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軍服 (ドイツ)

軍服とは軍隊の構成員(軍人)が着用する衣類を言う。("軍服全般については軍服を参照")ドイツの軍服では、軍隊に制服が導入された17世紀から現在に至るドイツにおける軍服の変遷、および各国への影響について述べる。また、特にヘルメットについては「ドイツ軍のヘルメット」も参照。17世紀に入った頃からヨーロッパの軍隊では兵士が着る服の色の統一が図られるようになり、やがて仕立ても標準化されるようになった。そして、ドイツの一部領邦ではオランダ、デンマークと並んで最も早く服の色の統一が図られたとされている。1660年代からフランスのルイ14世が行なった軍制改革によって近世ヨーロッパの軍制が確立し、その新しい服装もドイツの各領邦に制服として採用された。18世紀に入るとプロイセンの軍備が増強され、その影響力が大きくなった。特に軍服に関しては独自に発達したものがヨーロッパ各国に採用されるようになり、以降19世紀末まで「ドイツ式」が軍服の流行を主導する。兵士の士気を上げる目的で、ドイツ伝統の黒色の軍服や骸骨の章を採用する等の工夫が凝らしてある。軍服を黒色にした理由は油汚れが目立ち難いからだとも言われる。ナチス・ドイツの軍服の中でも、最新兵器を優先的に与えられ、隊員自体も躯幹長大(最低でも173cm以上)、選びぬかれた容姿と運動能力を持った人物が選抜されたナチ親衛隊の軍服は、隊員選抜の特有のこだわりと兵器のおかげで本来以上に映えた存在となり、ナチス賛美が危険視される社会に於いても愛好者を持つ事で知られる。第二次大戦後のドイツでは、ドイツ連邦共和国(西ドイツ及び(1990年統一後のドイツ)のドイツ連邦軍の勤務服は立折襟を排して開襟ネクタイ式を採用、生地のグレーも明るめの色にするなどしてナチス時代との差別化をはかった一方、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の国家人民軍の軍服(1990年の東西統一まで)は、より旧来のドイツ軍の伝統を踏襲しつつ、短剣・サーベル・徽章など、細部にソ連スタイルを取り入れたデザインであった。勤務服の上衣は従来の折襟から開襟ネクタイ式に変更、ズボンは第三帝国時代の長靴に対応した乗馬ズボンタイプのものから、短靴及び編み上げの半長靴に対応したものに変更された。制帽と上衣は明るい灰色、ズボンはそれよりやや濃い目の灰色が用いられる。帽章は、X字形に交差したサーベルを柏の葉が囲む意匠が胴部につき、クラウン部には円形章(外側から金・赤・黒の同心円)がつく。
尉官制帽の庇には銀色の波模様、佐官制帽の庇には1列の銀の柏葉、将官制帽の庇には2列の金の柏葉が飾られる。階級は肩章で表されるが、従来のモール編みの肩章が廃されて士官も含めて軟性タイプの肩章(兵科色の縁取りがつく)が用いられるようになった。尉官が銀色の星の数、佐官が銀色の半円形の柏葉のリースの上に銀色の星の数、将官が金色のリースの上に金色の星の数で表される。肩章には兵科色の縁取りがつくが、将官肩章は赤の縁取りの内側に金モールの縁取りが加わる。襟章は従来のものがほぼ踏襲されたが、平行四辺形から長方形に変更。折襟から開襟ネクタイ式への変更に対応したものと思われる。帽章は、錨を柏の葉が囲む意匠が胴部につき、クラウン部には円形章がつく。兵士は水兵帽のクラウン部に円形章のみがつく。
尉官制帽の庇には金色の波模様、佐官制帽の庇には1列の金の柏葉、将官制帽の庇には2列の金の柏葉が飾られる。階級は兵・下士官が肩章で、将校が袖の金線で表される。従来将校の上衣に併用されていた、陸軍に準じた肩章は廃され、他の多くの国で用いられている例に準じて、黒地に袖と同じ金線を配した肩章が夏服・コート・セーターに用いられるようになった。第三帝国時代から開襟ネクタイ式の上衣が導入されていたことも手伝い、制服制帽の仕立て・配色等は3軍中従来からの連続性が最も強い。ただズボンは従来の乗馬ズボンタイプから、短靴の使用を念頭に置いた仕立てになっている。帽章は、翼を柏の葉が囲む意匠が胴部につき、クラウン部には円形章がつく。
尉官制帽の庇には銀色の波模様、佐官制帽の庇には1列の銀の柏葉、将官制帽の庇には2列の金の柏葉が飾られる。階級は陸軍のパターンに準じた肩章で表される。襟章は兵科色の長方形の台布に、兵・下士官が銀色の飛ぶ鳥の意匠、尉官が半円形の柏葉のリースの上に飛ぶ鳥の意匠、佐官が長円形の柏葉のリースの内側に飛ぶ鳥の意匠を配したものがもちいられる。第三帝国時代に用いられた襟章と類似しているが、階級ごとに飛ぶ鳥の意匠の数が変化して「階級章」の機能を果たすことはない。また将官襟章には陸軍将官と同じものが用いられる。地上軍では戦後しばらく、ヴァイマル~ナチス時代を踏襲する折襟軍服が将校・下士官兵ともに使用されていた。幾度のマイナーチェンジを繰り返し、1970年頃より、将校は4つボタンの開襟軍服と、親衛隊の軍服を踏襲したようなデザインとなった。下士官兵は、多少デザインが変更された5つボタンの折襟であったが、70年代後半より、4つボタンでネクタイを締めることが主であった。帽章は国家章をオークの葉で囲ったもの。戦闘服については「フィヨルドパターン」と呼ばれる4色迷彩と、1960年代より登場して主流となった「レインドロップパターン」と呼ばれる、黄土色を基調とし、縦に茶色の点線が入った迷彩の2種類が採用されていた。初期型の戦闘服は胸ポケットが2つのみだったが、後期型では切り込み型の腰ポケットが追加された。1980年代半ばより採用されたUTVと呼ばれる新型では、西側の戦闘服のように貼り付け型腰ポケット2つが追加され、階級章を付ける位置が、肩から上腕へ移動するなど、改良されている。人民海軍将校の制服は、当初は同時期のソ連海軍の物と似た紺色シングル立詰襟の物であったが、後に第二次大戦時の海軍とほぼ同じデザインの5個ボタン4ヶ掛けダブルの制服となった。この制服は将校の他、准士官および上級下士官も着用した。水兵および下級下士官の制服は一般的なセーラー服である。航空軍の制服は第二次世界大戦時のドイツ空軍をほぼ受け継いだデザインの物が将校として建軍時より採用された。ただし生地の色はナチス政権時の青灰色ではなく、陸軍とほぼ同様の石灰色であり、下士官兵(70年代以降は将校准士官も)の制服は襟章や帽章、淡紺青色のパイピングを除き、他の東側国家の空軍と同じく陸軍にほぼ準じていた。ドイツ軍は19世紀後半から20世紀前半までの世界の軍事・軍制に多大な影響を与えた存在であった。一方、軍服に関しては18世紀から19世紀にかけて欧米の軍服の流行を主導していた。そのため、日本陸軍など軍服にも(部分的なものも含め)少なからず影響を及ぼしている。20世紀に入るとイギリスやアメリカに取って代わられ、第二次世界大戦の頃にはドイツの軍服は時代遅れの感が否めなくなっていたが、それでもその特徴的なデザインは依然多くの国に採用され、独特のデザインのも1930~40年代にかけて各国で採用されていた。しかし、第二次大戦の敗戦とナチス・ドイツのマイナスイメージから、大半の国でデザインの変更が行われ、現在世界各国の軍服にナチス・ドイツの影響をとどめる例は少ない。これ以外にも、世界各国の軍服においてドイツの影響を判別しにくい要因として、以下のようなものがある。19世紀末から第二次大戦前までドイツ軍をモデルに軍近代化をはかった南アメリカ諸国のなかには、礼服や勤務服、また式典等で着用するヘルメットに、現在でもドイツ軍の影響をとどめる国がある。例:チリ、ボリビア等。軍服 (南アメリカ)参照。多くの国に定着しているドイツ起源の軍装としては、軍楽隊の肩章 シュヴァルベンネスター がある。意味は燕の巣で、制服上衣の両肩に付けることから複数形である。ただし西ドイツ軍・現在のドイツ連邦軍では使われていない。第二次世界大戦後、現実世界における各国の軍服からドイツ軍の影響が改変されていったのと同時期に(かつおそらくは同じ理由から)、映画、テレビ、漫画、アニメなど作品の中で、「敵役」の架空の組織や国(惑星や惑星系全体が国家に統一されているという設定もある)の構成員が着用する制服が、第二次世界大戦時までのドイツの軍服をイメージして設定されている例が頻繁に見られるようになった。こうした「組織」や「国」は、独裁的・軍国主義的で侵略や征服のためには手段を選ばない、という設定がなされ、そこには明らかにナチス・ドイツの体制と、連合軍と対立するイメージが投影している。イメージのフィクションへの投影の先駆的な例としては、ファシズムが現実に台頭していた同時代に、これへの鋭い風刺メッセージをこめて喜劇王チャールズ・チャップリンによって作られた映画「独裁者」(1940年)が挙げられる。ちなみに彼が1918年に制作・主演した「担え銃」にも、茶化されるキャラクターとしてドイツ軍将校が登場し、そこには既に、第一次大戦時に蓄積された「敵」のドイツ軍イメージが反映している。

出典:wikipedia

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