本多 静六(ほんだ せいろく、慶応2年7月2日(1866年8月11日) - 昭和27(1952年)1月29日)は、日本の林学博士、造園家、株式投資家。日本の「公園の父」といわれる。旧名、折原静六。武蔵国埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に折原家の第6子として生まれた。東京山林学校に入学するまでの間河原井村で少年時代を過ごした。当時の河原井村は、戸数25軒ほどの小さな村だったが、中でも折原家は代々名主役を務める裕福な農家だった。ところが9歳の時に父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになった。しかしそれでも向学心は衰えることなく、14歳の年志を立てて島村泰(元岩槻藩塾長)のもとに書生として住み込み農閑期の半年は上京し勉学に努め、農繁期の半年は帰省して農作業や米つきに励むという変則的な生活を三年間繰り返した。明治17年(1884年)3月、東京山林学校(後に東京農林学校から帝国大学農科大学)に入学した。卒業時には首席となり銀時計が授けられた。卒業1年前の明治22年(1889年)5月、元彰義隊隊長、本多敏三郎の娘・詮子と結婚し婿養子となった。東京農林学校(現在の東京大学農学部)を卒業とともに、林学を学ぶためドイツへ留学した。ドイツでは、2つの学校に学び、最初はドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年、この後ミュンヘン大学へ転校し、更に1年半学問を極めた。ドクトルの学位を取得、欧米を視察した後帰国し、母校の助教授、教授になった。日比谷公園を皮切りに、北海道の大沼公園や福島県の鶴ヶ城公園、埼玉県の羊山公園、東京都の明治神宮、長野県の臥竜公園、石川県の卯辰山公園、福岡県の大濠公園ほか、設計・改良に携わった公園多数。東京山林学校卒業後に留学したドイツを始め、海外に十数回視察に赴き、明治期以降の日本の大規模公園の開設・修正に携わった。東京駅丸の内口駅前広場の設計も行っているほか、行幸通りも本多が担当し、その後歴代の弟子達が改良設計に携わる。また、関東大震災からの復興の原案を後藤新平内務大臣より依頼されて、二昼夜不眠不休で作成した。また、昭和3年(1928年)当時の比企郡菅谷村(現、埼玉県比企郡嵐山町)にある、現嵐山渓谷周辺を訪れた際、風景が京都の嵐山(あらしやま)によく似ていることから、武蔵嵐山(むさしらんざん)と命名したことにより、のちに駅名(東武東上線、菅谷駅・現武蔵嵐山駅)や自治体名(比企郡菅谷村)が町制施行時に嵐山町(らんざんまち)と改称している。幼少時に父親を亡くした経験とドイツ留学でのルヨ・ブレンターノ教授の教えから、勤倹貯蓄を処世訓とした。奈良県・吉野の土倉庄三郎翁の書生をしながら直接林業を学び、後に日本で最初の林学博士となった。投資家として巨万の富を築いたが、退官を機に匿名でほぼすべてを教育、公共の関係機関に寄付したことでも知られる。勤倹貯蓄は、収入の1/4は必ず貯蓄をし、貯金と株式投資によって40代で、分散投資を実施した。また、日々1ページ原稿を書くことを常としたため、370冊を超える著作がある。また、本多静六を称えて地元に記念碑が作られたとき、関係各位に申し訳ないことと、恥ずかしさから、息子を代理で出席させている。孫に、光触媒研究の本多健一がいる。1992年、生誕地に近い国道122号線沿い(当時)に本多静六生誕地記念園が完成し、1995年には記念園が埼玉県内で初の「道のオアシス」となった。2000年、菖蒲町生涯学習文化センター内に本多静六記念室が完成した。2002年、千葉県野田市郷土博物館所蔵の「染谷家文書」から川間小学校の設計に深く関わったことが明らかになった。2013年、没後60年記念事業として、本多静六記念室を久喜市菖蒲総合支所内に移転し、本多静六記念館に改称した。
出典:wikipedia
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