1日に正式推薦された。世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は推薦に先立つ同年9月と、推薦後の1993年(平成5年)4月と8月に現地調査を行なった(なお、これとは別に後述するオーセンティシティの評価のため、ICOMOS事務総長が同年5月に視察した)。その結果を踏まえ、同年10月に「登録」が勧告された。そこで評価されたのは、といった点であった。そして、同年12月の第17回世界遺産委員会(カルタヘナ)で、「法隆寺地域の仏教建造物」とともに日本初の世界文化遺産として正式登録された。資産としての登録地域は、中曲輪より内側となっており、その範囲は特別史跡指定地域と重なっている。さらにその周囲が緩衝地域(バッファーゾーン)に指定されている。従来、緩衝地域の規制は緩やかなものであったが、1993年に中壕通り都市景観形成地区(都市景観条例による)が指定され、2008年には資産部分を含め、姫路城周辺風景形成地域の指定が行われた。2012年の第36回世界遺産委員会に際して、登録範囲の明確化が行われた。なお、上述の通り、ICOMOSの勧告の時点では封建制の象徴という側面も評価されており、それによる基準 (3) の適用が勧告されていたが、正式登録では採用されなかった。かつて、世界遺産登録に際してのオーセンティシティ(真正性、真実性)の評価はヴェネツィア憲章に基礎を置いていた。しかし、その概念はヨーロッパに多く見られる「石の文化」にはよく当てはまるが、解体修理を行う日本的な「木の文化」を正当に評価できない恐れがあった。日本の条約締約および姫路城・法隆寺の推薦・登録は、その再検討の必要性を世界遺産委員会に認識させることになったのである。それが翌年の世界文化遺産奈良コンファレンスの開催、およびそこで採択された「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」(真実性に関する奈良文書)に繋がった。これは、アジア、アフリカの文化遺産登録にとってきわめて重要な意義を持つことになった文書である。なお、姫路市では世界遺産条約採択40周年記念事業の一環として、2012年に奈良ドキュメント見直しを視野に入れて、オーセンティシティと現実社会の関連を討議する国際会議「姫路会合」が開かれた。以下の5件8棟が1951年(昭和26年)6月9日に文化財保護法に基づき国宝に指定されている。上記の天守と渡櫓計8棟は、1931年(昭和6年)1月19日、国宝保存法に基づき、当時の国宝(旧国宝、文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定され、同12月14日には渡櫓、門、塀等74棟も国宝(旧国宝)に指定された。その後、1950年(昭和25年)8月29日の文化財保護法施行に伴い「旧国宝」は「重要文化財」とみなされることとなった(文化財保護法附則第3条)。1951年(昭和26年)6月9日付けで、文化財保護法および国宝及び重要文化財指定基準(昭和26年5月10日文化財保護委員会告示第2号)に基づき、上記の大天守以下の5件(8棟)が改めて国宝(新国宝)に指定された。文化財指定などとは異なるが、以下のように様々な観点からの賞の授与や評価がなされている。このほか、平成の大修理中の2011年12月6日には、見学施設の実物大線画や国宝建築の修理を公開したことなどが評価され、第45回SDA賞の演出サイン部門サインデザイン優秀賞(日本サインデザイン協会)と、ディスプレイデザイン賞2011の企画・研究特別賞(日本ディスプレイデザイン協会)を受賞した。姫路城所在地の姫路市本町68番地は、高校・病院・美術館さらには県営住宅や民家をも含む総面積107.73haの面積を持ち、単独の番地としては(皇居のある)千代田区千代田1番地の約150haに次ぐ広さといわれる。本町68番地は内曲輪および中曲輪の範囲に相当し、明治・大正時代には陸軍歩兵第10連隊が配置されていた。姫路空襲でこの一体は焼け野原になり、中心市街地として開発された戦後になっても、番地は分割されずにそのまま残った。分割されなかったのは戦後の混乱に起因するという。1980年代以降、この一帯の整備および再開発事業が行われ、様々な文化施設・観光名所が立ち並ぶ一帯となっている。以上は全て姫路市本町68番地の内である。本町68番地には他に姫路医療センター・姫路東高校・淳心学院・賢明女子学院・姫路聴覚特別支援学校など多数の施設が存在している(2009年までは姫路警察署も位置していたが市内市之郷に移転、同地は観光駐車場となった)。1994年(平成6年)3月、世界遺産登録を記念して公募・選定された姫路城が見える10箇所。「誰でも自由に行くことができ、お城を取り巻く方向にある」という観点から選ばれた。この他、選定後に新しく建てられたイーグレひめじの屋上からの眺めも人気がある。2016年(平成28年)2月1日から、クレジットカードでの入城券購入が可能となった。対応するのはビザとマスターカード。入り口は正面登閣口と東門登閣口の2つある。城の東側にある姫山駐車場と城の北側にある城の北駐車場からは東門登閣口の方が近い。正面登閣口から大天守最上階へ登って下りてくる最短順路であれば約1時間、順路通りに回れば1時間半 - 2時間を要する。城の搦め手(裏門)に当たる東門登閣口からの順路は急な上り坂と段差のある石段になっているが登閣口からの時間にすると約25分で大天守最上階まで行ける。混雑していない状況での時間の目安は、大手門から正面登閣口まで約10分、正面登閣口から備前丸まで10 - 15分、東門登閣口から備前丸まで5 - 10分、備前丸から大天守最上階まで約20分である。天守入り口でスリッパと自分の履き物を入れる袋が無料で貸し出される。階段が急なため、スリッパでは登りにくい上に自分の履き物を入れた袋が邪魔になるため手荷物の多い人、子供や足腰に不安のある人は注意が必要である。車椅子でも介助者数名が同伴し段差をなるべく避けるようにすれば本丸(備前丸)までは登城可能である。身体障害者補助犬(盲導犬・聴導犬・介助犬)は天守・櫓など建物内への同伴はできないが、それ以外の有料区域内への同伴は許可されている。その他、定期的な大規模清掃や市民有志による月例清掃会など。平成以降の年度別入城者数(概数)下記の他にも世界遺産関連の番組や姫路フィルムコミッションの活動によって、映画やドラマ、CMや子供向けの番組まで、多くの撮影が行われており、特に時代劇では東映京都撮影所や京都映画撮影所から場所が近いことから、彦根城とともにロケが頻繁に行われている。『暴れん坊将軍』、『水戸黄門』、『大奥』など、江戸城という設定で撮影されている場合が多い。1964年に公開された映画『モスラ対ゴジラ』では当初ゴジラが姫路城を破壊するシーンが撮影される予定であったが、劇中では名古屋城に変更されている。黒澤明の『乱(1985年)』の他に多くの作品がある。 フランス・パリ近郊シャンティイ市にあるシャンティイ城と姫路城は、1989年に姉妹城提携を結んでいる。シャンティイ城はルネサンス期の壮麗な建築様式を代表する建築物として知られる。また、ドイツ南部バイエルン州にあるノイシュヴァンシュタイン城と姫路城は、2015年に観光友好交流協定を結んでいる。尚、姫路城と同じ国宝の松本城とは姉妹城提携はないが姫路市と松本市は姉妹都市提携を結んでいる。三重県伊勢市にある実物の1/23の鉄筋コンクリート製ミニチュア模型。伊勢在住の男性が19年の歳月と土地代・材料費を含め約2000万円の私費を投じて自宅の庭に製作、2007年(平成19年)3月完成した。製作にあたっては、近くに他の建物がないことなどを考慮したうえで土地を選び、自ら姫路城に足を運び狭間の並びや階段の段数などを調査、姫路城から特別に許可を得た図面などを元に内曲輪の現存の建物は勿論、現存しない御殿や櫓など多くを再現している。実際の姫路城の石垣では野面積みや打ち込み接ぎが多く、この模型では全面的に切り込み接ぎで石垣が再現してあるなどの相違点はあるものの、姫路市立城郭研究室の学芸員の評価も高く、2007年(平成19年)6月1日、姫路市は製作者を「ひめじ観光大使」に任命している。見学料金・駐車料金は無料で年間数万人の見学者が訪れるほどになっているが私有地であるため、製作者はマナーなどの配慮を求めている。この他、東武ワールドスクウェアにも1/25のミニチュアがある。市販されている模型には、1/150の木製模型(ウッディジョー)、プラモデルでは1/300(フジミ模型)や1/380、1/500、1/800(童友社)、その他ペーパークラフトなど多種販売されている。2010年09月30日、日本のアマチュア天文家が発見した2つの小惑星のうち1つに「白鷺城(Hakurojo、姫路城の別名)」と命名し国際天文学連合小惑星センターに登録された。もう1つは「Konjikido(金色堂)」と命名された。
出典:wikipedia
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