LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

ロナルド・レーガン

ロナルド・ウィルソン・レーガン(, 1911年2月6日 - 2004年6月5日)は、アメリカ合衆国の俳優、政治家。カリフォルニア州知事、第40代大統領を歴任。現在、アメリカ合衆国大統領としての記録は、最年長(69歳349日)で選出されたことと、唯一離婚歴を有することである身長185cm。なお、大統領就任頃までのレーガンに関するかつての日本語の文献・報道では「リーガン」と表記されていた(後述)。対日関係上の愛称は「ロン」。俳優からカリフォルニア州知事に転じ、その後1980年に大統領に就任した。なお、俳優時代にハリウッドでスパイとしての活動を行い赤狩りのため協力を行っていた。そのことでその後の為政者としての地位を高めたと言われている。1期目はアメリカ経済の回復を政策目標に掲げ、「レーガノミックス」に代表される大幅減税と積極的財政政策を実施し、経済の回復とともに双子の赤字をもたらした。外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命やニカラグアでのサンディニスタ政権成立によって親米独裁政権が失われており、この失地を挽回すべく、レーガンは外交に関しては殊、強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行う等、「強いアメリカ」を印象づけた。2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、レーガン政権の体質に対して各方面から辛辣な批判が目立ったものの、レーガンはデタントを否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判。「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し、イギリスのマーガレット・サッチャー首相や日本の中曽根康弘首相、西ドイツのヘルムート・コール首相などと密接な関係を結び世界中の反共主義運動を支援した。前者はソ連の解体、後者はベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の民主化に繋がり、レーガンは冷戦の平和的な終結に大きく貢献した。2期目の大統領に就任した時点で75歳に迫る高齢であり、また暗殺未遂事件にも遭ったが、2期8年の任期満了によりウィリアム・ハリソンの当選した1840年以降の「20で割り切れる年に当選した大統領は在任中に死去する」という、いわゆる「テカムセの呪い」にも終止符が打たれた。大統領退任から5年後、自らのアルツハイマー病を告白。公の場には出ず、闘病に専念するようになった。2004年6月5日、長い闘病の末、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス市の私邸で死去した()。イリノイ州タンピコで、父ジョン・レーガンと母ネル・ウィルソンの間の2人の息子の2番目として生まれた。数年間にわたり町から町へ引っ越した後、1920年に一家はイリノイ州ディクソンに定住した。アイルランド系の父親はカトリック教会に属していたが、スコットランド系の母親はプロテスタント「主流派」のディサイプル教会の熱心な信徒で、母の影響を受けたロナルドは11歳のときに同教会で洗礼を受け、プロテスタントとなる。なお兄のニールは父と同じカトリックを選んだ。父はアルコール依存で、母の属する教派は禁酒派だった。幼少の頃のレーガンは教会によく通い、やがて信徒を前に説教をするようになり、後年の彼の演説力が培われた。1924年にディクソンのディクソン高校に入学した。1926年、ディクソンの北5kmにあるローウェル公園に沿って流れるロックリバーでのライフガードが初めての仕事だった。7年間の夏季勤務中、77人を溺死から救ったとのことである。後年レーガンは、「(救助した)彼らのうち9人は私にありがとうを言わなかった」とジョークを話したという。イリノイ州のに1928年に入学し、経済学と社会学を専攻し、1932年に卒業した。幼い頃より話術と演技に才能があり、後にそれをさらに発展させ、イリノイ州シカゴの大リーグチーム・シカゴ・カブスのラジオアナウンサーになった。ティッカー(ニュースなどを紙テープに印字する自動受信機)の紙テープからわかる試合の輪郭だけをもとに、自らの想像と話し方の才能をつかって実況放送を行った。1934年のセントルイス・カーディナルス戦において、カブスの9回の攻撃時に放送回線が故障したが、機器が回復するまで架空の実況放送を即興で滑らかに行った。その後レーガンはハリウッドに向かい、映画俳優としての経歴を歩み始めた。映画初出演は『Love is On the Air』(1937年)で、その後二枚目俳優としての地位を築き上げ1939年末までに19本の映画に出演した。1940年には『Knute Rockne All American』で、大学フットボールのスター選手で25歳で早世したジョージ・ギップ(愛称:ギッパー)の役を演じ、そこから彼はギッパーという愛称を得た。この頃に『風と共に去りぬ』のオーディションにも参加した。デビュー後には次代のハリウッドを代表する二枚目スターとしての将来を嘱望されていたが、同時に俳優組合などでも要職に就くなどの政治的活動に若い時期から携わっていた。なお俳優デビュー直前の1935年にアメリカ陸軍の予備役将校になっている。第二次世界大戦時には、1941年12月8日のアメリカの参戦の後に招集され、視力が弱かったためアメリカ陸軍航空軍第1映画部隊に配属され、訓練用・教育用の映画やプロパガンダ映画の制作・ナレーションに携わった。終戦までハリウッドに残り陸軍大尉まで昇進した。その後、1950年代の終わり頃には映画に出ることは少なくなったが、映画スターとしての知名度と巧みな話術を生かし、テレビショー『General Electric Theater』の司会やテレビCMへの出演など、当時最新のメディアとして人気を集めていたテレビへとその活動の場を移していった。テレビでも人気を博し様々な番組に出演したものの、その後政治の世界へと本格的に軸足を移し、『Death Valley Days』の司会がレーガンの俳優としての最後の仕事となった。レーガンの出演作は日本でも数多く公開され、日本でも知られている映画の出演作に『カンサス騎兵隊』(1940年)、『殺人者たち』(1964年 ドン・シーゲル監督)などがある。レーガン本人によると、自己最高の作品は『Kings Row』(1942年)であるという。そのほかの代表作には、『Hellcats of the Navy』『This Is the Army』『Bedtime for Bonzo』などがある。なお、レーガンの長年のテレビ出演を顕彰して、ロサンゼルスのハリウッド大通り6374番のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、レーガンの名前が刻まれた星形の敷石がある。1940年に女優のジェーン・ワイマンと結婚した。ワイマンとの間には長女(1941年生)と養子に迎えた長男(1945年生)がいる。1947年にも娘が生まれたが4ヵ月の早産で翌日に死去している。しかしレーガンの政治への指向が増すと、高校からの憧れであった女優であり続けたいとするワイマンとの関係が悪化し、1948年に離婚した。なお、レーガンは離婚歴のある唯一のアメリカ大統領である。1952年には女優のナンシー・デイビスと再婚し、カリフォルニア州のパシフィック・パリセーズに住居を構えた。ナンシー夫人との間には次女(1952年生)と次男(1958年生)がいる。1940年代後半から1950年代にかけてアメリカを吹き荒れた反共・反ソ機運はレーガンの政治的なイメージを増強した。レーガンはフランクリン・ルーズベルトと彼のニューディール政策を支持して、リベラル派としてキャリアを始めたが、のちに保守主義者に転じた。レーガンは、俳優かつ映画俳優組合(SAG)の委員長の立場でありながら上院議員ジョセフ・マッカーシーやリチャード・ニクソン率いる下院非米活動委員会に協力し、「ハリウッドの赤狩り」(=マッカーシズム)に手を貸した。しかしレーガンは多くの反共主義者と異なり、アメリカ共産党の非合法化には強く反対した。政府と取引が多い電機メーカーのゼネラル・エレクトリックがスポンサーとなったテレビ番組「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の司会を務めるきっかけとなったのは、反共産主義のスピーチをラジオ放送上で行ったからであると言われる。その後行われた1964年の大統領選挙では、レーガンは小さな政府を唱えるアリゾナ州選出の上院議員バリー・ゴールドウォーターの熱烈な支持者だった。その後レーガンはゼネラル・エレクトリックがタービンを納めているテネシー川流域開発公社に反対して「ジェネラル・エレクトリック・シアター」のパーソナリティーから降板させられた。その後レーガンはカリフォルニア州知事に出馬し当選し、1967年1月に第33代カリフォルニア州知事に就任した。レーガンの自由主義者としての顔は、カリフォルニア州知事時代に行った政策にも如実に現れている。例えば、州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険かわかって乗っているはずだ。ならば、ヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要はない」というものだった(カリフォルニア州では1992年にヘルメット着用が義務化された)。また当時激戦を極めていたベトナム戦争に関して「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」と発言して批判を浴びたこともある。レーガンはベトナム戦争終結後の1975年1月までカリフォルニア州知事を務めた。レーガンは1968年に大統領選に初出馬したが、同じくカリフォルニア州を地元とするニクソン元副大統領相手に予備選の段階で票が伸びず敗退した。その後の1972年の大統領選では、同じくニクソンが勢いを保ったこともあり出馬しなかった。1976年の大統領選にも再出馬した。この時は現職のフォード大統領に肉薄する勢いで善戦したが、夏の全国共和党大会における代議員投票で、フォード1187票に対し、レーガン1070票で惜敗した。しかし満を持して臨んだ続く1980年の大統領選では難なく党大統領候補指名を獲得した。選挙活動は、民主党選出で現職の大統領でもあるジミー・カーター政権下で起きたものの、人質解放に向けた軍事作戦が無残な失敗に終わったのちに、有効な打開策が無いまま1年近く解決されないままであったイランアメリカ大使館人質事件への対応で特徴づけられた。さらに経済的な不況から現職のカーターが苦戦を強いられた。また、大統領選の公開討論ではカーターがアンダーソンとの公開討論を拒否、カーターとレーガン、レーガンとアンダーソンの間でのみ公開討論会が行われた。カーターに批判が集まり支持率が落ち続ける中で有利に選挙戦を進めるレーガンに対し、海外の反米そして反共和党的なマスコミは、「選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営がイラン政府と秘密の取り引きを結んだ」と根拠のない非難をした。最終的にレーガンは、選挙人投票では489対49と大差をつけた上に、一般投票でもカーターに約10%の差(50.7%対41.0%)をつけて当選した。その後ほとんどのアナリストは、カーターのイラン大使館人質事件解決に対する無力さと優柔不断さが、カーターの敗北およびレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた。このとき、民主党員までもが、現職のカーター大統領を見限り、大勢がレーガンに投票している。彼らは、「レーガン・デモクラット」と呼ばれるようになる。また、俳優時代に培われた演技力、演出力もレーガンの有力な武器の一つだった。1981年1月21日に大統領に就任したレーガンは、1984年の再選をかけた大統領選挙でも民主党候補のモンデール前副大統領に空前の地滑り的大勝を果たした。なお就任当日に、イランのアメリカ大使館人質事件において人質となっていた大使館員らが、444日間ぶりに解放された。1989年まで在任、アイゼンハウアー(在任 1953年–1961年)以来久々に2期8年の任期を満了した大統領となった。レーガン政権の船出は、イランのアメリカ大使館人質事件の人質解放に続いて、暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものだった。大統領就任から69日後の1981年3月30日、講演先のワシントンD.C.のヒルトンホテルを裏口から退出した際に、レーガンはジョン・ヒンクリーから狙撃された。3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいた大統領報道官のジェイムズ・ブレイディ、シークレットサービスのティモシー・マッカーシー、ワシントン市警警官のトーマス・デラハンティーの三人が被弾してその場に倒れた。レーガンはシークレットサービスのジェリー・パーによって大統領専用車に押し込まれたが、そのとき胸に痛みが走った。しかし出血が認められなかったので、車に押し込まれたときの勢いでどこか痛めたのだろうと思ったという。ところがパーとの会話中に不意に咳き込み、泡立った鮮血を吐いた。これを見たパーは、大統領は被弾しており、しかも銃弾は肺に穴を開けていると判断し、運転手に最寄りの病院へ急行するよう指示した。実際に弾丸は大統領の心臓をかすめて肺の奥深くで止まり、かなりの内出血を起していた。救急病棟に到着したころには呼吸も困難な状態で、歩いて病院に入ったレーガンは直後に倒れ込んでしまうほどだった。それでもレーガンの意識はしっかりしており、周囲の心配をよそに弾丸摘出の緊急手術の前には医師たちに向かって「あなた方がみな共和党員だといいんだがねえ」と軽口を叩いた。執刀外科医は民主党員だったが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と返答してレーガンを喜ばせている。手術は全身麻酔を必要とする大掛りなものとなった。(ただし手術に際し大統領権限の一時的移譲手続きは行われなかった。事態はそれほど緊急を要していた。権限委譲については「健康」の節を参照)。レーガンは70歳の高齢者としては驚異的なスピードで回復し、事件から約10日後の4月11日に退院。在職中に銃撃されながら死を免れた最初の大統領となった。レーガンは入院中にも妻のナンシーに「避けるのを忘れてたよ (Honey, I forgot to duck.)」とジョークを言うなど陽気な一面を見せ続けた。このセリフは1926年、ボクシングヘビー級のタイトル戦でチャンピオンのジャック・デンプシーが挑戦者ジーン・タニーに不意の敗北を喫したときに妻に向かって言った有名な「言い訳」を引用したもの。公務復帰後も、演説中に会場の飾りつけ風船が破裂し、場内が一時騒然となった際に「奴は、またしくじった」と述べ、会場を爆笑と大拍手に包んだ。大統領選挙戦の頃から見せていたレーガンのこうした機智や茶目っ気は全米を魅了して、史上最大の地滑り的勝利をレーガンにもたらすことに貢献したが、これはこの後8年間の政権を通じて変わることがなかった。政策の失敗やスキャンダルなどでいくらホワイトハウスが叩かれても、レーガンの比較的高い支持率は決して急落することがなかったのも、こうしたレーガンの「憎めない人柄」に拠るところがきわめて大きかった。なおこの事件を受けて制定されたのが、民間人の銃器購入に際し、購入者の適性を確認する「ブレイディ法」(重傷を負った報道官に由来)である。この法律は2005年に全米ライフル協会などの抵抗により効力延長手続きがされず失効している。レーガンは大統領就任後、それまでの需要中心の政策ではなく、供給力強化を目的としたレーガノミクス(レーガノミックスとも)と呼ばれる一連の経済政策を発表した。具体的には政府支出の拡大のほか、減税による供給の刺激、インフレーションの抑制を掲げた政策であった。レーガンの「麻薬との戦争 (War on Drugs)」政策は、麻薬犯罪者の投獄を推し進めた。人種差別問題の解消に対しては積極的な態度を取り続け、1988年には戦後長らく懸案の課題だった第2次世界大戦中の日系人の強制収容に対して謝罪と1人当たり20,000ドルの損害賠償を行っている。また、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の誕生日が国の祝日となったのもレーガン政権においてである(1983年)。1981年に症例報告された後天性免疫不全症候群 (AIDS) に関して、この新しい感染病の「大流行」が多くの医療専門家から警告されていたにも関わらず有効な対策を打たなかったため「封じ込め」に失敗した。その結果わずか10年程度で爆発的に感染者が増加し大きな社会問題となった。1981年8月5日に、レーガンは、職場復帰命令を無視した1万1359人の航空管制官を解雇した。皮肉にもPATCO(航空管制官組合)は9ヵ月前に選挙でレーガンを支持した少数の組合のうちの1つだった。止むことない軍備増強を続けた結果、ソ連の軍事力は1980年代初頭までにアメリカのそれを凌駕するまでに巨大化していた。それまでアメリカの軍備は、数の上ではソ連に及ばないものの、技術面ではソ連を寄せ付けない先端技術を保持し続けており、これがソ連に対する「質の脅威」であり得たが、1980年代におけるソ連の科学技術の進歩はこの両者の開きをかつてないほど狭いものにしていた。その槍玉にあげられたのが、デタントだった。レーガン政権は、米ソ両超大国の力の均衡を維持することに役立っただけで、冷戦そのものの解決にはまったくならなかったばかりか、いたずらにこれを長期化させる原因になっていたデタントを否定し、ソ連を「悪の帝国」と名指しで非難。替わりに「力による平和」と呼ばれる一連の外交戦略でソ連と真っ向から対抗する道を選んだ。その概要は、というシナリオだった。果たしてその読み通り、早くも1980年代中頃になるとソ連の財政赤字は肥大化し、財政は危機的状況に陥った。また1985年にゴルバチョフが書記長に就任すると、「グラスノスチ」によりソ連の危機的状況が西側にも明らかとなり、アメリカはソ連から核兵力・通常兵力・対東欧諸国政策のすべてにおいて大幅な譲歩を引き出すことに成功した。西側諸国の一員である日本も防衛費1%枠を1987年より廃止し防衛費を一時的に増額し冷戦の終結に協力している。こうしたソ連の態度軟化を変化の兆しと見たレーガンは、自らも強硬な外交路線を修正、ゴルバチョフに対してはこれまでの改革を評価するとともに、より一層の改革を行うことを促した。レーガンはゴルバチョフと、ジュネーヴ(1985年11月)、レイキャビク(1986年10月)、ワシントンD.C.(1987年12月)、モスクワ(1988年6月)と四度にわたって首脳会談を行っている。主な議題はいずれも軍縮と東欧問題だったが、一回目は米ソ首脳が6年半ぶりに会談すること自体に意義があり、二回目は物別れに終わったもののゴルバチョフが交渉に値する人物だという確証を得ることができた。そもそもレーガンは三回目のワシントン会談でゴルバチョフを訪米させることにかけていた。終わりの見えない不況と、あってなきが如き社会保障制度に喘ぐソ連の国民が、好景気に沸くアメリカ社会の実態を間近に垣間見る機会があれば、彼らが現在の体制に疑問を抱き、やがて不満が爆発するであろうことは十分に予見できた。そして、この自国民による「内圧」がアメリカによる「外圧」よりもはるかに強い力となって、実際にゴルバチョフ政権とソビエト共産党を根底から揺さぶり始めるのに、そう時間はかからなかった。翌年モスクワを訪問したレーガンを、ソ連のメディアはまるでハリウッドスターのような扱いで好意的に迎えた。あるジャーナリストから、まだソビエトのことを「悪の帝国」と考えているかと質問されたレーガンは、はっきり「いいえ」と答え、「あれは別の時、別の時代のことを指した言葉です(“I was talking about another time, another era.”)」とつけ加えることを忘れなかった。そんなレーガンに、ゴルバチョフはモスクワ大学で自由貿易市場についての特別講義をすることまで依頼している。後に回想録『An American Life』の中で、レーガンは当時ソ連が取りつつあった新しい方向を楽観的に見ていたこと、腹を割った会話ができるまで気心知れる盟友にまでなったゴルバチョフに対しては極めて親密な感情を抱いていたこと、そして大規模な改革を急速に断行するゴルバチョフ政権の帰趨や本人の生命を真剣に心配していたことなどを記している。また当時、2人の親密な関係を指して「Rega-Chev(レガーチェブ)」と読んだ新聞さえ出現した。また、冗談交じりに宇宙人の襲来を仮定した米ソの冷戦終結と協調の可能性をゴルバチョフと語ることもあり、この比喩は1987年の軍縮のための国連演説でも用いられた。こうして一度動き始めた改革の流れは止まることを知らず、日を追って、しかも誰もが予想し得なかった速度で、その勢いを増していった。「レーガン・ドクトリン」によって地道に支援されてきた東欧の反共産主義運動は、モスクワの屋台骨が揺らぎ始めると、1989年8月、ハンガリー政府当局が約1000人の東ドイツ国民を自国経由でオーストリアに脱出する手助けをするという「ピクニック事件」が起きたのを皮切りに、11月にはドイツでベルリンの壁が崩壊し、チェコスロバキアではビロード革命が共産党による一党独裁を廃止、12月にはブルガリアの共産党政権が崩壊し、ルーマニアではチャウシェスク独裁政権を血祭りにあげるなど、東欧諸国は雪崩を打って民主化を果たし、ここに冷戦は事実上終結した。ソビエト連邦が解体されたのは、それから2年後のことだった。1980年に国際連合で採択された特定通常兵器使用禁止制限条約には1982年に署名した。中南米の社会主義政権に対して寛容な態度を取った前カーター政権とは対照的に、「レーガン・ドクトリン」によってアメリカは徐々に、ラテン・アメリカの社会主義政権や反体制ゲリラに対して、タカ派的外交姿勢をとりはじめる。このようにして敵視された政権にはサンディニスタ民族解放戦線などの決してソ連やキューバのような共産主義を掲げるわけではない政権も多かったが、そのような事情は全て無視され、「反共」の理念の下に叩き潰された。しかし、このことは1960年代から繰り返し批判されてきたアメリカの「ダブルスタンダード」(相手が親米反共であるか否かにより外交で正反対の態度を取ったこと)がまた浮き彫りにされることを意味していた。「エルサルバドル死守」を中米外交の基本政策に掲げ、中米紛争ではニカラグアのコントラやエルサルバドル軍、グアテマラ軍、及び極右民兵組織を支援し、CIAを使って各国軍の死の部隊による「汚い戦争」を支え、結果的にニカラグア内戦、エルサルバドル内戦、グアテマラ内戦を激化させて当該地域で何十万人という犠牲者と、何百万人もの亡命者を出す要因を作った。このような態度から、「レーガンは公然と反共ゲリラ戦争を支援している」と非難するものもいた。ニカラグアの指導者ダニエル・オルテガは、激しさを増す第二次ニカラグア内戦の最中にこう語っている。その一方で1982年に中米問題や国内の左翼ゲリラへの弾圧などで技術協力していたアルゼンチンの親米軍事政権がフォークランド紛争を引き起こした時はイギリスに全面的に協力し、さらに1983年にレーガンは、カリブ海の小さな島国グレナダで社会主義政権内でのクーデターが起きた後、公式に軍隊の侵攻を命令した(グレナダ侵攻)。このグレナダ侵攻作戦は実は就任当初から周到に準備されており、就任当初からグレナダのニュー・ジュエル運動による人民革命政府を崩壊させようとプエルトリコのビエケス島で軍事演習を繰り返していた。レーガンはグレナダのみならず、「西半球の癌」と呼んでいた容共的なニカラグアのサンディニスタ政権に対して、駐ホンジュラスアメリカ陸軍を増強し、ニカラグア直接介入(侵攻)をも狙っていたようだが、1984年のレバノン介入の失敗によってニカラグア侵攻は不可能になった。またレーガンは、1973年にアメリカが支援したチリ・クーデターによって大統領になり、以降軍事独裁政権を保っていたチリのアウグスト・ピノチェト将軍を「友人の中の友人」と呼び、カーター政権時代に人権問題のためになされていた対チリ経済制裁を解除し、ピノチェト政権の延命を支えた。こうした態度を信頼できなくなったラテン・アメリカ諸国はコンタドーラ・グループを結成して独自に中米紛争の解決に取り掛かることになった。この紛争の最中にアメリカ合衆国に抵抗してコントラの一派ARDEの基地を撤去し、特に問題解決に尽力したコスタリカのオスカル・アリアス・サンチェス大統領にはノーベル平和賞が授与された。その任期の終盤には、自由選挙を実施している国に経済援助を与えるなど、冷戦の終結により共産主義の浸透の心配がなくなったラテン・アメリカ諸国の民主主義への移行を支援しはじめたが、それでもレーガンの任期中にチリやエル・サルバドルやグアテマラでは、アメリカ合衆国に支援された「反共」を掲げる軍事独裁政権による暴力が止むことはなかった。その様な中で、イラン・コントラ事件として知られるイランとニカラグアのサンディニスタ政権に対する秘密軍事支援のスキャンダルおよび調査があった。国家安全保障担当補佐官ジョン・ポインデクスターおよび国家安全保障会議軍政部次長オリバー・ノース中佐が、イラン政府に武器を売却し、その代金を第二次ニカラグア内戦を戦っていた、アメリカが組織した旧ソモサ王朝派の反共産主義傭兵軍コントラに対する支援に流用するための精巧な計画を企てた。この二つの行為は明らかに法律に反しており、レーガンは計画を知らなかったことを公言したが、武器の売却が、レバノンでイランが支持するテロリスト・グループ、ヒズボラによって人質にとられているアメリカ人の釈放を安全に行うことを支援することになっていたという理由で、イランへの武器の売却を支援したと認めた。大統領が武器販売を関知せず、自らのスタッフに対するコントロールが不十分だった点でのみスキャンダルに対して罪があったとされた。このスキャンダルはレーガンの在任中最大級のものだったが、その政治生命に対するダメージは少ないものに留まった。下院議員のパトリシア・シュローダーは、このスキャンダルでレーガンの評判が傷つかなかったことを揶揄し、レーガンのことを傷のつきにくい鍋に例えて「テフロン大統領」と呼んだ。1982年より、レバノン内戦に対して、平和維持軍としてアメリカ海兵隊をレバノンに派遣した。海兵隊は、何度か攻撃を受け、1983年10月23日には、兵舎がイスラム民兵による自爆トラック攻撃を受け、241人の海兵隊員が死亡した。そのため、3ヶ月後にレーガンはレバノンから海兵隊を撤退させた。レーガンは各国の首脳と軒並み友好関係を持ったが、なかでも西側諸国の保守派の指導者とは親密な関係を保った。イギリスのマーガレット・サッチャー、カナダのブライアン・マルルーニー、イタリアのアミントレ・ファンファーニ、日本の中曾根康弘などとは特に「仲良し」なことを公言してはばからず、大統領の「公式プライベート空間」であるキャンプ・デービッドや、レーガン個人がカリフォルニア州に所有する牧場に彼らを招いてもてなしたりもした。こうしたファーストネームで呼び合う文化がない同盟国の首脳までとも、親密さを演出するためにお互いにファーストネームの短縮型で呼び合うことを提案して外交プロトコルに革命をもたらしたのも、気さくなレーガンならではのことだった。レーガンと中曾根もお互いに「ロン」「ヤス」と呼び合い、これが先例となって今日まで日米首脳の多くはこの「ファーストネーム ベース」で呼び合うことを踏襲している。日本は世界有数の経済大国かつ先進国の1つであると同時に、当時のアジアにおいて唯一安定した民主主義政治が確立された国家でもあった。そして冷戦下で自由主義陣営と社会主義陣営の二極化が進むと、アジア太平洋地域において、超大国ソ連を太平洋側から抑える位置にある日本の戦略的な重要性はますます高まった。日本との貿易摩擦に対しては、アメリカ国内の保守派や大企業、組合などからのプレッシャーを受けて一貫して強硬な姿勢をとり続けたが、冷戦に正面から対峙し続けたレーガン政権が日本をアメリカの安全保障上欠かすことのできない「パートナー」として重視したのも当然の成り行きだった。レーガンの軍拡路線は、日米関係にも影響を与えた。1983年9月に発生した大韓航空機撃墜事件やレフチェンコ事件など、冷戦下の北東アジアで発生した事件では日本と共同歩調を取ったほか、極東アジアにおける軍事的なプレゼンスを高めるため、青森県の三沢基地に当時最新鋭の戦闘機であったF-16飛行隊を配備するなど、日本を含む極東アジアに陸・海・空・海兵隊合わせて14万人の兵力を展開した。特に同年代でお互い保守派として知られた中曾根首相との間では、中曽根を「ヤス」と呼び、レーガンを「ロン」と愛称で呼ぶ仲となり、この呼び方は当時「ロン・ヤス」とあだ名されてお互い交流を結んだ。そうした背景から、レーガンは1983年11月9〜12日、1986年5月4〜、1989年5月2〜7日と、現職のアメリカ大統領としては最多の三度にわたり日本を公式訪問している。最初の訪日では昭和天皇や中曾根総理と会談したほか、キャンプ・デービッドへ招待された答礼として中曾根が、11月11日に東京都西多摩郡日の出町の別荘「日の出山荘」に招き、蔦子夫人手作りの昼食を共にしたことが大きな話題となった。2004年のレーガン国葬にも当時86歳の中曾根はたっての願いで参列して故人を惜しんでいる。日の出山荘を訪れる前日には、明治神宮で流鏑馬を見学し、その際「自分もやりたい」と言って周囲を困らせていた。国会で、これからの世界平和、日米協力の必要性を説いた時、俳句を引用した「草いろいろおのおの花の手柄かな」これは与野党を問わず大喝采を受けた。レーガンは大統領就任後間もなく、1981年2月に大韓民国の全斗煥大統領を最初の国賓としてホワイトハウスに招待し、レーガン同様に反共主義を標榜する全との良好な関係をアピールすることで、反共軍事同盟を重視すると意思表示を行うことで、ソ連と北朝鮮に対してプレッシャーを与えた。一方、レーガン陣営は政権移行期から軍事独裁政権であった韓国政府に対して慎重に働きかけを行い、死刑宣告を受けていた反政府運動(全斗煥は軍事クーデターにより政権を獲得し、反対派に対し武力による弾圧を行っていた)の指導者・金大中を釈放するよう促しており、村田晃嗣はこれを、レーガンの前任者ジミー・カーターが標榜した人権外交になぞらえ、「レーガン流の静かな人権外交」と評している。1985年夏、レーガンの大腸にできていたポリープが生体組織検査の結果悪性であることが判明すると、レーガンは直ちにポリープ切除手術を受けることになった。手術は全身麻酔を必要とするという医師団の診断を受けて、大統領府では1947年の大統領継承法と1967年の合衆国憲法修正第25条の規定に依り、大統領権限の一時的移譲を初めて行うこと決定した。手術は7月13日の朝方から始まり、ブッシュ副大統領がこの間約8時間にわたって大統領権限を代行している。1987年1月5日には前立腺癌の摘出手術も受けているが、この際は局所麻酔で済ませることができたため権限移譲は行われなかった。しかし当時レーガンは76歳に迫る高齢で、「任期をあと2年も残して果たしてこの先大丈夫なのか」という懸念が全米に広がった。その後は、耳が遠くなる、受け答えが鈍くなるなど、老化に特有の現象に見舞われることにはなった。レーガンは以前から難聴ぎみで、就任の翌年には早くも現職大統領として初めて補聴器を着用しはじめていたが、2期目に入った頃からその度合いが進行し、公の席でも傍らにいたナンシー夫人がことあるごとに耳打ちをするようにまでになっていた。この光景をアメリカのメディアは「ファーストレディーの政治へ容喙」などとして取りあげたことから、ナンシー夫人は「ナンシー・レーガン大統領」などといった陰口を後々まで叩かれることになった。しかし、レーガンの健康状態そのものは至って良好だった。1989年1月20日に77歳11ヵ月という大統領としては史上最高齢でホワイトハウスを後にしたときには、多くのメディアが「これなら3期目でもいけたかもしれない」などという賛辞を贈るほどだった。1989年、レーガンは高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にした。2期8年の任期を全うしたのはドワイト・D・アイゼンハワー大統領以来である。同年来日して東京ドームでの1989年の日本シリーズ第3戦で始球式。なお、レーガンは冷戦終息に対する貢献により、イギリスのエリザベス2世女王から大英帝国勲章GBEを受けナイトの称号を許されたが、「合衆国市民は外国から栄典を受けることはあっても名乗らない」の慣例に従い、その名前に「GBE」を冠することは一度もなかった。レーガンはホワイトハウスを去ってから4年後の1992年、アルツハイマー病と診断された。病は年を追う毎に進行し、彼は人前に出ず、静かでプライベートな環境で余生を送らざるを得なくなった。妻は自宅にホワイトハウスの執務室を再現し、レーガンはそこで新聞を読むなどの「執務」を毎日数時間行うことによって症状の進行を食い止めたという。1994年11月5日、彼は国民にあてた手紙という形で、アルツハイマー病の病状を公表した。レーガンの最後のメッセージとなった、『(私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます)』という言葉は、多くの人々に深い感銘を与えた。2001年に南カリフォルニアの自宅で転倒した際に腰を骨折してほとんど寝たきりとなってからは、彼の健康状態はさらに不安定になった。レーガンがアルツハイマー病を実際に発病した時期については諸説あり、在任中には既に患っていたとする説もある。次男のロンは2011年出版の回顧録の中で、1987年のウォルター・モンデール前副大統領との討論会において父ロナルドの異変に気がついたと指摘している。一方で大統領在任中の主治医や側近、またロナルド・レーガン大統領財団は在任中には病気の兆候はなかったとしている。1998年2月6日に、ワシントンD.C.のナショナル空港が、「ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港」と改名された。さらに、ニミッツ級航空母艦の9番艦は2001年3月4日に「ロナルド・レーガン(USS Ronald Reagan, CVN-76)」と命名された。2003年7月12日の就役式典には、闘病中のレーガン本人に代わり、ナンシー夫人が出席した。2004年6月5日の午後1時9分に、かねてから自宅で療養中であったレーガンはロサンゼルス近郊の高級住宅街、ベル・エアーの自宅で肺炎のため死去した。レーガンは妻ナンシーおよび子供マイケル、パティ・デイビスおよびロンに支えられ闘病生活を続けたが、家族にベッドを囲まれて生涯を終えた。93歳と120日。死去時、歴代アメリカ大統領のなかで最長寿だったが、2016年2月現在では2006年12月26日に93歳165日で死去したジェラルド・フォード元大統領につぐ歴代2番目の長寿である。レーガンの葬儀は、リンドン・ジョンソン元大統領以来の国葬として、2004年6月11日に行われた。ナショナル大聖堂で行われた国葬ではジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領、マーガレット・サッチャー元イギリス首相、ブライアン・マルルーニー元カナダ首相らが弔辞を述べた。また、レーガンと親交の深かった中曽根康弘元日本首相やミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領ら、大統領時代に交流のあった現在及び過去の政府トップ多数が世界中から参列し、その光景は各国のテレビや新聞などのマスコミを通じ、全世界で報道された。葬儀当日の夕方、日没の時刻に地元カリフォルニア州シミバレーにあるロナルド・レーガン大統領図書館の敷地内にある墓所に遺体が安置された。「Reagan」の英語本来の発音は「リーガン」が近い。レーガン本人もハリウッド俳優時代から1980年の大統領予備選のあたりまでは「ロナルド・リーガン」と名乗っていた。しかし共和党から党大統領候補の指名を受けたのを期に、彼は自分のルーツがアイルランド系であり、アイルランド語では語頭の「Rea」を「リー」ではなく「レイ[rei]」と発音することから、これを機に以後は「ロナルド・レイガン」と名乗ることにすると発表した。選挙中にこのような発表をする大統領候補はかつてなかったため、この件は意外性をもって報じられた。ただ、多民族国家であるアメリカでは、民族の伝統の継承や自己の歴史に対する誇りに重きを置く。アイルランド系アメリカ人は欧州から合衆国へ組織的に移民した古参格で、強い民族意識と横の連帯を武器にアメリカ社会で確固たる地位を築いてきた。その後の欧州からの移民の中には、新天地での暮らしが少しでも容易になるよう、自らの姓を英語風に改める者もいた中で、誇り高いアイルランド系のアメリカ人にはルーツを貫く者が多かった。このような要因から、このレーガンの姿勢は彼に対する好感度の上昇につながった。もう一つの理由が、レーガン陣営で財政問題の顧問をしていた元メリルリンチ会長のドナルド・リーガン()の存在であった。リーガンはレーガンの側近ともいえる人物で、レーガンが当選すればリーガンが財務長官に指名されるのは確実と見られていた。姓の発音が同じで、しかも名の方も頭の一文字が違うだけで、しかもアメリカ英語でRonaldとDonaldは、早口で言うとアメリカ人でも時々聞き違える名である。この二つの名前はいかにも紛らわしいため、アメリカの報道も渡りに船とばかりに、こぞってレーガン候補の表明に同調する形で発音を変更し、Reganは従来通りの発音に据え置くことにした。これを受けて、日本のメディア報道においても表記がそれまでの「リーガン」から「レーガン」に変更されたが、一部では大統領選を経て就任式を過ぎてからもしばらく両表記が混在していたため、春頃になるとアメリカ大使館は日本の報道機関に対して、適切な表記に変更するよう要望する書簡を送付した。外国大使館からのこのような要望は前代未聞であったこともあり、この件は日本でも話題性のあるニュースとなった。レーガンのお気に入りの映画は1985年公開の映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、ホワイトハウス内の専用上映室で何度も見たという。この映画には、タイムマシンで30年前の1955年にタイムスリップした主人公マーティが、そこでこのタイムマシンを作った科学者、若かりし頃のドク・ブラウンと対面、自分が未来から来たことを告げる。そんなことは全く信じないドクが「そうか、じゃあ1985年には誰が大統領になってるんだ?」と聞くと、マーティは「ロナルド・レーガンだ」と答えるが、ドクは(出まかせを言っているものだと判断し、)呆れて「ロナルド・レーガン? 役者のか? なら副大統領は誰だ?(コメディアンの)ジェリー・ルイスか?」とこれを笑うシーンがある(その場面の少し前に、出演者としてレーガンの名前がある映画ポスターが映り込むという伏線がある)。1986年2月4日の一般教書演説で、レーガンは逆にこの映画から別のセリフを引用、「映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でも言っていたように、我々の行き先には道が敷かれている必要はないのです()」という一節を挿入して、アメリカ合衆国議会の喝采を浴びている。なお、他にも『レッズ』などがお気に入りで、ホワイトハウス内の上映室で鑑賞していた。レーガンの茶目っ気と洗練されたジョークは、アメリカ合衆国を魅了したが、軽口が災いして、ひとつ間違えば外交問題に発展するか、下手をすれば、全面核戦争や第三次世界大戦にもなりかねないような状況を作ってしまったこともあった。1984年8月8日、定例ラジオ演説の本番前のマイクロフォンテストで、常套句 を言うかわりに、「国民の皆さま、喜ばしいご報告があります。私はただいまソビエト社会主義共和国連邦を永遠に葬り去る法案に署名しました。爆撃は5分後に始まります()」と言った。このメッセージはその時点で放送されなかったが、その後リークされて物議を醸した。ソ連のタス通信は「アメリカ大統領の比類なき敵対行動に抗議する」「多くの人の運命を預かる核保有国のトップとして適切な発言ではない」と抗議した。2011年6月29日、東欧民主化に果たしたレーガンの功績を称え、生誕100年に合わせて、ハンガリーのブダペストでレーガン像の除幕が行われた。除幕式には前米国務長官のライスとハンガリー首相のオルバーン・ヴィクトルらが出席した。レーガン像は高さ2.2メートル。旧ソ連記念碑(旧ソ連が1945年の「ハンガリー解放」を誇示するために建立した記念碑)のそばにある。2011年7月4日、レーガンの生誕100年を記念して、イギリスのロンドンでレーガン像の除幕が行われた。除幕式にはイギリスの外相のウィリアム・ヘイグ、前米国務長官のライスらが出席。サッチャー元英首相の祝辞が読み上げられた。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。