川崎フロンターレ(かわさきフロンターレ、Kawasaki Frontale)は、日本の神奈川県川崎市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。1955年に富士通サッカー部として創部。1997年にJリーグ準会員に承認され、1999年にJリーグへ加盟した。ホームスタジアムは中原区の等々力陸上競技場、練習場は麻生区の川崎フロンターレ麻生グラウンドである。チーム名の「フロンターレ (Frontale) 」はイタリア語で「正面の、前飾り」を意味し、常に最前線で挑戦し続けるフロンティアスピリッツ、正面から正々堂々と戦う姿勢を表している。ちなみに富士通にはアメリカンフットボールチームの富士通フロンティアーズ(Xリーグ所属。1985年創設・チーム名制定)、女子バスケットボールの富士通レッドウェーブ(Wリーグ・1985年創部)、富士通カワサキレッドスピリッツ(V・チャレンジリーグ男子)があり、すべて川崎市を本拠地としており、バレーボールを除き川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナーに参加している。1955年に創部された「富士通サッカー部」が前身であり、1972年に日本サッカーリーグへ昇格、1992年からジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ参加。1996年に「富士通川崎フットボールクラブ」(ふじつうかわさきフットボールクラブ)へ改称し、11月21日に運営会社となる「富士通川崎スポーツマネジメント株式会社」(ふじつうかわさきスポーツマネジメント)を設立。1997年にJリーグ準会員となり、名称が公募によって川崎フロンターレと決定された。前年の旧JFL10位からJリーグ昇格条件の2位以内を目指すため、富士通サッカー部がJSL1部に昇格した時の主将だった小浜誠二が事実上の責任者となる常務に就任。富士通からの豊富な資金力を利用して、監督を富士通社員の城福浩からプロ契約の斉藤和夫へと交代し、選手では名古屋の中西哲生、平塚のベッチーニョ、横浜Fの桂秀樹、清水の向島建、横浜Mの小泉淳嗣等を獲得。富士通川崎時代のレギュラーだった伊藤彰・小松崎保・源平貴久などの富士通社員選手は控えに回し、元Jリーガーを重用した布陣で1年でのJリーグ昇格を目指した。この他、ブラジルのグレミオとの業務提携も発表した。ちなみに、現在のチームカラーが水色と黒なのは、グレミオのチームカラーを模した名残である。フロンターレは優勝争いに加わり、前半戦終了の第15節終了時点では昇格圏内の2位に付けていた。後半戦には平塚から野口幸司、V川崎から長谷部茂利を追加補強したが、同9月の第20-22節に上位の直接対決となったコンサドーレ札幌、東京ガス、本田技研に3連敗して昇格圏外となる3位に後退した後に斉藤が監督を辞任。最終成績は札幌・東京ガスに次ぐ3位となり、勝ち点1差でJリーグ昇格を逃した。シーズン後には野口や長谷部は元の所属チームに戻り、小泉も退団した。前シーズン終盤の監督不在を解消するため、グレミオからあっせんされたベット監督が就任。鹿島から鬼木達が加わり、シーズン序盤にゴールを量産したヴァルディネイや途中退団のベッチーニョに代わって入団したツゥットなどのブラジル人FWが活躍した。前年は桐光学園高校からの新入団直後にグレミオにサッカー留学していた佐原秀樹も試合に出場し、社員選手でも川元正英や久野智昭がレギュラーを獲得して、チームの総合力向上に成功した。最終節のソニー仙台FC戦で敗れてJFL優勝は東京ガスにさらわれたが、準優勝となった。しかし、J1参入決定戦1回戦の福岡戦でVゴール負けを喫し、Jリーグ ディビジョン2 (J2) への参入が決まった。ベット体制2年目。元日本代表の岩本輝雄を獲得して同時に主将に据えた。リーグ戦は開幕3連敗でスタートし、第5節のヴァンフォーレ甲府戦に勝利した後、ベットを監督から解任。Jリーグカップ(ナビスコ杯)1回戦のG大阪戦 を挟み、第6節、4月18日の札幌戦から松本育夫に監督が交代した。久々のクラブチーム監督となった松本に対して反発した岩本はやがてチーム構想から外されたが、岩本に代わって主将に就任した中西の起用や柏から途中加入したDF森川拓巳などが守備を安定させ、攻撃面ではブラジル人のティンガが活躍した。松本就任後のチームは順調に勝ち点を伸ばし、7月30日・第19節の大宮戦に勝利して首位に立ち、11月5日の鳥栖戦(等々力)に勝利し、J1昇格条件のJ2の2位以内が確定。11月8日にJ2優勝も決めた。前年のJ1参入戦に続くこの年の戦いは中西が自身のホームページで日記として書き続け、シーズン終了後に『魂の叫び J2聖戦記』として出版された、これは後に中西がマスメディアで活躍する素地となった。また、この年の開幕戦にチーム初のマスコットとしてふろん太を発表。5月には練習場が東京都稲城市の富士通南多摩工場敷地内の「富士通南多摩グラウンド」 から、川崎市麻生区片平にある麻生グラウンド(旧・大東学園高等学校グラウンド)に移転。さらに市内全体での広報活動を強化し、川崎市も市民後援会を発足させた。松本が監督を退いて社長となり、後任としてヘッドコーチのゼッカが監督に就任。初のJ1挑戦に備えて積極的な補強を進め、特に鹿島からは同シーズンの主将に指名された奥野僚右、鈴木隆行、マジーニョ、鬼木達(再移籍)などを相次いで獲得。他にもパラグアイ代表MFアルバレンガ、元日本代表FW森山泰行等が加入したが、これらの選手と従来の選手との融合が全く図れず、実権のない社長に棚上げされた松本と副社長兼強化責任者の小浜の対立も表面化し、富士通出身の杉本聰ゼネラルアドバイザー(前社長)により小浜中心の体制で運営を進めることが確認されるなど、チーム内での不協和音が増加した。外国人を入れ替える方針によりFC東京へレンタル移籍させたFWツゥットが大活躍し、FC東京がJ1で躍進した事も新体制への批判に拍車をかけた。チーム成績は低迷し、V川崎とリーグ戦で初対戦 となった4月22日・1stステージ第8節の「川崎ダービー」にも敗れ、5月3日・第10節の磐田戦では藤田俊哉にペナルティーキックだけで3得点のハットトリックを許す空前絶後の記録を許して1 - 5と大敗した後にゼッカを解任し、ヘッドコーチの今井敏明が後任の監督に就任。5月27日・第15節(最終節)のC大阪戦(長居)ではシーズン後に同年のJリーグ優秀新人賞を獲得した我那覇和樹の得点に続いて浦田尚希が延長Vゴールを決め、2 - 1で勝利してC大阪の優勝を阻止した が、1stステージは16チーム中15位で終え、2ndステージでも苦戦が続いた。8月19日・第10節の市原戦に敗れてJ1残留の可能性が低くなると、その後のナビスコ杯準々決勝でV川崎に勝利してベスト4に進んだ後にクラブはシーズン2度目の監督交代に踏み切り、育成部から移動させた小林寛を監督とした。この時期までに外国人選手は全員入れ替わり、出番が減った鈴木隆行も鹿島に戻るなど、チームは開幕前から大きく様変わりしていた。新体制で臨んだナビスコ杯準決勝では京都を下して決勝に進出したが、決勝では鹿島に敗れてタイトルを逃し、リーグ戦でも11月18日・第13節(日立柏)の柏戦を戦う前に残留争いの対象チームが勝利を飾ったためJ2降格が決定した。シーズン後には再びチーム改革が行われ、シーズン終了まで指揮を執った小林監督の他、杉本ゼネラルアドバイザー・松本社長・小浜副社長のクラブ首脳陣、奥野僚右主将、JFL時代からチームの顔だった中西など、多くの選手やスタッフがクラブを退団した。再びJ2でのシーズンとなったこの年は堀井美晴が監督、サンパウロFCの元監督で現役時代に名古屋でもプレーしたピッタをコーチに迎え、前年にサンパウロFCから札幌へレンタル移籍していたブラジル人FWエメルソンを完全移籍により獲得した。エメルソンはハイペースでゴールを重ねたが、チーム自体は守備戦術の整備が進まずに低迷し、7月14日の第20節・甲府戦に引き分けた時点で8位となっていた。この後、堀井監督は解任、大分を解任されたばかりの石崎信弘を新監督に迎えた。クラブは長期的視点に立ったチーム整備に方針を転換し、新人DFの伊藤宏樹は出場停止の最終節を除く43試合に出場した。一方、ピッタコーチとエメルソンは揃って浦和へ移籍した。結果としてシーズンは7位に終わったが、最終節の山形戦(山形県陸)では浦上壮史の好セーブ連発と我那覇和樹の延長Vゴールにより1 - 0で勝利し、山形のJ1昇格を阻止した。続く第81回天皇杯では戦力外通告を受けた阿部良則や伊藤彰などの選手が活躍してベスト4の成績を収めた。なお、クラブ体制自体も前年までの混乱から一新され、富士通サッカー部のマネージャーや日本サッカーリーグの運営委員、富士通本社の部長などを務めてきた武田信平が前年12月から社長に就任し、強化担当の事業本部長(ゼネラルマネージャー)は元富士通サッカー部監督の福家三男となった。運営面では地域社会との関係強化が図られ、運営会社の商号が「富士通川崎スポーツマネジメント」から「株式会社川崎フロンターレ」へ変更され、川崎市や他企業、およびサポーター持株会などからの資本を受け入れた。また、クラブによる従来のファンクラブと、川崎市が組織していた川崎市民後援会が統合された。同シーズンからV川崎が東京都調布市の東京スタジアム(現:味の素スタジアム)へ本拠地を移転したため、等々力でのJリーグ公式戦はフロンターレ主催試合のみ行われる事になった。石崎体制2年目。ベンチーニョ、マルキーニョや途中加入のマーロン、アレックスなどのブラジル人選手が攻撃を担い、中盤には神戸からレンタル移籍した茂原岳人が加わった。さらに、DF岡山一成を獲得し守備力を強化。石崎のプレス戦術も浸透し、勝ち点を多く積み上げたが、前半戦の出遅れが最後まで挽回できず、4位に終わった。第82回天皇杯はベスト8に入った。新加入の岡山はファンサービスに熱心で、試合後にバックスタンドの前でサポーターからメガホンを借り、ビールケースの上に乗って観客に対する「マイクパフォーマンス」を度々行った。これは「岡山劇場」と呼ばれ、クラブ・チームとファン・サポーターの一体化に大きく貢献し、岡山の退団後もクラブの伝統として他選手や来賓・ゲストなどに引き継がれた。石崎体制3年目。ブラジルのSEパルメイラスから獲得したFWジュニーニョが我那覇和樹とともに前線で活躍、また鹿島から移籍したDFアウグストも攻守にわたりチームをまとめ上げた。また、大宮からFWバルデスを獲得したが、年齢の影響やケガにより3得点に止まりシーズン途中に退団した。日本人の新加入選手では、前年J1に昇格した大分から石崎監督と一緒のJ1昇格を実現するために移籍したMF山根巌、テスト生から採用された新人ながら開幕の広島戦でデビューし、主に交代要員として全試合でベンチ入りしたMF中村憲剛などが加わった。しかし、リーグ最多の88得点、リーグ最少の7敗ながらリーグ最多タイの13引き分けと「勝ちきれない」試合が多く、最終的には2位と勝ち点1差の3位に終わり、J1昇格に失敗した。シーズン終了後に石崎が監督を辞任した。第83回天皇杯ではベスト16に進出し、2回戦の国見高校戦(等々力)の後には選手やサポーターによる石崎監督の胴上げが行われた。鹿島でコーチを務めていた関塚隆が監督に就任。また、鹿島からDF相馬直樹、新潟から2年連続でJ2リーグ得点王のマルクスを補強した。リーグ戦では開幕直後から首位を独走し、9月26日・第36節の水戸戦(笠松)でマルクスの2ゴールにより2 - 1で勝利してJ2の2位以内によるJ1昇格が「内定」、続く10月2日・第37節の横浜FC戦(等々力)にも勝利して5年ぶり2度目のJ2優勝が確定。シーズン最終成績も勝ち点105、得点104と、昇格後に設定した「ダブル・トリプル」の目標を達成した。また、ジュニーニョは37得点を挙げてJ2得点王を獲得した。第84回天皇杯ではベスト16に入った。関塚体制2年目。J1昇格を機に、地域密着に更に力を入れるため、エンブレムから「FUJITSU」という企業名を外し、5年ぶりのJ1シーズンを迎えた。現有戦力をベースにし、若干名の補強選手を加えて臨んだが、序盤戦は試合終了間際に失点を喫する試合が続き、中盤戦は攻撃陣に怪我人が相次いだ影響もあり勝ちきれない試合が多かった。しかし、8月の中断期間中に行ったキャンプで戦術を熟成した結果チーム状態が好転、終盤戦ではチーム新記録となる6連勝を記録した。また、川崎市出身のDF箕輪義信が日本代表に選出された。シーズン成績は8位となり、最低条件の「J1残留」を果たした。天皇杯は2年ぶりにベスト8へ進出した。関塚体制3年目。アウグストが退団、相馬・久野が現役を引退。一方で左サイドに新外国人マルコンを獲得。開幕戦の新潟戦で我那覇和樹のハットトリックなどにより6 - 0、第2節の京都戦でもジュニーニョのハットトリックを含む7 - 2で下し、開幕2試合で13得点のJリーグ新記録を打ち立てて好スタートを切り、2006 FIFAワールドカップ前の中断期間を暫定ながら首位で折り返した。中断期間中にマルクスが東京Vに移籍した一方、MFマギヌンを獲得した。W杯終了後に日本代表に我那覇、続いて中村憲剛が招集され、それぞれ代表デビューを果たした。終盤浦和やG大阪との直接対決で一時調子を落とすも、最終節でG大阪を抜いて2位で終了。ジュニーニョ、我那覇、中村、谷口博之の4選手がリーグ戦で2桁得点を挙げ、チーム合計84得点(リーグ1位)となった。中村と谷口はJベストイレブンに選出。また、シーズン18得点の我那覇が日本人得点王(タイ記録)となった。前年の天皇杯で優勝し、既にAFCチャンピオンズリーグ (ACL) 出場権を得ている浦和がリーグ戦で優勝したため、規定によりAFCチャンピオンズリーグ2007への出場権を獲得した。関塚体制4年目。シーズン前最初の練習試合で新加入のフランシスマールが左膝靱帯断裂の重傷を負ったが、3月3日のJ1開幕戦(等々力)で鹿島を下し、4月15日の第6節(等々力)にはチーム史上初めて清水に勝利、4月21日に埼玉スタジアム2002で行われた第7節では、浦和のホーム連続不敗のJリーグ記録を25試合で止めた。4月23日、我那覇和樹が試合後に受けた疲労回復の静脈注射(点滴)がJリーグのドーピング(禁止薬物使用)規定違反と認定され、自粛期間を含めて公式戦6試合の出場停止、チームにも1000万円の罰金となった。我那覇は5月19日の大分戦から復帰したが、以後は精彩を欠き、年間を通じて1ゴールのみに終わった。この問題はその後も尾を引き、結局は2008年にスポーツ仲裁裁判所で審理される事になったが、仲裁の結果は我那覇にドーピングの事実が認められないとされ、かつ、Jリーグ側に仲裁費用の負担を求める異例の裁定となった。名古屋から獲得したGK川島永嗣は全34試合フル出場を果たし、我那覇に代わり先発で起用されたプロ2年目の鄭大世は12得点と飛躍、22得点のジュニーニョは2004年のJ2に続きJ1でも得点王に輝き、リーグ2位の計66得点を挙げた一方、失点はリーグ11位の48失点に上り、前年を下回る5位でシーズンを終了した。AFCチャンピオンズリーグ2007は、グループリーグF組を1位で通過したが、準々決勝でセパハンにPK戦で敗退した。また、9月23日のJ1第26節・柏戦(柏)で、セパハンとの第1戦から先発選手8人を入れ替えて臨み、0 - 4と大敗した。Jリーグ専務理事(当時)の犬飼基昭 は「ベストメンバーの出場を求めた自分達への背信行為であってサポーターへの裏切り行為だ」と怒りを顕わにしたが、川崎側は当該試合の前にJリーグ事務局へ予めベストメンバー規定に抵触していない旨を事前確認していた。また、川崎は勝ち残っていた浦和に情報を提供し、浦和は決勝でセパハンを下して優勝した。優勝後、浦和は川崎の協力について感謝すると述べた。ナビスコ杯は決勝でG大阪に敗れて準優勝。天皇杯はベスト4で鹿島に敗れた。AFCアジアカップ2007に中村憲剛およびGK川島が日本代表に選出。中村は決勝まで5試合連続で先発起用された。また、代表候補合宿には森勇介と黒津勝も初招集された(正式メンバー登録はならず)。FW鄭大世も北朝鮮代表に初選出され、東アジアサッカー選手権2008予選大会で3試合8得点で得点王となり、翌年2月の本大会進出に貢献した。関塚体制5年目。MFマギヌンが名古屋へ移籍。一方で東京Vへ期限付き移籍していた吉原慎也、フッキらがチームに復帰し、千葉より山岸智を獲得した。また、青山学院大学からMF田坂祐介、駒澤大学からMF菊地光将、早稲田大学からDF横山知伸、下部組織よりトップチームへ昇格のDF吉田勇樹(後にU-19日本代表に選出)らが加入。開幕戦の東京V戦で試合終盤に追いつかれドローに終わると、続く神戸戦に1-4で大敗。更に神戸戦での起用法を不満としたフッキが4月2日に退団、東京Vへ完全移籍した。その後は安定感を欠いた戦いを強いられ、フッキによる一連の騒動による心労、かねてから罹患していた持病の不整脈の悪化もあり、関塚が検査入院のため離脱。入院こそ免れたものの、ドクターストップがかかり、同月24日に監督を辞任。ヘッドコーチの高畠勉が監督に昇格した。一方、5月27日には我那覇和樹が、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) にJリーグが科した処分(ドーピング禁止規定違反)の取り消しを求めた問題で、スポーツ仲裁裁判所は我那覇の訴えを認める裁定を下した(ただし、Jリーグ側は誤訳を盾に我那覇本人、及び当時のチームドクターへの正式な謝罪は未だ行われていない)。6月21日には箕輪義信を札幌へ期限付きで放出するも、7月8日にはサントスFCのMFヴィトール・ジュニオールを期限付移籍で獲得。7月29日にはFW都倉賢を草津に期限付きで放出するも、8月5日にはサントスのFWレナチーニョを期限付き移籍で獲得した。8月に川崎フロンターレ後援会の会員数が初の2万人を突破。また、この頃から等々力陸上競技場の老朽化及び混雑に対し、競技場の全面改修を求める請願書の提出の一環として、シーズン終盤に10万筆目標の署名活動を行った(最終的に15万4020筆を集め、2月18日に川崎市へ提出)。シーズン成績は、首位争いに加わり、リーグ最終節まで優勝の可能性を残し、2006年以来の準優勝でシーズンを終え、AFCチャンピオンズリーグ2009の出場権を獲得した。体調が回復した関塚が再び監督に就任、前年途中から指揮を執った高畠は再びヘッドコーチに就任した。我那覇と箕輪がそれぞれ神戸、札幌に完全移籍し、原田拓が熊本へ、大橋正博がKリーグ江原へ、レンタル移籍だった都倉賢(草津)、西山貴永(仙台)が完全移籍するなど7選手が退団。また、FC東京にレンタル移籍していた佐原秀樹のレンタル期間が1年延長された。主な補強はC大阪へ期限付き移籍していた相澤貴志の復帰、新戦力として、特別指定選手として2004年・2005年に所属していた清水の矢島卓郎を完全移籍で獲得(事実上の古巣復帰)、レンタル移籍だったヴィトール・ジュニオールを完全移籍で獲得、ジュニーニョも契約期間延長するなど攻撃陣を中心に選手を獲得した(なお、前年に東京Vのレンタル移籍から復帰した吉原慎也が磐田へ再度レンタル移籍)。ナビスコカップは決勝まで進んだが、2000年、2007年に続き、準優勝に終わった。この決勝戦後の表彰式において、協会名誉総裁の高円宮妃久子はじめ協会幹部やスポンサー関係者の前で、川崎の一部選手が「首にかけて頂いた準優勝メダルを外す行為」、「握手を拒む行為」、「壁に寄り掛かかんだり、しゃがみ込む行為」、「ガムを噛みながらの表彰式参加」といった行動 をとったことが問題となった。これを受けて、クラブ側の川崎は謝罪、準優勝賞金5000万円の自主返還、社長ら役員3人の減俸、森勇介の最低1試合の出場停止などの処分を発表した。リーグ戦では終盤に首位に立つが第32節に大分に敗戦、鹿島に再度首位を明け渡した。優勝は最終節までもつれ込み、「川崎が勝ち、なおかつ鹿島が引き分け以下でなければ川崎の優勝はない」という状況で、12月5日の最終節で柏に3 - 2で勝利したが、鹿島が浦和に勝ったため鹿島の優勝が決まり、川崎は2年連続で優勝を逃した。天皇杯でも仙台に敗れた。関塚がこのシーズン限りで監督を辞任した。12月26日に『公益のため多額の私財を寄附した』功に対して、日本政府より褒状を受けた。後任監督にヘッドコーチの高畠勉が就任。コーチ陣ではフィジカルコーチの里内猛がクラブを離れたが、U-18で指導に当たっていたクラブOBの鬼木達がトップチームコーチに就任。横浜FMから小宮山尊信が完全移籍、スタッド・レンヌから9年ぶりのJリーグ復帰となる稲本潤一を獲得。佐原秀樹がFC東京への期限付き移籍から2年ぶりに復帰した。一方、村上和弘が大宮へ移籍。吉原慎也が退団(のち柏に加入)、山岸智や、養父雄仁、久木野聡・杉浦恭平などがそれぞれ期限付き移籍した。2010年のACLは、開幕がJリーグ開幕前の2月下旬にずれ込んだのに対応できなかったのと、アウェー全敗がたたって予選敗退。2010 FIFAワールドカップ日本代表に川島永嗣、稲本潤一、中村憲剛の3人が選出され、川島は日本の全4試合にフル出場し、ベスト16進出に貢献した。また稲本が終盤での出場で2試合、中村が1試合出場した。北朝鮮代表には鄭大世が選出された。W杯終了後の7月、川島がベルギー1部のリールセSKへ、鄭がドイツ2部のVfLボーフムへ移籍。また、先発メンバーから外されたレナチーニョが高畠の采配に不満を訴え、練習ボイコットからブラジルへ無断帰国し、8月末にポルトガル1部のポルティモネンセへ期限付き移籍した。中断期までは鹿島や名古屋を射程圏内に入れていたが、川島の穴を相澤貴志が埋めた一方、鄭の穴を埋めるには至らず、中断期間以降はこれまでの攻撃力に陰りが見えた上、守備でも脆さが露呈するなど先制しても逃げ切れない試合が目立つようになった。その後、次第に上位争いから脱落し5位でシーズンを終了、ACLの出場権も逃した。高畠はシーズン終了後に監督を退任した。町田元監督の相馬直樹が監督に就任。DF森勇介が東京V、稲本潤一の加入などで出場機会を減らした谷口博之がユース時代に所属した横浜FM、植草裕樹がレンタル移籍先の山形、木村祐志が北九州へそれぞれ移籍した。一方で横浜FMから山瀬功治、田中裕介、東京Vから柴崎晃誠を獲得。U-21代表で活躍した實藤友紀をはじめとした6人の新人選手が加入した。リーグ前半戦、勝ち切れない試合が続く中、第11-18節まで8戦負けなしで一時は3位まで浮上した。しかし、中盤戦(夏場の連戦)以降失速し、7月23日(第6節)の新潟戦から9月11日(第25節)の神戸戦までリーグ8連敗を喫した。9月17日(第26節)の山形戦に勝利して、連敗を「8」で止めた が、連敗脱出後も残留争いに加わり、J1残留は果たしたが、J1復帰以降最低の11位に終わった。相馬体制2年目。川崎のエースストライカーとして活躍してきたジュニーニョが鹿島へ完全移籍したほか、通算11年在籍していた相澤貴志 が町田に、横山知伸がC大阪に、菊地光将が大宮に、久木野聡が栃木SCに完全移籍、棗佑喜が栃木SCに、薗田淳が町田にレンタル移籍、松本拓也がレンタル移籍期間満了につき湘南に復帰、昨シーズン甲府にレンタル移籍していた養父雄仁が熊本へ完全移籍、吉田勇樹が現役を引退し、スクール・普及コーチに就任した。補強は、湘南から西部洋平、C大阪から小松塁、京都から森下俊を完全移籍で、コリチーバFCからレナト、ジェシ。グレミオからレネ・サントスをレンタル移籍で獲得、2年間愛媛にレンタル移籍していた杉浦恭平が復帰した。開幕2連勝と順調なスタートを切ったが、その後は公式戦5戦勝ちなしと低迷。その後3月31日の浦和戦、4月8日のFC東京戦で数的有利でありながら勝てないなど攻撃面での行き詰まりを見せたことや、開幕前後から選手との関係が疎遠になっていた事 などを理由に4月11日に相馬を解任した。その後、後任監督決定までの3試合(ナビスコ杯の1試合を含む)をコーチの望月達也が監督代行としての指揮を経て、同月23日、筑波大監督の風間八宏が監督に就任した。中盤こそ故障者が多発したことや決定力不足により苦戦した時期もあったが、11月7日の浦和戦で4対2で勝利した試合から、シーズン終了まで3勝1分と負け無しでシーズンを終える。最終的には前年を上回る8位でフィニッシュした。レナトがシーズン終盤になってチームにフィットして大車輪の活躍を見せたり、大島僚太や楠神順平などの成長があったなど攻撃面では収穫があったが、天皇杯4回戦の大宮戦で前半だけで3点をリードしながらも後半だけで4失点して敗退するなど、守備面で課題を残すシーズンとなった。また本拠の等々力が大型改築に入った。風間体制2年目。12シーズン在籍してきた黒津勝が横浜FCへ移籍。前年に主力として活躍した山瀬功治が京都、楠神順平がC大阪、小松塁が大分に、昨シーズン途中から古巣の東京Vに期限付き移籍していた柴崎晃誠が徳島へそれぞれ完全移籍。同じくシーズン途中から栃木SCへ期限付き移籍していた田中雄大が鳥取に、杉浦恭平が神戸へ、安藤駿介が湘南へ、森下俊が横浜FCへ期限付き移籍した。補強では横浜FMから森谷賢太郎、札幌から山本真希、G大阪から中澤聡太、神戸から大久保嘉人、東京Vから新井章太を、新外国人としてパトリックを獲得。棗佑喜と薗田淳が期限付き移籍から復帰した。更には風間の強い要望でトレーニングコーチとして西本直が入閣した(しかし、5月に一身上の都合で退団)。2005年以来となるアウェイでの開幕戦となった柏戦は3-1で敗戦、その後の大分戦は大久保のゴールのみに留まって1-1の引き分けになるなど、6節を終えて勝ち無し(3敗3分)で第3節までは降格圏に低迷する。しかし7節の仙台戦で4-2でリーグ戦初勝利を挙げると、8節の東京戦で敗れた以降はコンフェデレーションズカップによるリーグ戦中断まで5月は5試合負け無しで8位と持ち直した。ナビスコカップでは、2010年以来3シーズンぶりに決勝トーナメント進出を果たした。しかも「ACL出場チーム以外のJ1チームでグループリーグ→グループリーグ上位+ACL出場チームで決勝トーナメント」というレギュレーションになった2005年以降では、初めて自力で決勝トーナメントに進出 した。しかし決勝トーナメントで準々決勝の仙台こそ危なげなく勝ち進んだものの、準決勝の浦和戦ではホーム・等々力での2失点が祟り、2戦合計3-3(アウェーゴール数だけなら0-2)で敗退した。リーグ戦前半戦終了時には首位広島と勝点差8の7位だったが、後半戦に入り8月9月と9試合連続で連勝が出来ない状態が続き、順位も6位と10位の間を推移する。しかし、第27節名古屋戦から最終節までの8試合を3連勝4連勝各1回の7勝1敗。しかも8試合の中で唯一敗れた鹿島戦こそ4失点だったもののそれ以外の7試合を1失点以内に抑え、最終節にはホーム・等々力で当時首位だった横浜との神奈川ダービーを制し、横浜を首位から引きずり下ろすと同時に自らは3位に浮上。スコアレスドローも含めての無失点試合は僅か6と2005年の再昇格以降2番目に少ない数字だったが、その失点数を上回る程の得点力(リーグ2位の65得点)を武器にAFCチャンピオンズリーグ2014出場権を獲得した。天皇杯では高知大学、東京V、山形と格下相手ながら順調に勝ち進み、4年ぶりにベスト8に入る。初のJ1勢との対決となった鳥栖に延長戦の末敗れた。風間体制3年目。J2時代の2001年からチームを支えてきた伊藤宏樹が現役を引退、風間宏矢が大分、矢島卓郎が横浜FM、棗佑喜が松本、風間宏希が北九州へ、薗田淳が札幌、鳥取へ期限付き移籍していた田中雄大が水戸へ完全移籍、高木駿が千葉へ期限付き移籍、アラン・ピニェイロ、ロブソンが期限付き移籍期間満了、谷尾昂也(鳥取)杉浦恭平(神戸)が期限付き移籍先に完全移籍、昨年横浜FCに期限付き移籍していた森下俊は磐田に期限付き移籍した。補強は、大分から森島康仁、横浜FCから武岡優斗を完全移籍で、栃木からパウリーニョ、大宮から金久保順を期限付き移籍で獲得、安藤駿介が期限付き移籍から復帰、昨年途中に特別指定選手として登録された筑波大学のMF谷口彰悟、阪南大学のMF可児壮隆が入団した。2014年のACLでは、最初のアウェー2戦(蔚山現代ホランイ、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC)こそ落としたものの、Jリーグの日程を調整したり、ホームで負けなかったのに加え、広州恒大の3冠を阻止した中国FAカップ王者・貴州人和にアウェーで勝った事がものを言い、2009年以来5年ぶり3回目の決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメントでは前年のファイナリストであるFCソウルと対戦。等々力での第1戦で2-3で敗れた事で、第2戦こそ2-1で勝利しトータルスコア4-4だったものの、アウェーゴール数で下回り(川崎の2に対しFCソウルは3)ベスト16で姿を消した。天皇杯は3回戦で愛媛FCに敗れ、ACL出場に伴い決勝トーナメント準々決勝からの出場となったナビスコカップはC大阪にこそ2戦合計5-4で勝ちあがったものの、小林を代表招集で失った準決勝のG大阪に2戦合計4-5で敗れ、準々決勝からの不安材料だった守備の脆さが露呈された形で2年連続準決勝敗退となった。リーグ戦では15節から26節までは僅か2敗とACL出場権争いの4位以内はキープできていたが、終盤は不安定だった。当時首位だった浦和や鳥栖を破ったかと思えば、鬼門であるデンカビッグスワンスタジアムで2012年以外勝ちの無い新潟にあっさり負けたり、J1残留争いを演じる甲府と清水とのゲームに先制しながらも2試合続けて逆転負けする有様。おまけに主将の中村が左足関節骨棘障害で離脱したのが祟り、中村が先発から外れた最後の6試合で1分け3敗と急失速し、得点王を2年連続で獲得した大久保の頑張りも報われず、ACL出場圏も逃し6位に終わった。風間体制4年目。田中裕介がオーストラリアのウエスタン・シドニーへ、稲本潤一が札幌へ、杉山力裕が清水へ完全移籍、福森晃斗が札幌へ、可児壮隆が湘南へ、森島康仁が磐田へ、中澤聡太がC大阪へ期限付き移籍、パウリーニョ、ジェシ、金久保順が期限付き移籍期間満了につき退団した。また高木駿、森下俊の期限付き移籍期間が延長した。補強は、仙台から角田誠、大宮から橋本晃司、松本から船山貴之、C大阪から杉本健勇、徳島から松井謙弥を完全移籍で、アメリカFCからエウシーニョを期限付き移籍で獲得。ユースから板倉滉、三好康児が昇格し、昨年途中に特別指定選手として登録された筑波大学の車屋紳太郎、同じく筑波大学の中野嘉大が入団した。4月25日のJ1リーグ1st7節ヴァンフォーレ甲府戦において2000年のJ1リーグ初参入から11シーズン余りで、ホーム等々力陸上競技場でのJ1リーグ戦通算100勝目を達成。2000年から社長を務めていた武田信平が会長に就任。後任の社長には藁科義弘が就任した。6月には、2007年から6シーズン在籍し、ドイツ・ブンデスリーガ2部VfLボーフムに所属していた田坂祐介が3年ぶりに復帰した。1stステージ開幕戦、アウェイ横浜FM戦は3-1で勝利した。ホーム開幕神戸戦は引き分け第3節の山形戦で敗戦を喫するものの4月に入り、2勝1分1敗と調子を取り戻した。9節のFC東京戦では大久保嘉人がJ1の通算得点で横浜FCの三浦知良と肩を並べた。14節にはアウェイ清水戦で2-5と大敗を喫したが1stステージ終盤に3連勝を飾り1stステージは5位で終えた。7月にはホーム等々力に香川真司擁するドイツブンデスリーガの強豪ドルトムントを迎えての親善試合を行ったが、試合は香川の得点を含む6 - 0で敗戦、ドイツの強豪を相手に一点も取れずに大敗した。ナビスコカップでは予選リーグ6節までに2勝1敗2分で終え予選リーグ最終節仙台戦に予選突破の望みを繋いだが仙台に引き分けナビスコカップは予選リーグ敗退となった。2ndステージに入り開幕戦はFC東京に勝利したものの開幕戦直後に攻撃の主力レナトが中国・広州富力へ電撃移籍し、その後6節の山形戦で引き分けると3連敗を喫し4試合で2得点と失速した。9月に入り4連勝で16得点を重ね、CS出場への可能性を残したが14節で広島に敗れCS出場の可能性が消滅した。リーグ終盤戦に再び失速し1分2敗したものの最終節は仙台相手に勝利を収め、リーグ戦は2ndステージ7位、年間順位は6位で終えた。また大久保がシーズン23得点を挙げ史上初となる3年連続J1単独得点王に輝き、通算156得点となり中山雅史の通算得点記録157得点まであと1点に迫ったが惜しくも今シーズンの達成はならなかった。天皇杯では2回戦で中国リーグ松江シティFCに、3回戦でJ2京都サンガFCにそれぞれ勝利、4回戦では前年チャンピオンのG大阪と対戦、唯一残されたタイトルだったが0-2と完敗し天皇杯は4回戦で姿を消すこととなった。また、メインスタンドを改修していた等々力陸上競技場も完成した。風間体制5年目。西部洋平が清水、船山貴之、山本真希が千葉、杉本健勇がC大阪、山越享太郎が栃木、實藤友紀が福岡、松井謙弥が大宮へ完全移籍、湘南に期限付き移籍していた可児壮隆、千葉に期限付き移籍していた安柄俊が金沢へ期限付き移籍、角田誠(清水)、中澤聡太(C大阪)、森島康仁、森下俊(磐田)はそれぞれ期限付き移籍先へ完全移籍、福森晃斗は札幌への期限付き移籍期間が延長、アルトゥール・マイアが期限付き移籍期間満了により退団した。補強は、北九州から大塚翔平、千葉から森本貴幸、柏から狩野健太、京都から原川力、札幌から昨シーズンFC東京に期限付き移籍していた奈良竜樹という大島と共に参戦したAFC U-23選手権2016を制したU-23サッカー日本代表コンビに加え、水原三星ブルーウィングスから鄭成龍(チョン・ソンリョン)、アヴァイFCからエドゥアルド・ネットを完全移籍で獲得、高木駿が期限付き移籍先から復帰、順天堂大学から長谷川竜也が入団した。また、昨シーズンまで背番号16をつけていた大島僚太が今シーズンから背番号10をつけることとなり、尚且つクラブとして初めて日本人が10をつけることもあり注目を集めている。シーズン中に柏からエドゥアルドを期限付き移籍で獲得。1stステージ開幕戦で昨年のリーグ王者広島に勝利すると、ここから7節まで5勝2分と良い出だしを切った、8節は浦和との上位直接対決に敗れたものの、ここから更に5勝2分と好調を維持し1stステージ残り2試合で首位に立ち自力優勝の可能性を残し2位鹿島と勝ち点1差で迎えた16節アウェイでの福岡戦、中村憲剛を怪我で欠く厳しい状況。試合は前半15分までに金森健志一人に2点を奪われ、最下位福岡相手に2点を追う厳しい展開に、その後2点を返し試合は2-2の引き分けに終わったが鹿島が勝利した為2位となり自力優勝の可能性は消滅した、最終節は大宮に2-0で勝利したものの1stステージ優勝は僅かに届かずステージ順位2位で終えた。気を取り直して挑んだ2ndステージは小林が好調をキープし、開幕節となるユアテックスタジアム仙台での仙台戦から味の素スタジアムで行われたFC東京との多摩川クラシコまで全てゴールを挙げて、迎えたShonan BMW スタジアム平塚で行われた湘南との神奈川ダービーで2-0とリードして迎えた後半15分、橋本のコーナーキックに頭で合わせ、それまで並び、自身も師匠と敬うジュニーニョのクラブ記録を更新する6試合連続ゴールを挙げた。またその神奈川ダービーも3-2で競り勝ち、クラブ史上新記録となる15戦無敗も記録、最終的には8月13日にベストアメニティスタジアムで行われた鳥栖戦で敗れ、8試合連続ゴールのかかった小林もノーゴールに終わるが無敗を16に伸ばした。9月17日に行われた第12節では一部サポーターが大宮サポーターとトラブルになり暴動を起こす騒ぎになった。劇的に神奈川ダービーを勝利して今年のリーグ戦はマリノスに2戦2勝で終わった。富士通サッカー部は1996年にプロ化を推進するにあたり、Jリーグの理念に沿った地域社会との共生を目指すことをテーマに掲げた。地元川崎市の各行政区でのサッカースクール(学校巡回スクール含む)の実施といったサッカーに関わることだけでなく、地域の市民・区民まつりへの参加、市内各商店街等の行事への選手らの派遣(お年始など)、また地元商店街加盟店舗などの協賛によるマン・オブ・ザ・マッチの表彰制度「あんたが大賞」、週末のホームゲームでのサイン会等を積極的に行うように務めた。特に、クリスマスシーズンに行われる入院児への訪問活動「青いサンタクロース」は毎年恒例の奉仕活動として定着している。一方、ホームタウンである川崎市も2004年9月に「川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー」を制定。フロンターレはこの創設メンバーとして認定を受け、これに基づく活動を推進していくことになった。また、その中で、川崎市は他の地元企業・団体、またサポーター持株会と共に、運営会社(当時の富士通川崎スポーツマネジメント)の株式の一部を取得した。現在は富士電機・富士通グループ各社のほか、川崎市に本社や事業所を持つ企業・公益法人など36の団体が出資している。特に富士通系のスポーツクラブではフロンターレのほか、女子バスケット「レッドウェーブ」、アメリカンフットボール「フロンティアーズ」もこのパートナーに参加しているが、男子バレーボール「川崎レッドスピリッツ」は、富士通系で唯一まだこのパートナーに加盟していない。2006年はクラブ創立10周年に当たり、川崎市商店街連合会を通じ、市内の全商店街の街灯にチームの応援タペストリー(ふろん太のデザイン)を配布。2006年1月の時点では、タペストリー掲示を了解したのが加盟全139団体(商店街以外を含む)中68団体と紹介されている。両者の良好な関係はその後も続き、2014年には同連合会に加盟する市内全域の11地区の商店街連合会 全てと市連合会の青年部が「あんたが大賞」として、フロンターレの主催試合で最も印象に残る活躍をした同チームの選手 (MIP) に各地区の名産品などの商品を贈り、持株会の理事長には川崎市商店街連合会の相談役(元会長)である和田義盛が就任している。また広報担当者のインタビュー記事には、後援会員の75%が等々力陸上競技場と富士通本店・川崎工場のある中原区、クラブ事務所のある高津区、そして市が整備しフロンターレが指定管理者となって2006年4月に開業した「フロンタウン・さぎぬま」(フットサル場)のある宮前区の3区在住者で占められるとあり、クラブ方針としても特にこの3区での営業活動を先行して重視するとしている。川崎競馬場で2006年11月2日にJBCマイル競走の前座として「祝10周年・フロンターレ特別」が行われた。またトップチームの麻生練習場がある麻生区では2009年に「麻生アシストクラブ」が発足した。「しんゆり・芸術のまちづくりフォーラム」内に事務所が置かれ、商店街や各種団体などが構成する同クラブを川崎市役所(麻生区役所)やフロンターレが後援する形を取って、同区内での広報・支援活動を展開する事になった。同クラブでは小田急電鉄の協力も受け、麻生練習場の最寄り駅である小田急多摩線栗平駅のホーム脇陸橋に告知看板を出すなどの活動をしている。スポーツ交流パートナー事業以外の異競技交流では大相撲・春日山部屋が川崎市川崎区にある という縁で、フロンターレのファン感謝デーに春日山部屋の力士をゲスト出演として招き、フロンターレの主催試合では春日山部屋の所属力士が同部屋のちゃんこを販売する屋台が競技場外の広場に毎回出店されている。また、毎年1度は同部屋の力士が等々力陸上競技場を訪れ、相撲にちなんだイベントを行う「イッツァスモウワールド」 を実施している。2014年は開催が途切れたが、2015年4月29日のJ1・1stステージ第8節、柏レイソル戦では2年ぶりに開催され、同部屋力士によるアトラクション、特製ちゃんこなどの飲食販売、等々力陸上競技場での枡席の設置、選手入場前の呼出による両チーム名の読み上げなどが行われた。なお、この時の開催は日本相撲協会も後援し、本場所(五月場所)のチケット販売、特製焼き鳥の販売、マスコット「ひよの山」の来場、始球式では人気の高い振分親方(現役時代は高見盛精彦)の参加などで協力した。一方、2009年からは毎年1回、両国国技館での本場所でフロンターレが告知してサポーターが集まる春日山部屋応援ツアーが実施され、同部屋所属の春日王克昌などの応援に駆けつけ(2010年9月13日 NHK総合テレビジョン「Bizスポ」より)、2011年も九月場所(秋場所)9日目の9月19日に実施された。春日王は大相撲八百長問題によって2011年4月に引退したが、同年の「イッツ・ア・スモウワールド」開催日となった5月3日のジュビロ磐田戦では春日王が試合前にグラウンドに登場して引退報告と今までの支援への感謝を述べ、5月28日に行われた春日王の断髪式には武田社長が参加した。元プロボクサーの新田渉世が川崎市多摩区に開いている川崎新田ボクシングジムとも協力関係にあり、2011年8月16日にとどろきアリーナで行われた同ジム主催の興行ではふろん太が登場し、「日本マスコット級タイトル決定戦(非公認)」として一平くん(愛媛FC応援マスコット)と対戦して勝利した後、メインイベントだった黒田雅之の日本ライトフライ級タイトルマッチでのラウンドボーイを務めた。2009年からは地元密着のための事業の一つとして、小学6年生用のオリジナル算数ドリルを作成し市内の小学校に配布している。これはプレミアリーグのアーセナルがロンドン市と共同で毎年製作している外国語学習教材にヒントを得たもので、初年度は市内の1校のみに配布されたが、2010年は前年のナビスコ杯準優勝の賞金を原資に市内の全小学校及び特別支援学校に配布先を拡大。2011年からは川崎市からも補助金が出るようになった。このドリルを題材とした小学生と選手の交流授業「算数ドリル・ゲストティーチャー」も行われている他、2011年には東日本大震災で被害を受けた岩手県陸前高田市の小学校にも同ドリルが寄付された。これらの活動を広くまとめた書籍として、2011年6月17日にフロンターレプロモーション部部長の天野春果が『僕がバナナを売って算数ドリルを作るワケ』を小学館から出版し、テレビ東京系のサッカー番組「FOOT×BRAIN」などでも紹介された。2016年3月現在、Jリーグが実施しているスタジアム観戦者調査において、2010年シーズンから5年連続で地域貢献度1位の評価を得ている。1997年のクラブ発足当初から存在していたファンクラブと、1999年に川崎市が設立した市民後援会が合流し、2001年から現在の川崎フロンターレ後援会の形となった。愛称は「ブルーフレンズ」。後援会長は事実上川崎市長の充て職で、初代は高橋清、その後は長く阿部孝夫が務めた後、2013年11月からは福田紀彦が就任している。毎年7月1日の市制記念日 付近で行われる「市制記念試合」では、後援会長を兼任する市長が試合前に挨拶をするのが恒例となっている。後援会員には個人・ファミリー(同一住所の2-4名)・ジュニア(小中学生) の3種別があり、特典として、「ホームAゾーン招待チケット」、「会員限定イベント参加権」、「シーズンチケット購入権」、会報誌「デルフィーノ」送付等がある。また、富士通が後援会員限定で自社パソコン「FMV」の特別価格商品やフロンターレ限定モデルを販売する事がある。2015年には招待チケットの配布枚数が1会員あたり2枚から1枚へと減少し、代わりに多様な席種での割引サービスが受けられる「えらべるクーポン」制度が導入された。後援会員の数は年々増加し、J1復帰の2005年には12,406人だったのが、2008年には20,189人と初めて2万人台となり、2011年には24,588人に達した。その後は減少傾向にあったが、2014年には27,051人で、初めて2万5千人を超えた。後援会のページでは、前年度での会員内訳が詳細に発表されている。その年代と性別は、以下の通りである。また、地域別では川崎市在住者が18,062人で全体の67%を占め、川崎市民(1,460,171人)全体に対しては1.24%、81人に一人と紹介されている。川崎市内の7区別では等々力陸上競技場のある中原区が6,383人で、会員数と区民全体(244,120人)に対する会員数比(2.61%、38人に一人)の双方で最高となっている。一方、最も南にある川崎区(1,224人、0.56%、180人に一人)は会員数と区民人口比の双方で最も低く、次いで市北部の多摩区と麻生区で区民人口比が1%を下回っている。川崎市外の会員数では横浜市が2,175人で最も多く、次いで中原区に隣接する東京都大田区、世田谷区などとなっている。また、こういったコラボレーションで、スポンサーの一つであるとんかつ和幸協賛の下、パロディー弁当が発売された。※このパロディー弁当が発売されると必ずチームは勝利を挙げている(2008年8月25日現在)。なお、上記の川崎市制記念試合では川崎市により市民が集団招待されているが、2004年(市制施行70周年)から2006年までは当時川崎市内在住で、「YOUNG MAN」を日本語カバーでヒットさせた西城秀樹が毎年招聘され、ハーフタイムショーに出演するのが常だった。2008年からは川崎麻世に代わって西城が再び出演するようになり、西城は2003年に脳梗塞を発症しており、2011年には同病を再発し、川崎市外への転出も行ったが、2012年以降の市制記念試合にも引き続いて出演している。川崎フロンターレはサポーターのアウェイゲーム観戦ツアーに、他チームとは一風変わった企画を行うことが多い。特にJ2時代も含めて新潟との東北電力ビッグスワンスタジアムにおいて行われた試合において勝利がなく(2012年に初めて勝利した)、新潟戦を対象としたアウェイゲームでは大々的な企画を実施している。
出典:wikipedia
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