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南洋神社

南洋神社(なんようじんじゃ)は、パラオ共和国コロール島アルミズ高地にある神社である。第二次世界大戦中、当地が日本の統治下にあった時代に官幣大社として創建され、敷地は9万6248坪もある壮大なものであった。終戦時に一度廃社されたが、1997年に再建された。1922年の南洋庁統治が始まってから15年以上が経過し、南洋群島各地に民間有志による神社が創建されたが、南洋庁所在地のコロールには神社が一つもなかった。そこで南洋庁では、南洋群島総鎮守たる神社を紀元二千六百年記念事業の一環としてコロール島に創建することになった。1937年(昭和12年)より、土地の選定が進められ、その結果コロール町郊外のアルミズ高地に創建することに決定した。1938年(昭和13年)1月より約2年かけて工事が行われた。本殿は神明造・大鳥造を基調とする南洋群島の風土に適した様式とし、木材は南洋群島各地から取り寄せることになった。石材は幸いにも整地の際に良質な安山岩が大量に発見されたため、これを使うことになった。また、関係諸団体から勤労奉仕の申し出が相次ぎ、積極的に受け入れた。その他、運輸業者は資材搬入のための運賃一部免除、電気設備業者の電気設備の寄附なども行われた。そして、1940年(昭和15年)2月に天照大神を祀る官幣大社として指定され、同年11月1日、御霊代を捧げ持つ勅使伊藤博精公爵を迎えて、粛々と鎮座祭が執り行われた。第二次世界大戦末期、連日の空襲を避けるため1944年11月22日にパラオ本島(バベルダオブ島)のジャングルの中に仮本殿を設置し御神体を遷座。翌1945年の5月17日の空襲時の至近弾でコロールの本殿は大破するが、日本軍が修復を行い、外形が復元したところで終戦を迎える。1945年9月11日米国の了解の下で奉焼式が行われ日本側の手でコロールの社殿が奉焼された。11月17日日本政府より南洋神社廃止の連絡を受け、翌年1月5日パラオ本島の仮本殿で昇神の儀、仮本殿の奉焼を行い、ご神体は船で東京の宮内省に運ばれ1月19日御奉遷の手続きが行われた。戦後、広大な境内は太平洋諸島信託統治領政府の官有地となった。やがて木が生えて森林へと変わり、ただ灯篭と社号標のみが往時の神社を偲ぶよすがとなった。1980年代になって民間に払い下げられ、パラオ人の邸宅となった。行き止まりとなっていた参道は延長され、パラオ・コンチネンタル・ホテル(後のホテル・ニッコー・パラオ)に繋がる道路となった。1997年になり、パラオ人の邸宅の前庭(旧神社の本殿・拝殿があった所)を借りるような形で小さな祠が再建された。祠の前には新たに鳥居や狛犬や灯篭が設置され、「旧官幣大社南洋神社再建趣旨」を刻んだ石碑が本殿の右側に、左側には名越二荒之助ら「日本—パラオ心を結ぶ会」によって戦死者を称える日本語と英語の文章を刻んだ石碑が設置された。南洋神社西側の土地を明治神宮外苑に倣って「南洋神社外苑」として整備する計画があった。都市計画のために来島した内務省技師に、外苑計画の設計を依頼したものである。この計画によれば、南洋神社西側の山を削り、海面や谷間を埋めて平地を形成し、そこに各種施設を設けるというものであった。しかし、多額の経費を要したため、実際には建設されることはなかった。埼玉県越谷市の久伊豆神社には、南洋神社を偲び、南洋群島で戦没した日本軍将兵の慰霊のため、平成16年(2004年)に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」が建立された。建立時の式典には当時のパラオ大統領トミー・レメンゲサウも参加している。

出典:wikipedia

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