サッカーオーストラリア代表(Australian national football team)は、オーストラリアサッカー連盟により組織されるサッカーのナショナルチーム。公式ニックネームは『サッカルーズ』 ("the Socceroos")でサッカーとカンガルーの合成語である。なお、現在はカンタス航空がスポンサーとなっている。オーストラリア代表は1922年にニュージーランド代表と初めての国際試合を行い、結果は2敗1分であった。この時から25年間オーストラリアはニュージーランド、南アフリカ、中国などと親善試合を幾度となく行っていた。FIFAワールドカップには1966年大会から予選に参加し、一次予選で北朝鮮代表に敗れた。1974年大会のアジア/オセアニア地区最終予選では、韓国と再試合までもつれ込んだ戦いを制して初出場を果たす。本大会は2敗1分で1次リーグで敗退した。1974年にアジアサッカー連盟(AFC)から除名されたイスラエルが1980年代よりオセアニアの暫定メンバーになったことにより、1986年メキシコ大会予選よりオセアニア地区予選に加わることとなった。このためFIFAは、アジアとアフリカのアラブ諸国との対戦を避けるため、オセアニア地区を従来のアジア地区とアフリカ地区と全く切り離して予選を組むように配慮した。1986年大会予選はオセアニア地区予選1位となったが、ヨーロッパ地区予選からプレーオフに出場したスコットランドに敗退した。1994年大会予選でもオセアニア地区勝者となり、北中米カリブ海地区予選2位のカナダに勝利したが、その次のアルゼンチンに敗れれ本大会出場は成らなかった。1998年大会は大陸間プレーオフではイランに2引分でアウェーゴールルールにより敗退。2002年大会予選ではウルグアイとのプレーオフに1勝1敗ながら得失点差により敗れた。なお、2002年大会予選のアメリカ領サモア戦に31-0で勝利し、国際試合における最多得点を記録した(オーストラリア 31-0 アメリカ領サモアを参照)。2003年から政府の後押しを受けたオーストラリアサッカー連盟は様々な改革に着手した(詳細はオーストラリアサッカー連盟のオーストラリアサッカー革命の項を参照のこと)。FIFAコンフェデレーションズカップ2005でグループリーグA組を勝ち点0の最下位で終えた2005年にフース・ヒディンクが監督に就任した。当時の予選はセントラル方式(集中開催方式)で行われていた。2次予選での上位2カ国が2005年9月3日および6日の最終予選を戦い、その勝者が2005年11月12日と11月16日の南米5位との大陸間プレーオフ2試合を戦うというものだった。ヒディンク監督招聘時点で、残る試合は最終予選2試合と南米5位との大陸間プレーオフ2試合だった。期間に余裕があることを逆手に取り、PSVとの契約中で難色を示したヒディンクにPSV監督と兼務で構わないと説得した。また、オーストラリア代表選手の主力の多くが欧州でプレーしていたこともプラスに働いた(PSV監督をしながら視察できるため)。ヒディンク監督はPSV監督を兼務したまま、2005年7月にオーストラリア代表監督に就任。9月の最終予選に勝利して、南米予選5位のウルグアイと大陸間プレーオフで対戦。11月12日第1戦アウェーでは敗れた。ホームでの第2戦に臨んだ。この際、同国のフラッグ・キャリア(その国を代表する航空会社)であるカンタス航空が協力し特別なチャーター機を手配した。35人の代表選手団に対し220人乗りのジャンボ機を用意し、帰国の準備が出来次第すぐに離陸した。負傷者の負担を減らす為、低い高度で飛び、時差に早く適応できるような工夫をした。機内には疲労を取り除く為にマッサージ台の設置、特別な食事メニュー、酸素ボンベの供給などあらゆるものが準備されていた。対して、ウルグアイは直行のチャーター機を用意できず、二度の乗り継ぎを余儀なくされ、疲労困憊で第2戦に臨む羽目になった。ホームでの第2戦を1-0で勝利。2試合の勝敗・得点共に同じとなったためPK戦に突入して4-2で制し、32年ぶりの本大会出場を決めた。2006年大会ではグループリーグ初戦の日本戦でW杯初勝利を挙げ、グループリーグも1勝1敗1分の2位で突破。決勝トーナメントは1回戦でイタリアに敗れたが、ベスト16に入った。オーストラリア代表の属するオセアニア地区は長年ワールドカップ予選において地区予選後にヨーロッパや南アメリカ、またはアジアと大陸間プレーオフを行うことで本大会への出場権が決定されていた。いずれも各地区予選で惜しくも漏れ敗者復活に懸ける強豪国と対戦することが多く、オーストラリアサッカー連盟はアジアサッカー連盟(AFC)への加入を求めていたが、この訴えは国際サッカー連盟(FIFA)により拒否されてきた。AFCへの転籍にはオセアニアサッカー連盟(OFC)とAFC双方の了解が必要だったが、オーストラリアサッカー連盟は政府の後押しを受け、念入りにロビー活動を展開した。2005年3月23日にAFC執行委員会は全会一致でオーストラリアサッカー連盟のAFC入会を承認した。AFC会長(当時)のモハメド・ビン・ハマムはオーストラリア参加による経済的な利益を考慮したことを説明している。OFCは4月17日にオーストラリアサッカー連盟のOFC退会を承認した。FIFAはこれをうけて2006年1月1日の時点をもってAFCへオーストラリアサッカー連盟が入会すると発表した。また、オーストラリアサッカー連盟はFootball Federation Australiaへ改名した。2006年2月、AFC加盟後初の国際試合はAFCアジアカップ2007の予選のアウェーでのバーレーン戦(2月22日)であった。主力の海外組が不在、監督のヒディンクも監督を兼任していたPSVアイントホーフェンで指揮を取っていたため不在であったが、3-1で勝利を収めた。また、同予選を勝ち抜いてAFCアジアカップの初出場も決めた。なお、同大会は決勝トーナメント1回戦で日本にPK戦で敗れた。AFC加盟後初のFIFAワールドカップ地域予選の試合は、2008年2月6日にホームで行われた2010 FIFAワールドカップ・アジア予選3次予選グループ1第1戦対カタール戦であり、3-0で勝利した。その後、最終予選へ進出して全8戦中2009年6月6日の第6戦で2大会連続の本大会出場を決めた(6勝2分)。2010年大会はグループリーグ3位となり、2大会連続のグループリーグ突破はならなかった。AFCアジアカップ2011はグループリーグを首位で通過。決勝トーナメントは決勝で日本に延長戦で敗れたが、準優勝となった。2014 FIFAワールドカップはグループリーグ3戦3敗の最下位で決勝トーナメント進出は成らなかった。自国開催のAFCアジアカップ2015では、グループリーグでオマーン、クウェートに連勝。韓国には敗れたものの2位で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメントでは準々決勝で中国、準決勝でUAEを撃破。決勝ではグループリーグで敗れた韓国を延長戦の末破って初優勝を果たした。オーストラリアは世界中からの移民により発展してきた国家である。移民出身またはその子孫は、祖先の出身国におけるサッカー代表チームへも参加が認められており、多くの選手が他国ナショナルチームへ流出した。(参加した大会のみ表記)
出典:wikipedia
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