高倉 照幸(たかくら てるゆき、1934年12月8日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(外野手)。熊本商業高校では2年生の時、中堅手としての春の選抜に出場。1回戦で浜田高を降すが、準々決勝(2回戦)では、この大会に準優勝した鳴尾高の中田昌宏投手に抑えられ敗退。しかしこの大会唯一の本塁打を放ち注目される。3年時はエースとして活躍するが甲子園には届かなかった。高校同期に坂本盛明がいる。卒業時に巨人・阪神・西鉄ライオンズの勧誘を受けるが、に地元の西鉄に入団する。入団後に野手転向。翌には胸部疾患で欠場した塚本悦郎に替わって、強肩俊足を活かしてレギュラー中堅手となり、からは一番打者に定着する。豊田泰光・中西太・大下弘・関口清治らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、にリーグ優勝、稲尾和久が入団したからは3年連続日本一という西鉄の黄金時代を三原脩監督の下で築き上げた。には初めて三割打者(.304。リーグ5位)となりベストナイン外野手に選出される。その後、まで主に一番打者を務め、には当時の日本プロ野球タイ記録である6本の先頭打者本塁打を放つなど、チームトップの27本塁打を放ち、1964年には打率.317(リーグ3位)を記録し二度目のベストナインに選ばれている。なお、西鉄の晩年には、中西の故障や豊田の移籍もあり打線の中軸を任されることも多くなった。中西が監督になるとキャプテンに任命され、チーム内外からキャップとのニックネームで親しまれた。には赤字に苦しむ球団の経費節減策の一環として、読売ジャイアンツからの譲渡要請に応じ、宮寺勝利(プラス金銭)との交換トレードで移籍する。移籍一年目はONに続く五番・左翼手を任され、ONにもひけを足らない勝負強いバッティングで4割に迫る高打率をキープ。ファンからは西部からの用心棒と呼ばれて頼もしがられ、オールスターゲームもファン投票で選出された(故障のため辞退)。シーズン半ばで右肘関節炎でリタイヤし73試合の出場に終わるが、打率.274、15本塁打を記録、特に前半戦での活躍は目覚ましく、巨人の独走優勝に大きく貢献した。また、日本シリーズでも日本一を決めた第6戦で2点本塁打を放ち技能賞を獲得した。この年10月10日の対広島戦(後楽園)で高倉は通算1500本安打を達成。さらにこの試合において巨人は2回から7回にかけて高倉と堀内恒夫、瀧安治、末次利光と合わせて日本プロ野球記録となる6イニング連続本塁打を記録しているが、新記録は7回に高倉が打ったこの日2本目の本塁打によって達成されている。しかしには強肩好打の高田繁が入団して左翼手に起用されて新人王を獲得。高倉は故障もあって出場機会が減少して、打率.212、2本塁打と不本意な成績に終わる。オフには球団からコーチ補佐兼スカウトのポストを提示されたとされるが、高倉は従わず自由契約となる。翌に西鉄時代の同僚であった豊田泰光がコーチをしていたアトムズに移籍。外野の控えや代打として、には打率.312を記録するが、頭部への死球の後遺症や、監督に中西太を招聘するために高倉を戦力外にするとの球団方針もあり、現役を引退した。1971年にはTBSで、1979年から数年間はRKB毎日放送で野球解説者を務めた。また1970年代後半には、西日本スポーツ野球評論家も務めている。また、1977年からは福岡市中洲で高級スナックの「キャップ」を経営した。1988年からは少年野球チームの福岡南リトルシニアの監督に就任、現在は会長・総監督を務めている。先頭打者本塁打が非常に多く、また一番打者にかかわらず初球を打ってよく安打を放ったことから、切り込み隊長と呼ばれた。通算先頭打者本塁打は18本。1954年に当時毎日オリオンズのエースであった荒巻淳を打ち崩したことをきっかけに左投げ投手を得意とし、左殺しとも呼ばれた。強肩で同期入団の豊田からは「バカ肩」と評価されている。当時の西鉄選手に愛好者が多かった、俗に言う『飲む、打つ、買う』のいずれにも興味を示さず、機械いじりを趣味とした。部屋にカメラを大量に並べ、写真を撮るより、分解して再び組み立てることに熱中した。のちに機械いじりが高じて、人並み外れた熱烈なカーマニアとなり、フォルクスワーゲン・シボレー・ビュイック・ベンツと、昭和30年代としては異例とも言える1台数百万円する高級な輸入外国車ばかりを何台も買い漁った。やはり運転ではなくエンジンルームの整備を好み、パーツの交換費などで年俸を食いつぶすほどであった。高倉の選手としての全盛時代を考えても、当時としては破格の金銭を車のために注ぎこんでいたと思われる。
出典:wikipedia
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