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抹茶

抹茶(まっちゃ)は、緑茶の一種。碾茶を粉末にしたもの。またそれに湯を加え撹拌した飲料。茶道で飲用として用いられるほか、和菓子、洋菓子、料理の素材として広く用いられる。公益財団法人日本茶業中央会の定める抹茶の定義は「覆い下で栽培された生葉を揉まないで乾燥した碾茶を茶臼で挽いて微粉状に製造したもの」となっている。そして、「『茶臼で挽いて』という表現は粉砕の代表例を示したもので、他の方法で微粉末にしても「抹茶」と言える」としており、粉砕機で挽いたものも抹茶と認めている。この定義に当てはまるものが食品表示で「抹茶」とされているものだが、粉末茶の中には定義に関係なく「加工用抹茶」「工業用抹茶」「食品用抹茶」という名称で流通しているものがある。碾茶の生産量と抹茶の流通量を比較すると、世間で流通している抹茶の3分の2は本来の意味の抹茶ではないと見られている。チャノキの葉(茶の葉)を蒸してから乾燥させた碾茶を茶臼でひいたものである。江戸時代までは挽きたてのものを飲用していた。現代でも茶道では前日などに茶臼でひいたものを供する。家庭用にはすでに粉末化されプラスチックのフィルム袋に密閉されたもの、もしくは金属製の筒にいれられたものが流通している。変質を避けるため開封後は密閉容器に入れ冷暗所に保存する。種類は、高級品や一般向け製品の違いを別にすると単一であるが、その年の茶畑や茶葉の仕上がりによって取れた茶葉の種類の配合を混ぜ、味を従来のものと統一させる為に茶舖において合組(ごうぐみ)される。濃茶用、薄茶用(いずれも後述)のもととなる茶葉の配合は茶舖により異なり、合組される際には茶畑毎に分かれている。甘みがより強く、渋み・苦味のより少ないものが良しとされ、高価である。一般に高級なものは濃茶に用いられるが、もちろん薄茶に用いてもよい。爽やかな苦味は砂糖の甘味と良く馴染み風味が際立つため、菓子の風味付けにも好まれる。和菓子はもちろん、洋菓子にも用いられ、抹茶味のアイスクリームは日本では定番風味の一つともなっている。日本アイスクリーム協会の調査では1999年(平成11年)から2009年(平成21年)まで、バニラ、チョコレートに次いで第3位の地位を占めている。黒味を帯びた濃緑色の濃茶(こいちゃ)と鮮やかな青緑色の薄茶(うすちゃ)がある。茶道では、濃茶は茶杓に山3杯を1人分として、たっぷりの抹茶に少量の湯を注ぎ、茶筅で練ったものを供する。薄茶は茶杓1杯半を1人分として、柄杓半杯の湯を入れ茶筅で撹拌する。茶道では茶を「点(た)てる」(点茶=てんちゃ)というが、濃茶は特に「練る」という。現在の茶道では、濃茶を「主」、薄茶を「副(そえ)」「略式」と捉えている。茶筅で撹拌する際に、流派によって点てかたが異なる。三千家ではそれぞれ、たっぷりと泡を立てるのが裏千家、うっすらと泡立てるのが表千家、もっとも泡が少ないのが武者小路千家といわれる。現在では一般的な飲料としては煎茶(緑茶飲料を含む)の方が需要が多いものの、地域によっては農作業の間の休憩などに抹茶を飲用する習慣が残されている。喫茶の風習は元々中国の唐代から宋代にかけて発展したものである。8世紀頃、中国の陸羽が著した『茶経』には茶の効能や用法が詳しく記されているが、これは固形茶を粉末にして鍑(現在の茶釜の祖先)で煎じる団茶法であった。抹茶(中国喫茶史では点茶法(てんちゃほう)と呼んでいる)の発生は、10世紀と考えられている。文献記録は宋時代に集中しており、蔡襄の『茶録』(1064)と徽宗の『大観茶論』(12世紀)などが有名であるが、これらの文献では龍鳳団茶に代表される高級な団茶を茶碾で粉末にしたものを用いており、団茶から抹茶が発生した経緯をよく表している。この抹茶を入れた碗に湯瓶から湯を注ぎ、茶筅で練るのが宋時代の点茶法であり、京都の建仁寺、鎌倉の円覚寺の四つ頭茶会はこの遺風を伝えている。日本には平安時代初期に唐から喫茶法(おそらく団茶法)が伝えられたが、抹茶法が伝わったのは鎌倉時代とされる。その伝来としては、臨済宗の開祖となる栄西が1191年中国から帰国の折に茶種と作法を持ち帰り、その飲み方などが日本に広まったという説が有名である(詳しくは茶道の項を参照のこと)。栄西の『喫茶養生記』には茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれている。1214年(建保2年)には源実朝に『所誉茶徳之書』(茶徳を誉むる所の書)を献上したという。この時代の抹茶は、現在のような、緑色ではなく茶色であった。原料となる碾茶(てんちゃ)に用いる茶は葭簀(よしず)と藁(わら)を用いて直射日光を遮り「簀下十日、藁下十日」被覆栽培する(玉露と同様の栽培法)。これにより茶葉は薄くなり、うまみやコクが増す。1回目に収穫したものを1番茶、2回目に収穫したものを2番茶とし、若葉をていねいに手で摘む他、機械で刈る方法も存在している。刈り取った茶葉はその日のうちに蒸した後、揉捻(じゅうねん)を行わずに乾燥させる。もまないところが煎茶や玉露との大きな相違点である。この碾茶を刻み、葉柄、葉脈などを取り除いて真の葉の部分だけにし、粉末にする。45℃前後の一定温度で乾燥させ、茶葉に変化の少ない石臼(茶臼)で挽く。この工程は11月までに行う。12月以降の冬場は味が変わってしまうからである。茶にはそれぞれ「初昔(はつむかし)」、「後昔(あとむかし)」、「千代昔」、「葵の白」、「青海白」などの銘がつけられる。茶人が茶銘に趣向を凝らして楽しむようになったのは江戸時代に入ってからだと考えられている。茶畑は「茶園」、製茶業者は「茶師(ちゃし)」と呼ばれる。茶師はもともと茶葉を茶壷などに詰めて納めたところから「お詰め」とも呼ばれる。茶銘の末尾についている「昔」、「白」という表現は、現代では濃茶と薄茶の区別として用いられる。しかし、本来は昔だけであり、後になって昔に対して白という表現が用いられた。昔という字は、最上級の茶の初摘みを行うといわれる3月20日 (旧暦)(廿日)の「廿(にじゅう)」と「日」を組み合わせたものとの説がある。白という表現は、三代将軍家光の時代に見られ、当時の大名茶人が盛んに「茶を白く」と宇治茶師に求めたことがきっかけといわれる。当時の「白く」という表現が何を意味していたかは不明である。古田織部は青茶を、小堀遠州は白い茶を好んだという記録が遺されている。白と青の違いを、宇治では茶葉の蒸し加減によるとされる。おそらくは、嗜好の移り変わりを示すものと考えられる。また業界の一説では、「白」の語源を 茶の製茶過程に於いて特に初摘みの新芽に白い産毛が入ったものが多く見られることがあり、そのような貴重な新芽を用いたお茶はふわふわとした白い産毛が入るお茶となる。その茶を「白」と呼んでいたのではないかと考えられる。銀座平野園(創業明治16年・東京銀座)には『御園の白』という銘の濃茶が明治時代から今日に至り存在する。当時の店主、草野話一は明治天皇に献上する抹茶の銘を考えていた際、濃茶に用いる上質な茶葉を臼で挽くときに臼の周囲に特有の白い輪が広がることから茶銘を『御園の白』と名付けた。また明治天皇がお病気をされた際、話一は銀座の地にて自ら臼を挽いて製造した『御園の白』から抹茶のアイスクリームを製造して献上した。茶には眠気の除去や利尿作用などさまざまな効能があるが、特に抹茶は茶葉を粉にして飲むため、葉に含まれる栄養素をそのまま摂取することができる。抹茶に含まれる主な成分は次のとおり。前述の通り抹茶は他の茶と異なり茶葉そのものも食すことから、料理の素材などとしても広く用いられる。また、前述のとおり砂糖ともよく合うことから菓子にも用いられる。代表的なものとして以下があげられる。また日本陸軍が航空勤務者向けに開発・採用した各種の栄養補助食品の中に「航空元気食」があり、緑茶粉末・ビタミンB1等を米粉に練り込み、ゼリー菓子状に成形したものであった。

出典:wikipedia

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