王 連(おう れん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人。蜀漢の政治家。字は文儀。荊州南陽郡の出身。蜀書に伝がある。子は王山。劉璋の時代に益州に移り、梓潼県令となった。建安18年(213年)、成都に侵攻を開始した劉備軍が梓潼に進出したが、城門を閉ざして降伏しなかった。益州平定後、その義に感じ入った劉備から、令、のち広都県令に任命され、それぞれの地で治績をあげた。その後、司塩校尉に昇進した。塩と鉄の専売により、国庫の収入を大幅に増加させると共に、呂乂・杜祺・劉幹といった有能な人物を属官として任用した。また、蜀郡太守・興業将軍に昇進した後も、引き続き塩府の仕事を担当した。建興元年(223年)、屯騎校尉に昇進し、丞相長史を兼務。平陽亭侯に封ぜられた。諸葛亮が自ら南征に赴こうとした際には「南方は不毛の荒れ地で、風土病の多い土地です。一国の期待を担う人物が、危険を犯し出掛けるべきではありません」と、何度も諫言した。このため、王連の存命中は諸葛亮も成都に留まっていた。しかし彼がまもなく亡くなったため、やはり南征に出発することとなった。後主伝によると、諸葛亮が南征を実施したのは建興3年(225年)のことである。子は江陽太守になっている。
出典:wikipedia
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