菊池千本槍(きくちせんぼんやり)は、太刀洗と共に、九州の豪族、菊池氏の勇猛さ、及び武士の精神を表す言葉である。また、菊池氏が考案したとされる槍の様式を指す言葉としても用いられ、こちらを指す場合には「菊池槍(きくちやり)」とも呼称される。長い柄の先に主に突くことを目的とした刃を装着した武具、現在では「槍」に分類される武器そのものは古来より日本に存在していた(「矛」(「鉾」とも)と呼ばれた)が、平安時代以降、日本の戦争における戦法は馬上からの弓矢や、薙刀、野太刀によるものが主流であり、戦闘自体も騎馬に乗った武士とその徒となる者が組となった少人数同士で行われるもので、多人数の集団による戦闘は一般的ではなかった。そのため、武具も個人が単独で用いるものが主流であり、槍のような集団で用いるものはそれほど普及はしていなかった。南北朝時代、箱根・竹ノ下の戦いにおいて劣勢となった南朝方の菊池氏が竹竿の先に短刀を縛り付けた即席の槍を用いて逆撃に転じ、相手方の足利勢を敗走させた。この戦いから「菊池千本槍」の逸話が生まれ、菊池氏の名を大いに高めたと共に、“劣勢の側が創意工夫を以って多勢を征する”事の例として、武家の精神的支柱の一つとされた。従来の弓や薙刀と違い、集団で用いることでより戦闘力を発揮するこの槍の登場は、その後の日本の戦法に大きな影響を与えた。以後、菊池氏を中心に主に九州でこの様式の槍が多く作られ、「菊池槍」の名で用いられたが、より槍として洗練された形状のものが普及すると槍の様式としては廃れ、多くは短刀に仕立て直されて再び短刀として用いられた。鎌倉幕府の滅亡と建武の新政の崩壊の結果、北朝方と南朝方に分かれての戦乱が激化すると、南朝方であった菊池氏は新田義貞の指揮下に入り、各所で足利勢と戦った。建武2年(1335年)11月、箱根・竹ノ下の戦いにおいて、足利尊氏の弟として知られる足利直義の率いる兵3,000名と戦った菊池勢1,000名は足利勢に圧され、弓、薙刀の大半を失い敗走寸前の状況に陥った。この際、菊池勢を率いる菊池武重が、竹藪から各自、手頃な竹を6~7尺(約180~210cm)から2間(約364cm)ほどに切らせ、それに各自が腰に差している短刀を結わえて作らせた即席の槍を発案した。これを用いて菊池勢は反撃に討って出、これまで見た事のない武器を用いた相手に足利勢は大いに苦戦する。結果、窮地に陥っていた菊池勢は1,000名の兵で3,000名を敗走させた。その後、武重は大和国より肥後国菊池に移住した刀鍛冶・延寿国村(えんじゅくにむら)に、この武器を元にした槍を改めて作らせた。これが肥後延寿派の刀工の起源とされる。上記の史実を元に、南朝方の武士が用いて戦功を挙げた、というところにあやかり、幕末において肥後藩の藩士を始めとした勤皇派の維新志士の間では、菊池槍を短刀に拵え直したものを帯刀することが流行した。また、明治時代以降、海軍士官の将校用短剣の刀身に菊池槍直しの短刀を用いることが流行した。精神的・歴史的な意味もあるが、菊池槍が比較的細身で海軍士官短剣の外装の形状に合致したのも理由の一つである。その中でも特に知られるのが、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の松尾敬宇海軍大尉の逸話であり、同大尉は先祖伝来の菊池槍を携行して攻撃に臨んだ。この松尾大尉の逸話は昭和の戦時中末期の戦意高揚映画、『菊池千本槍シドニー特別特攻隊』(昭和19年(1944年)、大映、菊池寛監督)に流用された。この逸話について菊池寛はこう語っている。箱根・竹の下の戦いにおいて作られたもの、とされているものが後世に伝えられており、後に熊本県の菊池神社が建立された際に奉納され、現在では菊池神社の付属施設である「菊池神社歴史館」に収蔵されている。杖その他に刀剣類を内蔵させた、仕込み刀と呼ばれる一連の武器の中に「仕込み打刀(しこみ-うちがたな)」(もしくは「仕込み槍(しこみ-やり)」)と呼ばれるものがあり、これは外観は通常の日本刀のようでありながら、柄の側に短刀の刀身が仕込んである(“柄”は実は「鞘」であり、“鞘”の方が使用時の「柄」になる)という隠し武器の一つである。菊池槍様式の槍の穂先の中にはこれらに用いられていたものもあり、文献等ではこの“刀の柄部分に短刀を仕込んだ隠し武器”を「菊池槍」の名称で紹介していることがあるが、上記のように菊池槍とは槍のうち、ある一つのものの伝来と種類を指す名称であり、仕込み打刀(仕込み槍)のみを指して“菊池槍”と呼称することは誤りである。
出典:wikipedia
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