日本海海戦(にほんかいかいせん、1905年5月27日 - 28日)は、日露戦争中に行われた海戦である。日本以外ではこれを主力決戦の場所に因み対馬沖海戦(つしまおきかいせん、英語:Battle of Tsushima、 (Tsusimskoye srazheniye))と呼ぶ。この海戦は日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で戦われた。連合艦隊はロシア海軍両艦隊を撃滅し戦力のほとんどを失わせたが、連合艦隊の損失は軽微という海戦史上稀な一方的勝利となった。これにより両国間のポーツマス講和会議への道を開いた。なお日本では上記のロシア海軍両艦隊を指して「バルチック艦隊」と呼ぶことが定着しており本稿でもこの呼び名を用いる。日露戦争開戦時のロシア海軍は対日戦に備え、旅順およびウラジオストクを母港とする極東の太平洋艦隊を増強していたが、戦艦「オスリャービャ」などの移動が間に合わないなど十分と言えるものでは無かった。ロシア指導部は本国に戻った「オスリャービャ」などの艦艇にバルト海方面に残っていた旧式艦と建造・調整中のボロジノ級戦艦4隻などを加え、艦隊を編成して極東海域へ増派することを決定した。司令長官にはジノヴィー・ロジェストヴェンスキー少将(後に中将へ昇進)、副司令官にはドミトリー・フェルケルザム少将が任命された。この新編成艦隊には「第2太平洋艦隊」の名前が与えられ、それまでの太平洋艦隊は第1太平洋艦隊と改称された。なお黒海艦隊はロンドン条約により黒海を出ることを禁止されており、仮装巡洋艦などを除いてこの遠征に加わることはできなかった。当時、石炭補給が常に必要となる蒸気船からなる大艦隊を、水兵と武器弾薬を満載した戦時編成の状態で、ヨーロッパから東アジアまで回航するのは前代未聞の難事であった。さらに、航路は日本と日英同盟を締結していた上に、ドッガーバンク事件の影響で険悪となったイギリスの制海権下にあり、良質な石炭はイギリスが押さえていたため劣悪な質の石炭しか入手できる見込みはなかった。ロシアと露仏同盟を結んでいたフランスや、皇帝同士が姻戚関係にあったドイツ帝国も、日英同盟によって牽制を受け、中立国の立場以上の支援を行うことはできなかった。遠征途中に旅順艦隊が壊滅した知らせが入ると、更なる増援としてニコライ・ネボガトフ少将を司令長官とする第3太平洋艦隊が編成された。1904年(明治37年)10月15日、第2太平洋艦隊はリバウ軍港を出航した。10月21日深夜、第2太平洋艦隊は北海を航行中にイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して攻撃し、乗組員を殺傷してしまう(ドッガーバンク事件)。これによってイギリスの世論は反露親日へ傾き、イギリス植民地の港への第2太平洋艦隊の入港を拒否した。以後第2太平洋艦隊はイギリス海軍艦隊の追尾を受け、これをしばしば日本海軍のものと勘違いして、将兵は神経を消耗させられた。1905年(明治38年)3月16日、第2太平洋艦隊はフランス領マダガスカル島のノシベ () 港を出航した。この時点ですでに旅順要塞は陥落し、旅順艦隊の残存艦艇も壊滅していたため(1905年(明治38年)1月1日)、日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するという当初の回航の目的は達成困難になっていたが、第2太平洋艦隊は目的地をウラジオストクに変更して航海を続けた。インド洋方面にはロシアの友好国の港は少なく、将兵の疲労は蓄積し、水、食料、石炭の不足に見舞われた。5月9日、第2・第3太平洋艦隊はフランス領インドシナのカムラン湾で合流した。日本海軍の連合艦隊は、すでに1904年(明治37年)8月10日の黄海海戦でロシア太平洋艦隊主力の旅順艦隊に勝利し、8月14日の蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊にも勝利したことで極東海域の制海権を確保していた。また旅順要塞の陥落(旅順艦隊の壊滅)の後、艦艇を一旦ドック入りさせるとともに、入念に射撃訓練を行い、バルチック艦隊の迎撃に専念できるようになっていた。問題はバルチック艦隊をどこで捕捉迎撃するかである。カムラン湾からウラジオストクへの航路としては対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3箇所があり得た。3箇所すべてに戦力を分散すれば各個撃破されかねず、戦力を集中していずれか1箇所に賭けざるを得なかった。とはいえ、バルチック艦隊が宗谷海峡を通過するためには、距離が遠いため日本本土の太平洋側沖合いで石炭を洋上補給する必要がある。津軽海峡は日本側の機雷による封鎖が厳重になされていた。このようなことから連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、バルチック艦隊は対馬海峡を通過すると予測し主力艦隊を配置するとともに周辺海域に警戒網を敷いた。1905年(明治38年)2月21日には連合艦隊旗艦三笠が朝鮮半島の鎮海湾に入り、同地を拠点に連合艦隊は対馬海峡で訓練を繰り返した。日本側は戦闘予想海域を直行する等間隔の直線で区切り、その交点に数字を割り振っていた。また陸地が目標となるいくつかの地点を集合場所としてアルファベットで表示し(例:鎮海湾がC地点)、海峡を横切る6つの警戒線と通過する方向になる3つの幹線を設定し交点にアルファベット2文字の地点表示をつけた。なお哨戒海域を碁盤の目のように細かく分画し、その一つひとつに哨戒用の艦船を配置したという話があり、軍籍船舶以外にも漁船まで動員した哨戒艦船73隻で行ったという。しかしそれに関する記述は戦史に存在しない。27日朝に哨戒を行っていたのは第3戦隊と第6戦隊所属の「和泉」、巡洋艦「秋津州」、仮装巡洋艦5隻とされている。また配置の基準も地点ではなく警戒線である。ジャンクを雇い入れ偽装下士卒を配置し、台湾周辺海域において漁業などを装いつつ監視を行うという指示は出されている。5月14日、バルチック艦隊はを出航した。5月19日にはバタン諸島付近でイギリス汽船「オールドハミヤ」を拿捕した一方、日本に向かっていたノルウェー汽船「オスカル」は臨検のみで解放した。バルチック艦隊は「オールドハミヤ」(乗員はロシア海軍の船員と交代)と仮装巡洋艦「テレーク」と同「クバーニ」を分離し、囮としてバラバラに宗谷海峡回りでウラジオストクに向かわせたが、これらは日本側に発見されずいずれもウラジオストクにたどり着けなかった。連合艦隊は5月23日に日本へ到着した「オスカル」からバルチック艦隊と遭遇し、バルチック艦隊の士官から対馬海峡へ向かうと聞いたという情報を受け取ったが、19日以降の足取りはつかめていなかった。このときバルチック艦隊は長時間の演習や石炭の積み込み、さらには1隻の機関不調に時間を取られていたのだが、連合艦隊ではバルチック艦隊が太平洋から北海道へ向かった可能性も想定せざるを得なくなり、次第に焦り始めていた。(沖縄本島と宮古島の中間地点において日本の輸送船ないし漁船に目撃されたが、通報は海戦より遅れた。久松五勇士参照)。24日に至り、東郷は大本営に対して相当の時期まで敵艦隊を発見できなければ渡島大島への移動をするという電報を送っている。25日に東郷は各司令官を集め軍議を行い、信号によって開封される移動のための密封命令を発し、さらに5月26日正午までに敵発見の情報が無ければ移動すると大本営に電報を送ったが、大本営はこれに行き違う形で慎重を期す旨の返電を送った(有線でいくつかの基地局を中継するため、送信から受電までに時間を要した)。26日午前零時過ぎ、バルチック艦隊随伴の石炭運搬船6隻が上海に25日夕方に入港したという情報が大本営に入電した。運搬船を離脱させたのは、航行距離の長くなる太平洋ルートを通らないことの証明でもあった。この情報によって連合艦隊は落ち着きを取り戻し、対馬海峡でバルチック艦隊の到着を待った。もし運搬船の上海入港が1日遅れていたら、東郷は艦隊を北海道に向けていたかもしれない。5月27日午前2時45分、九州西方海域にて、成川揆大佐を艦長とする連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊の病院船「オリョール」の灯火を発見した。信濃丸側は「オリョール」が汽船としか確認できなかったため、月明かりを利用して判別するために大きく回りこんで接近した。4時40分に300mまで近づいて病院船と確認してから臨検をしようとしたが、夜が明けつつあった4時45分、距離1,500m以内に航行中の艦影・煤煙を多数視認し、脱出を試みつつ敵艦隊らしき煤煙を発見と打電し、次いで4時50分に203地点で敵艦発見と打電している。「信濃丸」は脱出に成功し一度はバルチック艦隊を見失うも、再度発見して接触を保った。警戒任務のために近くにいた第3艦隊第6戦隊所属の巡洋艦「和泉」は信濃丸の電信を受け6時45分にバルチック艦隊を発見し接触を保った。7時過ぎに「信濃丸」は近づいてきたバルチック艦隊の駆逐艦を避けるための行動中、さらに他に煤煙を認めたためバルチック艦隊と離れて調査に向かった。「和泉」はそのまま7時間に渡り敵の位置や方向を無線で通報し続けた。「信濃丸」は夜間とはいえ危険を冒してロシア艦隊に並航し観測を行い電波を発射し続けていたが、バルチック艦隊からは発見されなかった(当時は無線方位測定器の実用化以前)。ロシア側からの記述では、「オリョール」乗員は午前5時すぎに汽船を認め、その後、朝靄の中にロストしている。曰く、「旗はよく見えなかったが、どうも胡散くさく――日本の哨戒船に相違なかった」。ロジェストヴェンスキーは、何もしなかった。午前6時ごろ船が現れ、接近してみると「和泉」だと判った。「和泉」はまる一時間ほど、ロシア艦隊と同じ針路で進んだ。受信機には暗号があわただしく入ってきた。ロジェストヴェンスキーは、砲を「和泉」に向けるよう命令したが、狙いをつけただけだった。(以下しばらく記述が続き、午前9時過ぎ、複数の日本艦の出現の記述の後)「ウラル」は600哩を交信できる(大出力の)無線機を具えていたのだが、「ウラル」からのロジェストヴェンスキー向けの通信妨害の許可を求める信号に対し「日本側ノ無電ノ邪魔ヲスルナ」と応答があり、通信妨害は行われなかった。ただし「信濃丸」の報告書には妨害電波を受けたという記述がある。「信濃丸」の27日朝に送った通信文は「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」・「敵ノ第二艦隊見ユ 203地点」・「敵ハ對州東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ」(對州は対馬の別称)・「敵艦隊15隻以上ヲ目撃ス」となっている。そのうちの前の3つは予め略符が決められており(地点表示は含まない)、カナ1文字を連続送信することとされていた。順番に「ネ」「タ」「ヒ」が割り振られており、「タタタタ」で「敵ノ第二艦隊見ユ」の意味となる。「敵ノ第二艦隊見ユ」の部分は「敵艦見ユ」と略されることが多いが、実際には敵艦発見報は第2太平洋艦隊・ウラジオストック艦隊(略符「ミ」以下同じ)・偵察巡洋艦(「ヨ」)・仮装巡洋艦(「レ」)・駆逐隊(「チ」)とで区別されていた。「信濃丸」の敵艦隊発見報の地点を456地点としている作品・文献もあるが、極秘戦史で「信濃丸」が456地点での敵艦発見の報を発信した記録は翌28日早朝のものである(第7戦隊の報告書で28日6時45分に「敵ヲ発見ス456地點(?)」{原文ママ、點は点の旧字体}と記録)。456地点での発見報については電報送達紙に暗号文(『タタタタ(モ四五六)「yr」セ』略符号を丸括弧で囲むのは電報業務の一般的慣習。最後の「セ」は不明)が記載されているものと訳文(『敵艦隊見ユ 456地点 信濃丸』)が記載されているものが残されているが、これは28日午前のものをまとめたもので訳文の「456」の部分には「?」とつけられている(対馬北部に存在した大河内[おおかわち]望楼で使用されたものと思われる)。これを翌28日の電報としている文献や「信濃丸」が何らかの勘違いをしたものと推測している文献もある。「信濃丸」は28日早朝に対馬の北東の海域で「シソイ・ヴェリキー」を発見しており、その直前の5時10分には445地点付近で仮装巡洋艦「八幡丸」と合流したという報告が極秘戦史に記載されているが、その元の報告書である戦時日誌では455地点と記載されている。極秘戦史によれば456地点は益田市周辺の北側に当たり、受電文の456地点に「?」がつけられているのは容易に電波の届く位置ではないからと推測される。なお第3報のものは1枚の電報送達紙に暗号文(『ヒヒヒ「yr」』)とその訳文(『敵ハ對州東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ』)が記載されたものが残されている(対馬南部に存在した神山[こうやま]望楼で使用されたものと思われる)。5時35分、連合艦隊に「直ちに出港用意」が 下令された。6時6分、三笠は航進を起こし、連合艦隊は出港を始めた。6時21分、連合艦隊は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電した(打電文の最後の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は秋山真之が書き加えた)。7時10分、三笠は加徳水道を抜け鎮海湾から外洋に出た。10時には最初に駆けつけた第3艦隊第5・第6戦隊がバルチック艦隊を確認した。バルチック艦隊も、夜明けから「和泉」やその後の第5・第6戦隊を確認していた。11時過ぎに旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」の掲げた「和泉」との距離を示す旗旒信号を発砲命令と誤認した後続の諸艦が砲撃を行った。日本側も多少の砲撃を返すが戦闘状態を避けて、常に距離を保った。双方に1発の命中弾もなかった。第3艦隊第5戦隊の巡洋艦「厳島」「松島」「橋立」と二等戦艦「鎮遠」がバルチック艦隊の前方を横切った。その後、第3艦隊第4駆逐隊の駆逐艦4艦「朝霧」「村雨」「白雲」「朝潮」がバルチック艦隊の前方を距離を保ったまま横切った。第5戦隊や第4駆逐隊側では敵艦隊の正面から方向を測定することで敵針路を正確に掴む、単なる偵察行動だったが、針路の前方海域に機雷が撒かれた場合の危険を避けるため、バルチック艦隊は回避運動に入った(他説あり。ただし日本側は連携水雷作戦を考案しており、あながち間違った判断ではない)。ロジェストヴェンスキーは戦後、「和泉」などが見えなくなった隙に第1・第2戦艦隊を一列横陣に展開しようとしたが第3戦艦隊が接近してきたためその命令を途中で取り消した、と述べている。しかし、この時の艦隊運動がバラバラで、もともと2列縦隊であった隊列はいつのまにか3列縦隊となり巡洋艦部隊は後方に遅れた。後日、連合艦隊主力の多くの水兵はロシア艦隊を初めて見たときの印象を「敵はダンゴでやってきた」と語っている。11時42分、第3艦隊第7戦隊も沖ノ島沖でバルチック艦隊を確認し、その後、友軍と合流した。13時15分からは、第3戦隊旗艦「笠置」をはじめ、バルチック艦隊に同航して敵所在を通報していた第3艦隊各艦が列をなして第1・第2艦隊に合流し始めた。13時39分、南西の針路に共に単縦陣で進む連合艦隊主力の第1・第2戦隊は、北東の針路に進むバルチック艦隊をほぼ艦首方向に視認し、三笠は戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した。続いて右舷面舵で北西へ変針し、バルチック艦隊の針路の左舷側(北西側)へ横距離を確保し始めた。13時55分、三笠は左舷取舵を行い針路を西にとり、バルチック艦隊への反航路接近の体勢に転じた。その時、両艦隊の距離は12,000m。東郷は連合艦隊旗艦「三笠」へのZ旗(「もう後がない」の意味)の掲揚を指示した。この時連合艦隊が使用していた信号簿ではZ旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた。14時02分、さらに三笠は左舷取舵を行い針路を南西にとり、連合艦隊第1戦隊はバルチック艦隊に対して間隔約6,000mのほぼ完全な反航路(平行すれ違い)上につく。連合艦隊とバルチック艦隊との距離は10,000mを切り、そのまま両艦隊が進むと先頭の旗艦同士がすれ違うのは14時10分頃となる。14時05分、距離8,000m、東郷は大角度の針路変更を指示、すなわち、ほぼ同航かつバルチック艦隊先頭を圧迫する隊形へ変更するよう第1戦隊に左舷取舵約150度の逐次回頭を指示した。先頭をいく三笠は「敵前大回頭」(トーゴー・ターン)を始めた。舷側を向けた時に最大の攻撃力(=砲門数)となるのは、基本的には乗り手が矢を射掛けていた古代の軍船から現代の軍艦に至るまで変わっていない。前後に並んだ砲塔で敵を狙うには、艦の横腹を向けるしかないからである(黄海海戦 (日清戦争)時の清国海軍定遠級戦艦のような、前後方向に攻撃力の高い艦は、むしろ軍艦史において例外的存在である)。日露戦争当時の軍艦は主砲を旋回砲塔に収める他は、多くの副砲をケースメート(砲郭)式という「艦の横方向にしか撃てない」方式で備えていたため、なおさらこの傾向が強い。そして横方向に砲撃する都合、および陣形を組むのが簡単である事から、この時代の艦隊は単縦陣が主流であった。単縦陣でまっすぐ進む敵艦隊に対して、その進路を横にふさぐ形、丁の字(あるいはT字)に似た体勢を形成できれば、敵の後続艦がまだ遠いうちに、敵先頭艦が前を向いている状態で味方の全艦艇の側方から先頭艦へ攻撃を浴びせることができるため、圧倒的に有利な形勢となる。この戦法自体は海戦の定石として古くから知られていたが、敵艦隊もそのような形を避けようとすることと、交戦時間の経過に伴い相対的位置関係がずれてゆくため、実際に丁字を描くのは不可能に近いと言われていた。東郷司令長官と秋山真之参謀は黄海海戦 (日露戦争)で丁字戦法を実施したが失敗した。この教訓と試行錯誤の末、「敵艦隊の先頭を我が艦隊が押さえなければ、逃げる敵との砲撃戦は成立しない」という教訓を得た。その解決策として秋山らが考案したのが連携水雷作戦(敵艦隊に機雷原への突入か砲撃戦かの選択を強いる)である。しかし決戦当日は荒天となり、その使用は不可能となってしまった。そこで次善の策として考え出されたのが、敵前逐次回頭という敵の盲点を衝くことと、連合艦隊の優速を活かし、強引に敵を同航砲撃戦に持ち込むことだった。定針せず回頭中の艦は、敵にとっては針路を予測するのが困難で、砲撃を受けて被弾する確率は大きくない。ただし逐次回頭の場合の単縦陣後続艦は、先頭艦の航路をたどるので予測される虞れはある。14時08分、先頭の「三笠」は約150度の回頭を終え東北東に定針し、バルチック艦隊の航路の斜め前方7,000mを浅い角度(約20度)で圧迫を始めた。ほぼ同時にバルチック艦隊は砲撃を開始し「三笠」に攻撃を集中した。14時13分、距離6,000m。連合艦隊第1戦隊は回頭を完了し、右舷側にバルチック艦隊の30隻以上が見渡せた。第2戦隊は被害を抑えるために大回頭より前に右に変針し、敵からやや距離を取りつつ14時15分から回頭して発砲を始めた。連合艦隊第1戦隊に航路を圧迫されることになったバルチック艦隊は、まず第1戦艦隊が右舷逐次回頭し同航(並航)体勢に移行を始めた。そして隊形が多少不完全だったが、艦隊主力全力を以て単縦陣を整え、「三笠」への攻撃集中および同航砲撃戦を受けて立つ形を作り始めた。連合艦隊は考えた戦法通りに同航砲撃戦を強要したことになる。従来では大回頭ののち、日本艦隊は丁字の形を完成させ丁字戦法を行ったと言われてきた。しかし戸高一成の調査などでなどから後述する日本海軍独自の極秘戦法だった「連携機雷戦」を隠すため、黄海海戦で失敗し、日本海海戦では使わなかった丁字戦法をいわばダミーとして公表し、それが世間に真実として広まってしまったのではないかという意見も出ている。あったという意見も未だ根強いが、海軍の一次資料に記載がないのと正確な航路図にそのような形が見当たらないこともあり、大回頭のことは書いてあっても、丁字戦法については触れていない書籍も多くなっている。なお秋山真之は戦後の講演で丁字を形成したと述べ、何を指して丁字戦法というのか述べているが、三笠艦長の伊地知彦次郎や第二艦隊司令長官の上村彦之丞は、丁字を作れたのは東郷ターンを経て砲撃を開始してから30分以上経過した2時47分もしくは2時56分頃としており、海軍内でも見解が食い違っている。また秋山の講演録以外で「東郷ターン後に丁字を形成できた」という当時の証言、記録は見つかっていないし、彼の言う丁字戦法の意味が当時海軍内でそう認識されていたという記録、証言も見当たらない。連合艦隊第1戦隊は回頭を完了した艦からバルチック艦隊の先頭の第1戦艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスリャービャ」に対して榴弾(徹甲榴弾)による一斉砲撃を開始した。「クニャージ・スヴォーロフ」に向けられた「三笠」の4射目は司令塔の覗き窓に飛び込んで半数即死、半数を負傷させた。14時17分、連合艦隊の砲弾がバルチック艦隊の両旗艦に多数命中し火災を発生させた。この頃、連合艦隊第1戦隊は命中率をさらに上げるために約5,000mに距離を詰めた。これに伴い「三笠」の被弾も急増した。また連合艦隊第2戦隊(装甲巡洋艦6隻)も回頭を完了し第1戦隊の航路に続く単縦陣に加わった。バルチック艦隊第2戦艦隊も第1戦艦隊の航路に続く単縦陣を懸命に整えつつ砲撃を行った。連合艦隊主力とバルチック艦隊主力との単縦陣同士の同航砲撃戦は最高潮となった。連合艦隊はバルチック艦隊の北(間隔は約5000m)を浅い角度の丁字の形を保ち先行しながら東北東の針路で同航した。両艦隊はその後何回か浅い角度の右転針を行ったが、連合艦隊は優速により常にほぼこの形を保った。バルチック艦隊の速度11ノットに対して日本の艦隊は15ノットであった。14時27分、第2戦隊所属の装甲巡洋艦「浅間」が被弾により舵機を損傷し戦列から離れた。しかしこれを除けば、連合艦隊は各艦の戦闘力を維持した。これに対してバルチック艦隊主力艦は多数の榴弾(徹甲榴弾)の被弾により急速に戦闘力を失っていった。「三笠」へ向けて集中する砲撃の命中も減り被弾は峠を越えた。14時35分、連合艦隊第1戦隊は東北東の針路から東へ転針を行った。14時43分には東南東へ転針を行った。これにより先述のようにバルチック艦隊の頭を抑える浅い角度の丁字の形を保持しつつ、同艦隊のウラジオストックへの進路も遮蔽していった。この間にも連合艦隊の砲弾は着実にバルチック艦隊各艦をとらえ、14時50分、「クニャージ・スヴォーロフ」と「オスリャービャ」は甲板上や艦内の各所で火災を起こしながら右へ大きく回頭して戦列から離脱した。この30分間の砲戦で、バルチック艦隊は攻撃力を甚だしく失った。連合艦隊の第3・第4・第5・第6戦隊は大回頭に参加せずバルチック艦隊の後方を回り、14時45分に第3・第4戦隊が主力艦隊の右方にいたバルチック艦隊の巡洋艦・特務船に対する攻撃を開始した。「クニャージ・スヴォーロフ」の急な右回頭は舵の故障によるもので、回頭を続け回転していた。「クニャージ・スヴォーロフ」に続くバルチック艦隊の2番艦、戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」の艦長ブフウオトフ大佐はすぐにこれを見抜き、事前の取り決めどおり自身が先頭に立つことを決め、東南東の針路を保持した。しかし「インペラートル・アレクサンドル3世」も集中砲火を受けて列外に出た。バルチック艦隊主力は、同航戦で南東に針路を取る連合艦隊第1・第2戦隊に先行され、北東からの圧迫・砲撃を受け、東南東への進路も遮られつつあった。14時55分頃、後を引き継いだ戦艦「ボロジノ」艦長セレブレーンニコフ大佐は、第2戦隊の後方を北方にすり抜けるため艦隊を率いて左へ回頭し北へ変針した。これに対応するため、東郷は第1・第2戦隊に「左八点一斉回頭」(全艦左へ90度一斉に回頭)を命じ、第1戦隊は14時58分に各艦が北東へ変針を行った。しかし第2戦隊の上村は、後方をすり抜けようと急に回頭し接近を始めた「ボロジノ」およびバルチック艦隊主力を見て、東郷の命令に従わず、南東にほぼ直進のまま速度を17ノットに上げ舷側戦闘を15時10分まで続けた。これにより第2戦隊単独で近距離となったバルチック艦隊主力に対し北東から東に先行して回り込んで圧迫・戦闘を行った。この別機動は、第2戦隊までもが一斉回頭すると東方向ががら空きになることを判断したとも考えられ、第1戦隊の丁字形攻撃へ敵艦隊を追い込む働きも生んでいる。このような第2戦隊の優速を生かした連携機動は、連合艦隊の乙字戦法として検討を練ったものでもあり、本海戦で生かされた。「クニャージ・スヴォーロフ」の脱落後は「インペラートル・アレクサンドル3世」や「ボロジノ」がバルチック艦隊の針路を決めていたが、乗員が後の沈没時に「ボロジノ」の砲員1人を残して戦死したため、正確な航路やその意図を測ることは不可能になっている。この後の展開は第1戦隊と第2戦隊の報告が食い違ったものになっており、日本側の戦史では両方をそのまま掲載してしまっている。ただし海戦図として残されたのは第1戦隊のものが基礎となっている。また第2艦隊先任参謀であった佐藤鉄太郎はさらに異なった証言を残している。この最中の15時7分あるいは同10分には「オスリャービャ」が沈没している。またバルチック艦隊の後方で離れて航行していた病院船「アリョール」と同「コストローマ」は、15時30分に仮装巡洋艦「佐渡丸」や同「満州丸」に捕捉され、臨検のため荒れた外海から三浦湾に移動させられた。第1戦隊は、14時58分に「左八点一斉回頭」を行い北東に進む単横陣となったが、第2戦隊が敵との間に入り込んでしまったため砲撃を一旦停止した。15時5分に北方に進む敵の前面に出るため「左八点一斉回頭」を行い、装甲巡洋艦日進を先頭にした逆順単縦陣となり、速度を下げて西北西に進み、15時7分に北進するバルチック艦隊に対し丁字形に近い形で左舷戦闘を開始した。バルチック艦隊は4000m以下の近距離で砲撃を受けることになり、艦列を乱しつつ、「ボロジノ」が右へ回頭し一時的に東進する反航戦の態勢となった。ここで「インペラートル・アレクサンドル3世」が先頭に復帰したが、さらに右へ回頭を続け、バルチック艦隊主力は第2戦隊の圧迫からも逃れる南方に一時的に進んだ。15時25分頃までバルチック艦隊主力は同航戦の形を避けほぼ定針せず回頭を続けた。第1戦隊は反航戦を行いながら西北西への直進を続けた。この戦闘の終盤では、機関の調整によって操船の自由をある程度取り戻し北進する「クニャージ・スヴォーロフ」を発見し砲撃を加えたが、他の敵艦主力からは遠ざかりすぎて見失った。「クニャージ・スヴォーロフ」は砲撃戦を避けるように回頭運動を行い、東郷はそれを見て既に戦闘力を失っていると判断し砲撃を切り上げ、第2戦隊が追いついてから合流して敵主力艦隊を追うことにした。15時40分ごろ「左八点一斉回頭」を再度2回行い、15時49分には「三笠」を先頭にした単縦陣に戻って東へ、そしてその後、北東へ針路をとった。右へ回頭を続け南方に一旦逃れたバルチック艦隊は回頭を続けながら列の整頓を行い、15時25分頃より再びウラジオストクを目指して北へ進んだ。「クニャージ・スヴォーロフ」は孤立したまま北に針路を取り、第1・2戦隊の攻撃を逃れならが主力の前方を進んだ。15時5分頃、第2戦隊は、北東に進む単横陣の第1戦隊各艦の後尾を直進の単縦陣で通過しながら、右舷斜め後方に距離3,000mにまで接近したバルチック艦隊に攻撃を続けた。バルチック艦隊は右へ回頭を続けていた。しかし第2戦隊は浅く右折したがほぼ南東へ直進を続けたので次第に後方のバルチック艦隊主力との距離は遠ざかった。15時10分に「左16点逐次回頭」を行い、15時16分に針路を北西とした。第2戦隊は反転してバルチック艦隊主力に再接近を始めた。15時20分に左舷側のやや前方を列を乱しながら北へ向かうバルチック艦隊主力に対し距離6,000mで砲撃を再開した。15時26分には針路を西北西にとり、バルチック艦隊には距離3,000mまで近づき通り過ぎながら攻撃したが、その後、濃霧と爆煙で見失った。15時34分には左舷に今度は「クニャージ・スヴォーロフ」を発見し、1,700mという至近距離で激しく砲撃を加えたがほとんど反撃が無く、第1戦隊との合流を急ぐためそれ以上の砲撃は切り上げた。先に見失ったバルチック艦隊主力は第2戦隊が通り過ぎたあとを北側に抜けたと推測され、さらに前方に第1戦隊を発見したため、15時47分に右へ約150度回頭して第1戦隊の左前方に入り合流し、東へ、そしてその後、北東へ針路をとった。1935年(昭和10年)に記録された「日露戦役参加者 史談会記録」による佐藤の証言によれば、「クニャージ・スヴォーロフ」は14時50分の段階でまだ列の戦闘にいて、そこから舵の故障で左折して後続の艦が列を乱したとしている。第2戦隊の「左16点逐次回頭」には触れているが、バルチック艦隊主力の行動については触れていない。15時55分、第1戦隊は南方にバルチック艦隊の主力を発見し、16時1分に距離6,500mで砲撃を再開した。この戦闘は長く続かず、16時35分に第1戦隊が敵の北進に備え「左八点一斉回頭」を行った際にバルチック艦隊が南方へ逃れ、直進していた第2戦隊も敵を見失って終わった。第1・第2戦隊は敵を追って南に向かった。この間に「クニャージ・スヴォーロフ」は両艦隊の間に入り込んでしまい、さらなる攻撃を受けている。第3・第4戦隊は反航戦から同航戦に移りつつ攻撃を繰り返し、16時20分には曳船「ルーシ」を撃沈し、仮装巡洋艦「ウラル」や工作艦「カムチャツカ」にも損害を与え脱落させた。第5・第6戦隊も攻撃に加わったが、16時40分に南下してきたバルチック艦隊主力の一部と遭遇し、巡洋艦「浪速」が浸水するなど被害を受けたため一旦退避した。この時にバルチック艦隊は主力と巡洋艦・特務船が合流し、北へと針路を変えた。また第3戦隊旗艦の巡洋艦笠置は15時7分ごろ水線部に受けた損傷で浸水がひどくなり、18時に油谷湾で修理を行うため離脱した。これには護衛と第3戦隊司令官出羽重遠の移乗のため巡洋艦「千歳」が同行し、巡洋艦「音羽」、同「新高」は臨時に第4戦隊に合流した。「クニャージ・スヴォーロフ」は上部構造物のほとんどを破壊され海上を漂うようにしていたが、17時30分頃駆逐艦「ブイヌイ」がこれを発見、ロジェストヴェンスキーや幕僚らを移乗させて他の艦を追った。ロジェストヴェンスキーは頭部に負傷を負って意識を失いかけており、指揮権をネボガドフに譲った。「クニャージ・スヴォーロフ」はその後も攻撃を受け、最終的に第5戦隊に随伴していた第11艇隊の魚雷により19時20分、沈没した。またそれより先の19時ごろ、その周辺に漂流していた「カムチャツカ」は第4戦隊などの攻撃により沈没している。第1戦隊は17時28分には南進を続ける第2戦隊と分離して北北西に向かった。第1戦隊は17時40分ごろには孤立していた「ウラル」を撃沈した。さらに17時57分、ほぼ同方向に進むバルチック艦隊を発見して砲撃を再開した。この時のバルチック艦隊のうち、「クニャージ・スヴォーロフ」と「オスリャービャ」を除いた主力艦10隻は「ボロジノ」を先頭としてそれに「オリョール」が続き、損害の大きな「インペラートル・アレクサンドル3世」などが後方に回っていた。第1戦隊は当初「ボロジノ」に攻撃を集中し、爆煙で照準が困難となったあとは主に「オリョール」を狙った。この際は距離が詰まらず、18時45分以降、第1戦隊は主砲のみでゆっくりとした射撃を行った。19時頃には「インペラートル・アレクサンドル3世」が大きく左へ列外に出てから沈没した。それに後続して列外に出た海防戦艦「アドミラル・ウシャーコフ」、戦艦「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキー」、一等巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」はそのまま南方に逃走しようとしたが、敵艦が見つけられなかったために北上してきた第2戦隊を発見して再び北へ向かった。しかし残りの主力艦と合流しきれず、夜間に四散して各個撃破された。日没を迎えた後も砲戦は続いたが19時10分に「三笠」は砲撃を中止し、後続の各艦もそれに倣い19時20分に砲戦が終了した。しかしその時、「ボロジノ」は2回の大爆発を起こし転覆、沈没した。日本側はこの27日昼間の戦闘を一まとめに第1合戦としており、以降の戦闘にも発生順に数字をつけている。連合艦隊の戦艦・巡洋艦は翌日の戦闘に備え鬱陵島に向けて移動を開始し、昼間は所属戦隊に付随していた駆逐隊と水雷艇隊は、日没に備えてバルチック艦隊の周囲に接近し、完全に暗くなると北・東・南の三方から次々と襲撃に移った。夜間攻撃は昼間とは異る危険がある。連合艦隊の駆逐艦「夕霧」と「春雨」は衝突事故を起こして共に小破し、他に水雷艇同士の2件の衝突事故で1艇を失っている。バルチック艦隊司令官のロジェストヴェンスキー中将は旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」の艦上で負傷し、5月27日17時30分に駆逐艦「ブイヌイ」に移乗したが、艦尾に砲弾を受け破損の激しい「ブイヌイ」から更に駆逐艦「ベドヴイ」に再び移乗した。「ベドヴイ」と随行の駆逐艦「グローズヌイ」は日本の駆逐艦「漣(さざなみ)」と駆逐艦「陽炎」に発見・攻撃されたが、反撃せずに全速で逃亡を試みた。連合艦隊の駆逐艦は30ノットで追撃したのに対し、ロシア駆逐艦は26ノットで攻撃を避けられなかった。「ベドヴイ」は機関が故障して停止し、降伏した。「漣」は直ちに伊藤伊右衛門中尉および准士官以下7名の捕獲要員を送り込み、5月28日16時45分に「ベドヴイ」をロジェストヴェンスキー司令官と共に捕獲した。「グローズヌイ」は逃走に成功し、数少ないウラジオストック到着組の一つとなった。「ベドヴイ」はこの海戦後、ロジェストヴェンスキー中将と幕僚ごと佐世保に曳航された。19時03分、戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」撃沈。バルチック艦隊の第1・第2戦艦隊は壊滅し、ロシアの第1・第2戦隊でウラジオストクまで到着したのは巡洋艦「アルマース」と駆逐艦が2艦のみであった。20時20分、第3・第4駆逐隊の雷撃によって装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」が撃沈。21時05分、第4駆逐隊司令の鈴木貫太郎は、連繋機雷作戦を用いて戦艦「ナヴァリン」を葬り、22時15分、戦艦「シソイ・ヴェリーキー」を雷撃によって大破させた。6時間半の夜間戦闘で50本の魚雷が放たれ6本が命中した。一夜明けた5月28日の朝、すでにバルチック艦隊第1・第2戦艦隊は実質的に消滅しており、バルチック艦隊はネボガトフ少将率いる第3戦艦隊のみとなっていた。第3戦艦隊は1世代古い旧式戦艦「インペラートル・ニコライ1世」を旗艦に旧式の海防戦艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」「アドミラル・セニャーヴィン」「アドミラル・ウシャーコフ」で構成されていた。連合艦隊主力部隊は夜間は鬱陵島に待機していたが、夜明けと共に索敵と攻撃のために日本海に展開していった。連合艦隊第3艦隊は、ネボガトフの乗艦「インペラートル・ニコライ1世」以下のバルチック艦隊第3戦艦隊を視認し、第1・第2艦隊に通報。連合艦隊第3艦隊はバルチック艦隊第3戦艦隊に負けず劣らず旧式の戦艦・巡洋艦で構成されており、強力な第1・第2艦隊を待って、遠巻きにしていた。やがて第2艦隊が到着したが、さらに第1艦隊到着まで待機した。9時30分、第1艦隊も到着し連合艦隊の主力艦は勢ぞろいした。バルチック艦隊側も第1戦艦隊の生き残りの戦艦「オリョール」は夜を徹しての復旧により戦闘可能なまでの状態となり、「インペラートル・ニコライ1世」は無傷であったため、戦闘となれば日本側にもそれなりの出血を強いることはできた。しかし、このときオリョールに乗艦していたアレクセイ・ノビコフ=プリボイは「大砲は使えても多数の砲員が死傷している上に、ダメージで照準器が無茶苦茶に狂っており、まともな状況でも歯が立たなかった日本艦隊相手に戦えるような状態ではない」と否定的であった。10時34分、ネボガトフの指示により「インペラートル・ニコライ1世」は白い旗を掲揚し降伏の意を示したが、戦時国際法で必要な機関停止をしていなかったため、連合艦隊は8,000mの距離で砲撃を開始した。しばらく遠距離からの威嚇砲撃が続いたが、10時53分にネボガトフも機関を停止しなければならないことに気づき、機関は停止された。連合艦隊もこれを受けて砲撃を中止した。戦艦「インペラートル・ニコライ1世」と共に戦艦「オリョール」、海防戦艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」、同「アドミラル・セニャーヴィン」はすべて降伏し、日本側は5隻を接収した。この頃、他の海域では夜戦によって大破していた戦艦「シソイ・ヴェリーキー」が沈没していた。バルチック艦隊は戦力の大半を一回の海戦で失った。損害は被撃沈16隻(戦艦6隻、他10隻)、自沈5隻、被拿捕6隻。他に巡洋艦オレーク、アヴローラ、ジェムチュクがアメリカ領マニラへ、駆逐艦ボードルイ、輸送船コレーヤ、スヴィーリが上海へ、合計6隻が中立国に逃亡し、ウラジオストクへ到達したのは3隻(巡洋艦「アルマース」、駆逐艦「ブラーヴイ」、駆逐艦「グローズヌイ」)のみであった。兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては現在においてまで史上稀に見る一方的勝利となった。当時鎖国が解けてから50年ほどしか経っておらず、列強と異なり植民地もない、欧米から遠いアジアの小さな新進国と見られていた日本の、大国ロシアに対する勝利は世界を驚かせた。また海戦の結果、極東海域における日本海軍の制海権が確定した。ロシア軍にとっては、満州で対峙する日本軍の補給を断つことで戦争に勝利できる可能性が消滅した。1905年3月の奉天会戦でロシア陸軍主力の撃滅に失敗した日本にとって海戦での決定的勝利は和平交渉の糸口となり、ポーツマス講和会議への道を開くことになり、その後の列強五大国入りに繋がった。しかし、あまりに劇的かつ英雄的なこの勝利の経験が以後の日本海軍から戦略的柔軟性を奪い、第二次世界大戦において航空機の有効性をいち早く見出しながら、大艦巨砲による決戦主義から脱却しきれずに敗北を重ねる遠因ともなった。ロシア側の6,000名以上の捕虜は、多くが乗艦の沈没により海に投げ出されたが、日本軍の救助活動によって救命された。また対馬や日本海沿岸に流れ着いたものも多く、各地の住民に保護された。日本は戦時国際法に忠実であり、国際社会に日本は文明国であるとアピールするためにも戦時法遵守が末端の小艇の水兵にまで徹底されていた。ロシア兵捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、十分な治療と食事を与えられ、健康を回復し帰国した。軍法会議での処罰を恐れる士官は日本にとどまることもできた。日本の戦時国際法の遵守には世界各国から賞賛が寄せられた。負傷し捕虜となったロジェストヴェンスキーは長崎県佐世保市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった。病室に入るとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて様子を気遣いながらゆっくり話し始めた。この時、極端な寡黙で知られる東郷が、付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗を喫した敗軍の提督を労った。ロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、涙を流した。ロジェストヴェンスキーは回復して帰国し、1906年軍法会議にかけられたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、無罪となり60歳まで生きた。日本では、5月27日は海軍記念日に制定された。海軍記念日は1945年(昭和20年)を最後に廃止されたが、現在でも日本海海戦記念式典が毎年開催されている。2005年(平成17年)5月には対馬市、横須賀市などでそれぞれ日本海海戦100周年記念の式典や大会が開催され、対馬市では海戦後初の合同慰霊祭が行われた。バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年(明治37年)10月15日から1905年(明治38年)5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的に蔓延していた。カムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。このためただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦はさらに排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復原力の低下に繋がり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。長期の航海では船底についた貝やフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的にはドックに入らなければできない作業であったから、長い航海の間にバルチック艦隊は徐々に最高速度を落としていった。また、燃料の石炭も十分な無煙炭を確保できなかった結果、艦自体のスピードの低下や、もうもうと吐く黒煙によって艦隊の位置を知られてしまう失態を演じてしまった。当時のロシア社会は、貴族の上級士官が庶民の水兵を支配するという構造的問題を抱えていた。上官と兵士ではなく、主人と奴隷のような関係の軍隊は、ときに対立や非効率を産んだ。水兵の中にもロシア革命にも繋がる自由思想の芽が育ち始めた時期で、無能な高級士官への反発が戦う意義への疑問を産み、士気を削いでいた。結果、サボタージュが頻繁に見られた。ロシア海軍の水兵の内、優秀な者は太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は最も低かった。航海前に多くの新水兵を乗せたが、マダガスカルでの長期滞在中など、十分に戦闘訓練を行ったものの目的が明らかでなく「訓練のための訓練」となってしまって実戦に有効でなかった。バルチック艦隊主力艦のボロジノ級戦艦の中には、完工しておらず工員を乗せたまま出港した艦もあった。ロシア艦は家具調度品や石炭などの可燃物を多く積んでいた。当時の艦艇は木造部分が多く、浸水よりも火災で戦闘不能になることが多かった。鹵獲されたものの沈没は免れた戦艦「オリョール」では乗員達が自主的に木製家具の処分などを行ったが、撃沈された戦艦「アレクサンドル3世」などでは「居心地が悪くなる」などの理由で木製品の処分が行われずそれが明暗を分けたとも考えられる。バルチック艦隊司令部は長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動を採った。また「ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後に日本艦隊と対峙しよう」という考えも決戦の勢いを鈍らせた。結果、自艦隊に有利な状況での先制攻撃の決心を欠き、チャンスを生かせなかった。ロジェストヴェンスキー提督が規律を重んじすぎる性格で、各艦の勝手な発砲に過敏なほど嫌悪感を示した影響も大きい。後年、東郷は緒戦でバルチック艦隊の隊形の不備を指摘して「ロシアの艦隊が小短縦陣(2列縦列)で来たのが間違いの元だったのさ、力の弱い第二戦艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに散々これを傷めた。あのときもし、単縦陣で来られたらああは易々とならなかったろう」と述べている。海戦当日の気象は、「天気晴朗ナレドモ浪高シ」とあるように、風が強く波が高く、東郷らの回り込みによって風下に立たされたバルチック艦隊は、向かい風のために砲撃の命中率がさらに低くなった。乾舷を高く設計したロシアの艦艇は、波が高いと無防備の喫水線以下をさらけ出すことになり、魚雷1発で撃沈されたとする見解もある(公式記録では戦艦富士の主砲弾が命中し転覆したことによるものとされている)。しかし、ボロジノ級戦艦はどれも計画排水量を大幅に超過しており、水線甲鉄はほどが水中に没し、一番厚い部分の上端は水面下にあったため、どのような荒天であったとしても水線装甲下を水面上にさらけ出すとは到底考えられない。また、本級の缶室配置では中央隔壁を原因とする片舷浸水とそれによる遊動水の存在により、一定以上の浸水が起きると転覆しやすかったとされている。東郷平八郎は、指揮能力、統率能力も秀でていた。最前線で敵の動向に瞬時に対応する陣頭指揮を行いつつ、幕僚を戦艦「三笠」で最も安全な司令塔に移動させ、自分が戦死した後の速やかな指揮権継承を保障するなどの指揮をとった。東郷は旅順封鎖の期間中も演習を行い、十分に艦隊の練度を上げていた。直前の黄海海戦などの戦闘経験と、その勝利によって士気も高かった。また、黄海海戦の教訓を十分に活かした。複数の艦を同時に自由に反転させるなどの様々な艦隊運動を思いのままに行うことができた。このため、逃げ回るバルチック艦隊の風上に常に回り込み、艦隊を維持しながら砲撃を加え続けることができた。連合艦隊司令部は第1艦隊参謀秋山真之、第2艦隊参謀佐藤鉄太郎を参謀に擁し、上層部もその意見を重用しつつ、組織的、有機的に、最善の判断を行うよう常に努力した。また、各艦隊司令官・各艦艦長は必要に応じて独自の判断で行動する能力を持ち、高速巡洋艦からなる第2艦隊には猛将といわれた上村提督が任命されるなど適材が適所に配属されていた。秋山真之参謀が立てたバルチック艦隊を全滅させるための迎撃作戦計画。「天気晴朗なれども波高し」の電報で、大本営は、第一段が行われないことを理解した。実際には、第二段と第三段のみでバルチック艦隊を殲滅した。連合艦隊は秋山参謀と東郷司令長官の一致した意見によって、敵前の大回頭と丁字戦法を実施することを考えていたが、黄海海戦での失敗を受けて連携水雷作戦を海戦で使用することを決めた。しかしそれも当日の荒天により使用が不可能になると、敵前逐次回頭という敵の盲点を衝くことと、連合艦隊の優速を活かし、強引に敵を並航砲撃戦に持ち込む方法に切り替えた。当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭(しかも2分余りを費やしての150度もの回頭)は危険な行為であった。実際、回頭中はともかく、その後の同航戦中は旗艦であり先頭艦であった三笠は敵の集中攻撃に晒され、被弾48発の内40発が右舷に集中していた。しかし、一見冒険とも思える大回頭の2分間には、日本海軍の計算が込められていた。それは次のようなものである。また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により東郷は、各艦の速度・回頭の速さなどの、いわゆる「癖」を見抜いており、これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った。こうして敵前回頭は行われたが、実際の海戦ではその後の両艦隊は並列砲戦に終始し、今まで言われているような「日本側は丁の字もしくはイの字体形に持ち込み丁字戦法を行った」という事実はなかった。日本側はウラジオストクに逃げ込もうとするロシア艦隊に同航戦を強要し、かつロシア艦隊より前に出ることはできたが、相手の進路を遮断することはできておらず、このため現場のどの部隊も「日本海海戦で大回頭後に丁字(もしくはイの字)体形になった」とは思っておらず、一次資料の各部隊戦闘詳報にも公判戦史にも書かれていない。ところが海戦直後の新聞紙面で初めて「丁字戦法」のことが触れられ世間に広まり、一次史料にはどこにも書いていないのに、やったかのようになってしまった。第5駆逐隊司令の鈴木貫太郎中佐(後の第42代内閣総理大臣)が行った、駆逐艦や魚雷艇で敵艦に全力で接近して行う魚雷夜間攻撃法。探照灯で照らし出され、砲火を浴びせられながら攻撃する夜戦法で、暗闇が前提なため味方同士が衝突事故を起こす危険があり、実現するために、猛訓練を行った。その結果、戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、「シソイ・ヴェリーキー」、「ナヴァリン」、装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」、「ウラジミール・モノマフ」を一夜で撃沈するなど戦果を挙げ、バルチック艦隊にとどめの打撃を与えた。遠距離からの魚雷攻撃が当たり前だった当時の魚雷戦術に衝撃をもたらした新戦法。旅順港閉塞作戦で魚雷を発射する距離が遠すぎて戦果を挙げられなかった教訓を基にしている。連合艦隊は大口径砲の門数で劣っていたため射撃精度とともに速射も重視していた。連合艦隊は発砲しても煙が少なく視界が遮られないので速射に有利なコルダイト(硝酸エステル系無煙火薬)を英国より輸入し、また訓練の成果により発射速度においてバルチック艦隊を上回った。一方、バルチック艦隊の戦艦の主砲は新型砲塔を搭載していた戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」の物を除いて砲塔の構造上の問題などから発射速度が遅く、遠距離砲戦で命中弾を期待するのは難しかった。また旧式艦の一部は褐色火薬を発射薬に使用していたために黒煙によって視界が遮られ、さらに発射速度が遅くなった。日露戦争以前の砲戦では各砲が勝手に発砲していた。この方法は砲が小さく射程が短い時代は有効であったが、砲が大型化し射程が伸びるにつれて、着弾が判りにくいこと、(すなわち上がっている複数の水飛沫のうちどれが自砲から発した砲弾によるものか判別できなくなる)発射の衝撃で船体が揺れ照準が狂うこと、弾着までの目標の移動による射撃諸元の算出困難などの問題が生じていた。日露戦争で日露両海軍は、艦橋から射撃諸元(目標方位、苗頭、仰角)と発砲命令を射撃通信用の電気式通信装置および時計の文字盤を真似た指示盤、およびラッパ、伝声管で伝えて砲撃を行った。しかし訓練不足の上に指揮を執るべき砲術士官が次々に戦死、負傷したため従来通りの砲戦指揮(独立撃ち方)を用いざるを得ない事態となったバルチック艦隊に比して、連合艦隊は事前の訓練の成果もあって高い命中率を記録した。なお、全砲統制下による斉射戦術が行われたとよく述べられるが当時の射撃指揮装置では前後の主砲塔の砲撃のタイミングを合わせることは不可能である。もちろん砲塔毎に砲撃のタイミングを合わせる斉射は行われたが、砲塔の技術上の問題により斉射を行うと著しく発射速度が落ちる(命令の伝達に時間を要し、目標は秒単位で位置を変えるため、着弾時には目標位置からすでに移動してしまう)こととなるので近接していて命中が確実な場合以外は絶対に行ってはならないとなっていた。また上記のようにジャイロコンパスが発明されていない以前では目標までの距離情報以外は有効に活用することはできなかった。一方バルチック艦隊では、前述の通り従来通りの砲戦指揮(独立撃ち方)を用いざるを得ず、さらに旧式戦艦などは黒色火薬による黒煙によって視界が遮られ砲側観測が満足に行えなかった。このため正確さを欠いたままの連続射撃しか行えず低い命中率に止まった。なお、日露戦争後にイギリスで斉射戦術に特化した新型戦艦ドレッドノートが開発される。連合艦隊は常に速力・火力が同じ2隻が1組となって敵と対峙し、2対1の優位な状態で戦えるようにしていた。連合艦隊は同種の艦をグループにまとめるように留意しており、第1艦隊は砲戦力、第2艦隊は機動力、第3艦隊は旧式艦としてはっきり運用の仕方を分けていた。このため、艦隊運動による効率的な攻撃、追撃、退避が可能になり、バルチック艦隊を逃さない追撃戦を行えた。バルチック艦隊は速力の速い艦と遅い艦が混在した艦隊編成をとっていた。当時の艦砲は徹甲弾であっても威力が小さく敵艦の装甲を貫通できないことが多かった。榴弾も信管に問題があり、敵艦に命中しても爆発しない不発弾が多かった。連合艦隊は徹甲弾による装甲の貫通よりも榴弾による上部構造の破壊を狙い、信管に伊集院五郎少将の開発した伊集院信管を採用した。この信管は鋭敏で、ロシア艦の装甲面で破裂した砲弾は下瀬火薬の特性によって火災を発生させ、上部構造を殲滅し無力化させた。ロシアの砲弾は徹甲弾なので、煙突などに当たると穴を空けてそのまま突き抜け反対側の海中に落下する。しかし日本の砲弾は瞬発式で、鋭敏に起爆した。バルチック艦隊に下瀬火薬の豪雨を一方的に浴びせたことが、ワンサイドゲームの一因とされる。またロシアの砲弾は高初速軽量弾であったため遠距離の砲戦となると威力が著しく減衰した。ただ、伊集院信管はあまりに鋭敏なため、膅発事故の原因と疑われることもあった。「膅発」とは、連続射撃を経た砲身が赤熱することによって、発射時に砲弾が砲身内で爆発する事故で、第一次世界大戦直前に防止装置が発明されるまでは発生確率は高かった。日本海海戦では「三笠」、「日進」、「オリョール」で膅発が発生した。後の連合艦隊司令長官山本五十六(当時は高野姓)は少尉候補生として「日進」に乗り組んで海戦に参加したが、この膅発に巻き込まれ、左手の指2本と右足の肉塊6寸 (≒ 18cm) を削ぎ取られる重傷を負った。現在ではこの膅発は伊集院信管が原因ではなく、砲弾炸薬の問題であるとする説が一般的である。当時の技術では大きな砲弾に炸薬を溶填した場合に気泡を取り除く技術が不完全だったため内部にホットスポットが出来やすく、そのために砲弾を発射した衝撃で低速爆轟が生起したために自爆したと考えられている。連合艦隊は砲弾の炸薬に下瀬火薬を導入した。これは当時炸薬の主流であった黒色火薬より爆速が速く、命中時の破壊規模は当時の火薬常識を超え、ロシア艦の構造物は粉々に破壊された。下瀬火薬の爆速は、現在のTNT火薬の爆速 6,900m/秒を上回る7,350m/秒であり、この爆速で破壊されたロシア艦の姿から、戦後、日本に謎の下瀬火薬ありと諸外国から恐れられた。さらに、下瀬火薬はその高熱によってペンキなどの可燃部全てを燃やし、粉々に破壊した甲板を火の海にした。下瀬火薬は海軍技師の下瀬雅允がフランスのピクリン酸を主成分とする「メリニット」火薬を分析・コピーしたものであるとされている。しかし、当時の火薬技術は国家機密でその詳細を日本が入手することは困難であり、下瀬自身も独自開発を主張している。ヨーロッパではメリニットの高感度性と毒性を嫌って使用されなかったが、日本海軍では爆発
出典:wikipedia
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