エドガー・マルティネス(Edgar Martínez, 1963年1月2日 - )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク市出身(プエルトリコ・ドラド育ち)の元プロ野球選手(指名打者、内野手)。従兄のカルメロ・マルティネスも元メジャーリーガー。1963年、ニューヨーク州に生まれた。に行われたピッツバーグ・パイレーツ対ボルチモア・オリオールズのワールドシリーズをたまたま見たことがきっかけで、野球に興味を持つようになる。プエルトリコ人として育ったということもあり、尊敬していた選手はロベルト・クレメンテであった。プエルトリコのアメリカン大学を卒業後、に三塁手としてシアトル・マリナーズと契約した。マイナーリーグで着々と成績を伸ばし、9月にメジャー初昇格。9月12日のシカゴ・ホワイトソックス戦(キングドーム)で代走としてメジャーデビュー。AAA級のプレーオフが始まるという中でのメジャー昇格であった。二日後の14日に三塁打を放ち、メジャー初安打を記録した。は飛躍が期待されたが、故障し、AAA級カルガリー・キャノンズで開幕を迎えた。AAA級カルガリーでは打率.363を記録し、リーグの首位打者を獲得。翌はメジャーで開幕スタメンを飾ったが、成績が安定せず、シーズン途中でAAA級カルガリーに降格。メジャーのレギュラー定着には時間を要すも、冬のプエルトリカンリーグでは打率.424と結果を残した。、開幕をメジャーで迎えると、打率3割・リーグ3位の出塁率.397を記録するなど打撃面で好成績を残し、そのままメジャー定着を果たした。翌も活躍し、150試合に出場して打率3割・出塁率4割を記録する。、打率.343で自身初・マリナーズ球団史上初となる首位打者を獲得。右打者の首位打者としては、1959年のハービー・キーンが打率.353で首位打者になって以来の高打率での首位打者獲得であった。また、リーグトップの46二塁打を記録した他、18本塁打、73打点と打撃部門の全てで自己最高を記録し、三塁手部門のシルバースラッガー賞も受賞した。、タイトルを獲得して迎えたシーズンだったが、左足のハムストリングを痛め、故障者リスト入りを3度繰り返すなど、出場は42試合にとどまった。も開幕早々から故障で離脱し、成績が低迷。球団はマルティネスの打力を惜しみ、同年から徐々に指名打者(DH)として起用するようになる。この起用方針がマルティネスにとって最大の転機となった。翌、主にDHとして再び打棒を発揮した。1994年から1995年のMLBストライキの影響もあり短縮シーズンで行われたが、145試合全てに出場し、リーグトップの打率.356・出塁率.479・対左投手打率.433・121得点・52二塁打・OPS1.107を記録。自身2度目の首位打者とDH部門のシルバースラッガー賞、自身初となる最優秀指名打者賞を獲得した。右打者の首位打者としては1939年にジョー・ディマジオが.381を記録して以来の高打率であり、右打者として2度の首位打者獲得は52年ぶり(1936年、1943年のルーク・アップリング)であった。MVP投票では、モー・ボーン、アルバート・ベルに次ぐ3位に付け、球団史上初の地区優勝・プレーオフ進出に大きく貢献した。ニューヨーク・ヤンキースとのディビジョンシリーズでは、1勝2敗で迎えた第4戦に、1試合で7打点を挙げる猛打を見せ、更に第5戦では延長11回裏にサヨナラとなるタイムリー二塁打を放った。同シリーズでは打率.571(21打数12安打)、3ラン本塁打と満塁本塁打を含む10打点を記録するなど大活躍を果たし、以降「史上最強のDH」と呼ばれるようになった。以降は、ケン・グリフィー・ジュニア、ジェイ・ビューナー、アレックス・ロドリゲスらと共に、他球団から怖れられる驚異的なクリーンナップの一角を担った。1996年8月にマリナーズ史上4人目となる通算1000本安打を達成。は開幕から自己最長の17試合連続安打を記録し、オールスターゲームではグレッグ・マダックスから本塁打を放った。アベレージと出塁を持ち味とし、まで4年連続で打率3割・100打点・100四球を記録した。は後半戦に打ちまくり、8月にペドロ・マルティネスから通算1500本安打を達成。最終的にリーグ4位となる打率.337を残し、前年から続けてリーグトップの出塁率を記録した。シーズン開幕前、MLBでリーグ再編が叫ばれ、マリナーズがDH制のないナショナルリーグへ移動するという噂があったことから、マルティネスはそれが現実になれば引退すると発言した(DHがなければマルティネスはDHのあるチームへ移らなければならないため)。同年限りでの引退をほのめかしたため、地元シアトルでは大きな話題となった。37歳という年齢で迎えたこのシーズンは、前半戦で打率.354、23本塁打、87打点を残し(前半戦での87打点はマリナーズ球団新記録)、最終的に145打点を記録して自身初の打点王を獲得。また、前年の夏に本拠地が右打者に不利とされるセーフコ・フィールドへ移ったにもかかわらず、自己最多となる37本塁打を放った。翌も開幕から一貫して打率3割以上を維持。7月半ばに故障者リスト入りすることはあったものの、復帰後も活躍を見せ、リーグ2位の出塁率を記録し、5度目の最優秀指名打者賞と4度目のシルバースラッガー賞を受賞した。2年続けてチームのプレーオフ進出に貢献し、当時監督のルー・ピネラからは「最も頼りになる男」と絶賛された。クリーブランド・インディアンスとのディビジョンシリーズでは、1勝2敗で迎えた第4戦の最終回に逆転2ラン本塁打を放ち、チームを勝利に導いた。、左足を痛めた影響で97試合にしか出場できず、再び故障がちになった。加齢もあり、引退を覚悟して臨んだ翌は、145試合に出場して通算2000本安打を達成。シーズン半ばには自打球を足に当て、足の親指を骨折したこともあったが(球団はその際、マルティネスのためにつま先に鋼鉄の入ったスパイクを特注した)、最終的に打率.294、24本塁打、98打点、出塁率.406と好成績を残し、5度目となるシルバースラッガー賞を獲得した。シーズン終了後に球団側の慰留もあり、現役を続行した。、8月上旬に同年シーズン限りでの現役引退を表明。同月10日、本拠地セーフコ・フィールドで行われた対ミネソタ・ツインズ戦では、試合前からマルティネスに盛大な拍手が送られ続けた。マルティネスは同試合に3番打者として出場、初回の第1打席に先制点となる9号2ランを放ち、ファンもスタンディングオベーションで応えた。先制のホームを踏んだイチローは、試合後に「一番盛り上がる打席だったでしょうからね。かっこよすぎますよね」とマルティネスの活躍を称えた。マルティネスは同年にMLB史上20人目の通算500二塁打、通算300本塁打を達成し、現役を引退。通算成績で打率3割・300本塁打・500二塁打・出塁率4割・長打率5割を記録した。シーズン終了後、社会やファンへの貢献が評価され、憧れであったクレメンテの名を冠するロベルト・クレメンテ賞を受賞した。マルティネスの背番号11はマリナーズの永久欠番に準ずる扱いとなっている。出塁率(.418)、出場試合数(2055)、二塁打(514)、打点(1261)、得点(1219)、四球(1283)などでマリナーズの球団記録を保持しており、打率(.312)、本塁打(309)、安打(2247)などは球団歴代2位である。また、DHでの本塁打243本は、2007年にフランク・トーマスに更新されるまでMLB歴代1位であった。、ラティーノ・レジェンズ・チームに選出され、にはマリナーズのチーム殿堂入りを果たした。、アメリカ野球殿堂入りの候補者となった。しかし、遅咲きの選手であるが故に通算成績に突出したものがないことや、守備貢献の全くないDH自体の評価が低く、ナショナルリーグの記者からの票が集めにくいこともあり、得票率は36.2%にとどまった。その後も30%前後を推移しており、殿堂入りには至っていない。6月20日より古巣・マリナーズの打撃コーチに就任。18年間の現役生活を一貫してシアトル・マリナーズで過ごしており、MLBでは珍しいフランチャイズ・プレイヤーである。地元シアトルのファンからは「エドガー」の愛称で親しまれ、後半にESPNが実施した「マリナーズの歴史上で最も偉大な選手は誰?」というアンケート調査において、ケン・グリフィー・ジュニアに次いで第2位に選出されている。社会奉仕・ファンサービスに熱心であり、人格者としても知られる。現役時代は率先してリーダーシップを取るタイプではなく、寡黙で落ち着いていたが、後輩の面倒見がよく、2000年以降はチームのリーダー的存在であった。ブレット・ブーンは「彼がいるだけで打線が全然違う」と語っており、アレックス・ロドリゲスはマルティネスを「父のような存在」と話している。イチローも「背中で引っ張ってくれる」と語っており、マルティネスの引退後には「打撃に関し、練り上げてきた技術を持った人。ヒット1本の味が違うというか、それぞれに味がある」、「シアトルで、エドガーの存在はとてつもない大きさですから」と述べている。DHになってからが全盛期であり、DHでキャリアの大半を終えた数少ない選手である。選手生活のほとんどをDH専任として過ごし好成績を残し続けた選手は、マルティネスが初めてであった。マルティネスが活躍するまでは、DHは好打者の例が少なく、DHのイメージを変えた選手でもある。マルティネスの引退後、MLBはマルティネスに敬意を表し、最優秀指名打者賞を「エドガー・マルティネス賞」と改称した。マリナーズ球団はセーフコ・フィールドの脇にある通りの名前を「エドガー・マルティネス・ドライヴ」と命名し、その経歴を称えている。巧みなバットコントロールでフィールド全体に打球を打ち分ける広角打法と、四球を量産する優れた選球眼を持ち味とした。通算打率は右打者ながら.312の高打率を残しており、通算出塁率は4割を大きく超えている。打席では非常に忍耐強く、球をよく見る打者で、相手投手に投げさせる平均球数は毎年メジャーで上位に位置していた。1990年代後半には同じ中軸であるグリフィーやロドリゲスらと遜色のない打撃成績を残し、特に純粋な打撃力を表すといわれているOPSでは毎年安定して非常に高い水準を保持していたが、出塁重視のスタイルから目立つことが少なく、他の選手の影に隠れがちであったため、「メジャーで最も過小評価されている打者」とメディアに言われたこともある。現役時代は選球眼と共に、重要な局面での勝負強さが光ることが多く、巧打のクラッチ・ヒッターとしても知られた。1995年のプレーオフ、2勝2敗で迎えたディビジョンシリーズ最終戦、リーグチャンピオンシップシリーズ進出を懸けたヤンキースとの対戦で、試合は5対4のビバインドで11回裏を迎えた。ランナー一塁三塁の場面で打席に立ったマルティネスは、ジャック・マクダウエルからレフト線へ逆転サヨナラ2点二塁打を放ち、一塁走者のケン・グリフィー・ジュニアをホームに還した。後がない劣勢の場面からチームが逆転サヨナラ勝ちを果たし、球団史上初めてリーグチャンピオンシップシリーズ進出を収めた。マルティネスの放った二塁打は「The Double」と呼ばれている。マルティネス自身も同シーンをキャリアのハイライトに挙げている。右眼が生まれつき外斜視であったため、目の筋肉を動かす運動を練習メニューに組み込んでいた。特に試合の前には、200km/h近い速度でバッティングマシンから放たれるテニスボールに書かれた数字を読み取るなどし、動体視力を鍛えるトレーニングをしてから試合に臨んでいたという。DHに転向する前は三塁手であったが、足に不安を抱えていたため、1994年頃から極端に守備機会が減った。DH制のない交流戦などでは、一塁の守備に就くこともあった。足の故障を繰り返す以前は平均以上の走力を持ち、メジャーデビューは代走で、メジャー初安打も三塁打であった。しかし故障以降は、若い頃の膝の手術から無理ができなくなっていたため、全力疾走する機会は限られており、たいへん鈍足であった。そのため、同じく鈍足のチームメイトであったジョン・オルルドと並んで、イチローに「各駅停車だ」とからかわれる程で、試合終盤で出塁すると代走を送られることが多かった。一方で走塁ミスは非常に少なく、盗塁も走力の割には企図することが多かった。
出典:wikipedia
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