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林義一

林 義一(はやし ぎいち、1920年2月1日 - 2008年1月17日)は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。徳島商業学校時代は楠安夫(高松商業)・千葉茂(松山商業)と並ぶ「四国のビッグ3」と称され、1935年の春の選抜に徳島県勢として初めて出場。2回戦に捕手として出場し、7回からマウンドに上がるも大敗。2年後の1937年にエースとして春夏出場を果たし、選抜では準決勝まで進んだ。卒業後は明治大学、大王製紙を経て、地元のノンプロ・全徳島に入り、エースと4番を務める。1946年・1947年と2年連続で都市対抗野球大会に出場し、1947年には全大阪との3位決定戦で別当薫と投げ合ったが、敗戦投手となった。当時はプロ化の動きもあったほど人気があり、メンバーには平井三郎・蔦文也らがいた。1949年に大映スターズへ入団し、同年11月7日の南海戦(宇治山田)で初勝利を挙げる。右の横手投げ・技巧派で、豊田泰光曰く「ブーメランのように投げた方に戻っていく」カーブを武器にし、2年目の1950年からエースとして活躍。同年5月29日の近鉄戦(後楽園)では黒尾重明から初本塁打を放った。5年連続開幕投手を務め、1951年には第1回のオールスターゲームに選出され、第3戦ではMVPを獲得。1952年4月27日の阪急戦(高崎城南)では、パシフィック・リーグ初のノーヒットノーランを達成。1四球のみの準完全試合だった。1953年8月29日の西鉄戦(平和台)では中西太に、推定160m以上と言われる本塁打を打たれている。1954年は8勝20敗に終わり、2桁勝利が4年連続でストップ。1955年には復活し、自己最高の19勝をマーク。1956年からはコーチ兼任となり、三浦方義・太田正男・後藤修を指導。自身は4勝12敗と過去最低の成績となり、同年に自由契約。1957年に大映時代の監督・藤本定義率いる阪急ブレーブスへ移籍し、同年6月19日に古巣・大映から勝利を挙げる。この年は4勝中2勝が東映戦から挙げたものであり、いずれも敗戦投手は米川泰夫だった。1958年に現役引退。引退後は近鉄の一軍投手コーチ(1959年 - 1960年)・一軍チーフコーチ(1961年)を務め、1959年には病気で療養した千葉茂監督に代わってチームを指揮。1961年には36勝103敗と最下位を独走したが、新人王の徳久利明を送り出している。在任中は蔦行雄を先発の一角に起用したほか、久保征弘・板東里視も一軍デビューを果たし、久保は1962年には28勝で最多勝のタイトルを獲得。板東は同年の開幕投手を務めた。1964年、国鉄スワローズ監督に就任。母校の先輩である評論家・中澤不二雄の推薦により、当初は一軍投手コーチで入るはずだった。この年から神宮球場がホームグラウンドに新たなスタートを切るも、いきなり巨人に開幕3連敗をしてしまう。その後は4連勝で巻き返し、4月下旬には3位に浮上したが、長くは続かずにBクラスに終始。佐藤進・半沢士郎を見出すも、5位でシーズンを終えた。就任2年目の1965年は、勝率5割およびAクラスの確保を目標に掲げたが、開幕から低迷。シーズン途中の4月27日に退任。在任中は天皇と異名をとったエース・金田正一との確執が取り沙汰されたほか、身売りの影響による更迭・留任を巡って産経新聞・日本国有鉄道の対立に翻弄された事もあった。その後は恩師・藤本の招聘で阪神タイガース一軍投手コーチ(1968年)を務め、まだストレートしか投げられなかった江夏豊に「ゴムまりの天井投げ」でカーブを伝授。また、砲丸投げで学んだ「担ぎ投げ」の投球フォームを改良したほか、外角低めストレートでの勝負も伝授した。奥田敏輝に対しては投球フォームをスリークォーターに改造したが、一軍では活躍できなかった。その後は日本教育テレビ→テレビ朝日(1969年 - 1980年)・千葉テレビ(1971年 - 1972年)解説者を経て、西武ライオンズ二軍バッテリーコーチ(1981年)・二軍投手コーチ(1982年 - 1983年)を務め、新人時代の工藤公康を指導した。一時期はサンケイ新聞記者(1962年 - 1963年・1966年 - 1967年)や東京スポーツ評論家として活動していた。2008年1月17日に心不全のため東京都北区の病院で死去。87歳没。

出典:wikipedia

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