広橋 公寿(ひろはし こうじゅ、1957年1月11日 - )は、福岡県宗像郡玄海町(のちの宗像市)出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者。長男は2005年の四国アイランドリーグ第一期生として、高知ファイティングドッグスで1年間プレーしていた広橋貴寿。また、現在シアトル・マリナーズに在籍する投手・岩隈久志は義理の息子(=長女の夫)に当たる。東海大学付属第五高等学校から八幡大学に進学。九州六大学リーグでは在学中3度優勝。卒業後は東芝に入社。1979年から2年連続で都市対抗に出場、リードオフマンとして活躍する。東芝のチームメートに菊地恭一らがいた。1981年にドラフト外で西武ライオンズへ入団しプロ入り。同期のドラフト外入団に秋山幸二がいる。1年目から一軍に定着し、行沢久隆と三塁手のレギュラーを争う。翌年からスティーブ・オンティベロスが三塁に回ったため、外野手も兼ね、ユーティリティプレイヤーとして長く活躍した。左投手にはめっぽう強く、しぶとい打撃で、西岡良洋と共に左キラーとして当時の監督広岡達朗に重宝され、1985年には規定打席不足ながら打率.301をマークしている。1986年には故障もあって後半戦を棒に振り、その後は代打、指名打者としての起用が主となった。1989年オフ、宮下昌己・大宮龍男との交換トレードで小川宗直と共に中日ドラゴンズへ移籍。1990年オフ、小早川幸二との交換トレードで、地元福岡ダイエーホークスに移籍。1991年限りで現役引退。福岡県内のゴルフ場に勤務するかたわら、九州地区からの中継限定で文化放送の解説者を務めた。1995年から2003年まで、西武で守備走塁コーチや打撃コーチを歴任。2004年には、テレビ埼玉解説者・西日本スポーツ評論家として活動した。東北楽天ゴールデンイーグルスがNPBに参入した2005年に、同球団の一軍外野守備走塁コーチへ就任。シーズン途中からは、一軍打撃コーチから二軍打撃コーチへ降格した駒田徳広に代わって、一軍打撃コーチを務めた。2006年から二軍打撃コーチ、2008年から二軍外野守備走塁コーチ、2011年には二軍育成チーフコーチ(5月16日以降は二軍打撃コーチ)を担当。2010年7月には、当時の二軍監督・仁村徹の病気療養を受けて、二軍監督代行を務めた。2012年には育成チーフコーチを担当したが、シーズン終了後に退団。広橋の退団によって、楽天球団創設時点での監督・コーチ陣は全員が退任した。2013年には、韓国のフューチャーズリーグに参加していた高陽ワンダーズで打撃コーチを担当。2014年に楽天球団へ復帰すると、「楽天イーグルス ベースボールスクール」(楽天球団が運営する少年野球教室)のコーチ(ジュニア部門統括担当)を務めた。さらに、楽天球団が同年12月7日に「東北楽天リトルシニア」(NPB加盟球団が初めて保有・運営するリトルシニアチーム)を設立させたことを受けて、2015年から総監督に就任している。
出典:wikipedia
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