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立花道雪

立花 道雪 / 戸次 鑑連(たちばな どうせつ/べっき あきつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後の戦国大名・大友氏の家臣。臼杵鑑速や吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた。大友義鑑・大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。永正10年(1513年)3月17日、大友家の一族である豊後の国大野郡(大野荘)大野郷藤北(大分県豊後大野市大野町))鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれる。最近、生誕地は、県民の森四辻峠付近の柳ヶ台(大野町高野字城浦)と解明された。幼名は八幡丸(はちまんまる)。長兄は早世したため嫡男として育てられる。幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。元服前の14歳の時、病弱な父に「我が父上の名代として出陣致す」と自ら志願し、武功の老臣3人の補佐を付けて、2000人の兵を授けられて初陣した。この時は大内領の豊前馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市)を攻め、道雪は金の指揮旗を振って奮戦し、兵力で3000ほど勝る大内軍に勝利して凱旋した。その直後の大永6年(1526年)、父・親家の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続し、親守(ちかもり)、親廉(ちかかど)を名乗った。家督相続後は大友義鑑に仕え、のちにその偏諱を賜って鑑連に改名する。その後、天文4年(1535年)8月22日、肥後菊池氏などの肥後国人の反叛の際には、肥後に出陣して車返の戦いで勇猛奮戦し、乱を鎮圧した。天文15年(1546年)秋月文種の一度目謀反の時には、大友義鑑の命令を受け、佐伯惟教、臼杵鑑速、吉弘鑑理など大友諸将と共に筑前古処山城へ出陣、この乱も鎮圧した。『大友興廃記』によると、道雪は若い頃(35歳)に半身不随になったとされる。時期に関してはおよそ天文16年(1547年)6月5日、道雪が故郷の藤北で炎天下の日、大木の下で涼んで昼寝をしていたが、その時に急な夕立で雷が落ちかかった。枕元に立てかけていた千鳥の太刀を抜き合わせ、雷を斬って涼んでいたところを飛び退いた。これより以降、道雪の左足は不具になったが、勇力に勝っていたので、常の者・達者な人より優れていた(同じ軍神の誉れがある上杉謙信も、幼い時から左足は不具でありながら、壮年期まで騎馬奮戦の例があった。)。さて千鳥の太刀だが、雷に当たった印があった。これより千鳥を雷切と号するようになった、とある。またこの逸話から、「鬼道雪」「雷神」と呼ばれ畏怖されていたともされる。しかし、一級史料の『戸次道雪譲状』によると、永禄5年(1562年)10月13日の対毛利軍の柳浦の戦いに、毛利方三人の大将冷泉元豊、赤川元徳(赤川助右衛門)、桂元親(桂兵部大夫)を自ら討ち取った、『戸次軍談』や『九州諸将軍記』などの史料によると、永禄10年(1567年)8月14日に秋月氏との甘水・長谷山合戦(瓜生野の戦いとも)と休松の戦いでは「自ら太刀を振るい、よき武者7人を斬り倒したや騎馬で敵陣に乗り込んで戦った。」という記録もあり、『浅川聞書』によると永禄11年(1568年)7月4日、立花鑑載討伐で立花山崖下の戦いにも自分で槍を取って家臣と共に奮戦した、『筑前国続風土記』にも永禄12年(1569年)5月18日の多々良浜の戦いに自分で馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける、この年代の資料にも輿に乗っていたという記述は無く、「若い頃に落雷によって下半身不随になった」というのが創作なのか、文献に誇張や創作があるのかななど真偽はわかっていない。こうして障害者となった道雪であるが、晚年の際、家臣に手輿を担がせて自らは輿に座り、2尺7寸(約82センチ)ばかりの刀(雷切とは別の刀・備前清光という刀であった)と鉄砲1挺、それに腕貫をつけた長さ3尺(約1メートル)の手棒を常に側に置いた。手輿の周りには長い刀を持った100人ばかりの定衆と名付けた若者が、徒歩で固めていた。戦いが始まると、その若者に輿を担がせ、敵が間近になると手棒で手輿の縁を叩いて自ら「えいとう、えいとう」と大声で音頭をとり、敵陣に突っ込ませた。元亀元年(1570年)今山合戦に従軍し、佐賀城を包囲する4月23日に局地戦の巨勢・若宮の戦いで龍造寺隆信、鍋島直茂と交戦した際、戦いで初めて輿に乗った記述がある。また、戸次、立花家相関の史料や『筑前国続風土記』によると、天正7年(1579年)8月14日に、筑前大友方木付鑑実の柑子岳城を兵糧救援の帰路の際、原田氏との第三次生松原の戦いには、道雪は正式的に輿に乗って、督戦した。この時はおよそ66歳の老齢であった。そして天正12年(1584年)8月18日に筑後遠征の際、輿に乗ったまま行軍していた記述がある。天文19年(1550年)2月、大友義鑑が嫡男義鎮を廃嫡にし、3男・塩市丸を後継者としようとしたことから、反発した義鎮派の家臣が義鑑を襲撃するという二階崩れの変が発生、数日後に義鑑は変で受けた傷がもとになって死去する。この際、鑑連は義鎮を支持し、彼の家督相続に力を尽くした。また、鑑連は二階崩れの変の直後に阿蘇氏を頼って肥後に逐電した塩市丸派の入田親誠を追討するために、7月に肥後に侵攻している。天文22年(1553年)、41歳となった鑑連は異母弟・鑑方の子・鎮連を養子に迎え、戸次氏の家督を譲って隠居している。しかし、天文23年(1554年)には肥後に侵攻して菊池義武を滅ぼし、相良氏への護送の最中に義武を豊後直入郡で自害させた。このように隠居とは名ばかりであったようである。以後も大友氏の重臣として活躍し、特に筑前侵攻を企図する毛利氏との抗争に力を費やしている。弘治3年(1557年)には毛利元就と通じた秋月文種を自害に追い込み、同年に義鎮の異母弟・大内義長が元就に討たれると、旧大内領の確保にも努めたほか、永禄2年(1559年)8月以降、筑前の豪族宗像氏貞に対して許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城に数度の侵攻や永禄4年(1561年)には豊前に出陣して毛利元就と戦っている(第四次門司城の戦い)、数次の大里・柳浦の戦いや香春岳城攻め、数次の松山城攻めなど。こうした功績から永禄4年(1561年)に義鎮の補佐役である加判衆に任じられている。また、永禄5年(1562年)、義鎮が宗麟として出家したのにならって自身も剃髪し、麟伯軒道雪と号している。道雪を中心とする大友勢と毛利氏との戦いは永禄6年(1563年)、室町幕府第13代将軍・足利義輝の仲介により、一度大友家と毛利家の間で休戦が成立するまで続いており、またこの休戦の際は宗麟に対して7か条に及ぶ断固反対の立場を貫いている。毛利家との戦いは永禄10年(1567年)1月にかつて道雪が討った秋月文種の子種実が毛利氏の援助を得てひそかに筑前に入り、秋月氏再興の兵を起こした。また、この秋月種実の動きに大友氏の重臣・高橋鑑種が6月に入って筑前宝満城、岩屋城に拠って呼応し、更に筑後国衆・筑紫広門も叛旗を翻した。こうした動きに対して7月7日、宗麟は道雪に命じて高橋氏、秋月氏討伐を開始することになる。道雪は出陣すると宝満城を攻略し(宝満城・九嶺の戦い)、臼杵鑑速は岩屋城を攻め落とし、また斎藤鎮実が筑紫広門を降伏させるなど有利に戦いを進めた。しかし、8月に入って高橋氏の宝満城に抑えの兵を残し、秋月氏討伐を企図したものの、秋月勢の頑強な抵抗を受け、8月14日の甘水・長谷山の戦い(瓜生野の戦いとも)で自ら陣頭に立って戦ったほか、毛利軍が九州筑前に上陸し風聞で、大友軍は筑後に退陣して待機する際、9月3日の朝から4日未明に発生した休松の戦いでは、種実が先に道雪の陣を強襲したが道雪は既に察知し兵を吉光の地に待伏して嘘旗を立て種実を撃退、そして種実の夜襲を予見し、兵の鎧をも脱がず、馬鞍をもおろさず、鉄砲に切火繩して待った。間もなく種実は道雪の予見通リ、再び大友軍の臼杵鑑速と吉弘鑑理を夜襲して同士討ちを発生させた、道雪は冷静にこれに対処し、敗北の臼杵・吉弘軍を収容した後に、撤退を指揮したが、叔父戸次親久、異母弟の戸次鑑方や従兄弟の戸次鑑比(鑑方と鑑比は同じ鑑堅の名があった)、従叔父戸次親繁、戸次親宗や譜代家臣の十時惟忠、由布惟清、綿貫吉廉と与力衆の小野鑑幸(小野鎮幸の父)、三池親高など数人を失った。こうした大友方の苦戦を目の当たりにした筑前国衆からは9月以降、原田隆種や宗像氏貞などの離反者が相次ぐことになった。特に筑前の大友方の重要拠点である立花山城主・立花鑑載が毛利元就の調略に応じて叛旗を翻したことで立花山城が毛利方の手に落ち、肥前の龍造寺隆信も大友氏との対決姿勢を強め、筑前戦線は崩壊の危機に立たされた。道雪はこうした危機的な状況の中、立花山城を奪還することで戦局を好転させようとし、永禄11年(1568年)の4月24日から立花山城を包囲し、3ヶ月にわたる攻城戦の結果、7月4日に立花山崖下で激戦、そして道雪が立花方の野田右衛門大夫を調略して、遂に23日、立花山城は陥落、立花鑑載が自害した。その後、同日に高橋鑑種との宇美・河內の戦い、8月2日大友諸将と共に、毛利軍の清水宗知、高橋家臣衛藤尾張守、原田親種の聯合軍と再び立花山城下の戦、8月5日対原田隆種、親種父子や原田親秀の第一次生松原の戦いなど、度々激戦の末に筑前反大友勢力を一掃する。8月19日、孤立を深めた秋月氏、宗像氏、城井氏、長野氏、千手氏、麻生氏は降伏している。これにより筑前戦線は小康状態となって、11月25日、筑後赤司城にいった道雪は、大友軍のために忠死した問註所鑑豊の娘、仁志姬と結婚する。永禄12年(1569年)1月、大友軍5万は肥前龍造寺隆信の討伐に転進、吉弘鑑理や道雪は隆信の降伏を拒絶し、3月23日に大友諸将と共に神崎郡防戦後、江上武種の勢福寺城を攻め落とし、4月6日に吉弘鑑理も多布施口の戦いで龍造寺軍を撃破したが、隆信の連絡により4月15日に立花山城を奪還すべく吉川元春、小早川隆景率いる毛利勢が筑前に来襲したため、17日道雪が肥後の城親冬を使者として龍造寺隆信との議和を成立、5月3日に立花山城が陥落したことにより、大友軍は5日、博多に集結し、6日には道雪と田尻鑑種と共に対毛利軍の前哨戦を開け、自ら槍を提げ敵を討ち取った。13日、両軍は多々良川辺の松原にて4回交戦して大友勢の苦戦は続くことになる。18日に発生した多々良浜の戦いでは道雪自ら陣頭に立って先に鉄砲八百挺を二隊に分けられ、自分が発案した「早込」(「早合」ともいう。1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫)を用いて二段射撃して後は槍隊を繰り出して突進、続いて自分が率いて騎馬隊は馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける「長尾懸かり」というかけ合い戦法で毛利方の主力である小早川勢を撃破したが、その後も大小合わせて18回の合戦に及んだので戦線は膠着することになった。こうした中、主君・宗麟は吉岡長増の献策を容れ、大内一族である大内輝弘を周防に送り込んで大内氏再興を図らせた。大内旧臣を糾合した輝弘は毛利方の周防における重要拠点である高嶺城を脅かし(大内輝弘の乱)、また山中幸盛が尼子氏再興の為、尼子勝久を奉じて隠岐より出雲へ侵攻したことにより、毛利氏は戦線を維持できなくなり、永禄12年(1569年)11月になって撤退し、10年以上に渡った毛利氏と大友氏の筑前争奪戦はようやく終わりを告げた。元亀元年(1570年)、再び龍造寺隆信討伐のため、今山合戦にも従軍し、4月23日、佐賀城を包囲するの間に局地戦の巨勢・若宮の戦いで龍造寺隆信、鍋島直茂と交戦した。この戦は記録上、初めて道雪は輿に乗った戦いであった。こうして道雪は大友方の主将として戦い抜いた功績により、元亀2年(1571年)、筑前国守護職を就任して、立花家の名跡を継承し、立花山城主となっている。なお、この時から道雪は城督として筑前の軍権を握ることになり、加判衆を辞任している。その後岩屋・宝満城主の高橋紹運など大友の筑前五城将(道雪、紹運と鷲ヶ岳城主大鶴鎮正、荒平城主小田部紹叱、柑子岳城主先後に臼杵鎮続、木付鑑実)と共に筑前において数年間、秋月種実、筑紫広門、原田隆種、原田鑑尚(大鶴鎮正の子あるいは伯父)、龍造寺隆信、宗像氏貞、麻生元重、杉連並、問註所鑑景など筑前、筑後、肥前諸勢力に対して数々の戦を繰り返した。天正3年(1575年)、宗麟の命令で戸次氏の家督を継いでいた甥鎮連の子統連に立花氏の家督を譲るように迫られたが、道雪は拒絶して重臣の薦野増時を養子に迎えようとした。しかし、増時が養子となることを辞退したため、道雪はただ1人の愛娘である誾千代に家督を譲り、立花山城主としている。天正9年(1581年)、同じ大友氏の一族・家臣であり、道雪と同じく高橋氏の名跡を継いでいた高橋紹運の子・統虎を婿養子に迎え、家督を譲っている。天正6年(1578年)、宗麟は島津氏討伐を企図し始める。道雪はこの方針に反対していたが、宗麟は日向侵攻を強行した。この際、道雪は従軍していなかった。この日向侵攻により発生した耳川の戦いで大友勢は大敗を喫し、宗麟の参謀役であった角隈石宗や重臣の吉弘鎮信、斎藤鎮実、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将を失っている。これにより、大友家の勢力は大いに衰えることになった。この大敗を知った際、道雪は宗麟とその嫡子の義統、そしてこの合戦を指揮した重臣を痛烈に批判した。以後、大友家は島津家に対して守勢に回ることになる。この不利な情勢下で道雪は家臣の離反が相次ぐ大友家に忠誠を尽くし、高橋紹運とともに島津家と戦い続けることになった。天正7年(1579年)には宗像氏・麻生氏・原田氏の反乱を鎮圧した。天正8年(1580年)には豊後南郡衆の裏切りを憂慮して9か条の檄文を出している。天正8年(1580年)秋、龍造寺の筑前遠征が始まり、大友方の荒平城が攻め落とされる。道雪の居城、立花城攻めが計画される中、筑紫広門の仲介により道雪は龍造寺と和睦する。筑前十五郡を二つに分け、東北六郡を大友領、西南九郡を龍造寺領と定めた。(別資料では大友方城、立花岩屋宝満の城付を除いて、全て龍造寺領と定められたともある)天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まる中、高橋紹運や朽網鑑康と共に筑後を守るべく戦っていた。3月、豊後の大友軍は黒木家永の筑後猫尾城を攻略したが8月にわたって難攻不落であった、18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、勇ましい強行軍の態勢で先後的に敵の筑紫氏、秋月氏、星野氏の領地・筑後川や道路は未整備の筑後鷹取山、耳納連山の高峰や九十九折など山険難所を越え、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野聯合軍を蹴散らし、ただ1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、19日、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日高牟礼城開城、さらに川崎重高の犬尾城を攻め落とし、28日は城島城、酒見・榎津・貝津を掃討して、ついに9月1日猫尾城を落城させた。のち8日、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城、田尻鑑種の鷹尾城など筑後諸城を降伏、攻落した。龍造寺家晴の柳川城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていて、さすがの道雪、紹運も攻略の進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、軍勢を転じて久留米城、安武城、西牟田城、吉木城を攻落した。4日、両軍は草野鎮永の発心岳城を進攻し、28日には鎮永偽降の謀で、善導寺の戦いに数人の重臣を失った。のち星野吉実の鷹取城、福丸城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めた。その際、豊後大友軍の総大将・田原親家は両将の戦功を嫉み、更に年の暮れが迫っていたので、豊後に引揚げた。残された道雪、紹運や朽網鑑康、志賀親守らは、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える。天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、後藤家信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井鎮房、長野種信など肥前、筑前、筑後、豊前聯合軍およそ30,000余の大軍と小森野、十三部、祇園原など地(総じて筒川合戦や久留米合戦)で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康ら大友軍は9,800兵の劣勢ながら、いずれも見事で兵法、戦術や兵器、陣形を活用して敵大軍を撃ち破った。後の6月、柳川城攻めの最中に高良山の陣中にて病を得た。高良大社(現在の福岡県久留米市)で病気平癒の祈願が行なわれ、行動を共にしていた高橋紹運も必死に看病した。しかし9月11日に病死した。享年73。道雪は「我が死んだならば、屍に甲冑を着せ、高良山の好己の岳に、柳川の方に向けて埋めよ。これに背けば、我が魂魄は必ず祟りをなすであろう」と遺言したという(『常山紀談』)。この遺言を知った養嗣子の宗茂は「遺言はそうあっても、死骸をただ一人棄て置く事は、人のそしりを受けよう。立花に帰し入るべきだ」と命じた。すると道雪の重臣・由布惟信が「遺言は重く背きがたい。我はここで切腹し、お供つかまつる」と言い、他の重臣も我も我もと殉死を願い出た。これに対して原尻宮内少輔が「各々方が名誉を好んでそうする事が、果たして統虎(宗茂)公のために良い事か。統虎公のためにこそ、腹を召されよ」と叫び、惟信は「尤もである。祟りがあるならば、この由布一族が罰を受けよう」と述べて、立花軍は道雪の亡骸を伴って帰還したという。「異方(ことかた)に、心引くなよ、豊国(とよくに)の、鉄(かね)の弓末(ゆずえ)に、世はなりぬとも」道雪の法号の由来は「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。武士も一度主君を得たならば、死ぬまで節を曲げず、尽くし抜くのが、武士の本懐である」というものである。このため現在、道雪は「義」に篤い武人として評価されている。『名将言行録』によると「頴敏驍勇類を絶し、士を育み民を恵み、その恩恵は細かな所まで行き届く。」、「真の仁義の勇士とは、鑑連(道雪)の様な者の事をいうのだろう真に武士の手本とすべき者である。」龍造寺隆信からも「武を好み、文を親しむ当代きっての良将であった。」道雪の武勇は誉れ高く、その噂を聞いた甲斐の武田信玄が対面したいと希望したという逸話もある。また、信玄の枕屏風に道雪と家臣の由布惟信らと共に諸国勇士の名が記されてあった。天文23年(1554年)小早川隆景率いる毛利軍と戦った際、道雪は将兵の中から弓が得意な兵を800人選抜した。そして毛利軍との戦いの際、毛利兵に雨霰と矢を射込ませたが、この際に矢に「参らせ戸次伯耆守」と朱記させていた。これを目にした毛利兵は次第に恐怖感、焦燥感を募らせ、毛利軍は撤退に追い込まれたという(第一次門司城の戦い)。毛利軍との戦いで勝利を重ねた道雪は、毛利家の興亡を焦点にしている軍記物である『陰徳太平記』で「道雪は大友家に肩を比ぶる者なきのみか、隣国にも亦類少き士大将にて、智謀尭捷兼達し、堅を砕き、利を破り、奇正応変に過ちなく」と賞賛されている。現代語にするなら「道雪はいかなる状況でも的確な判断を行ない、臨機応変に対処できる、戦国屈指の名将だ」と褒め称えているのである。そして、戦歴は大戦37回、小戦百余回、その中に軍事総指揮は主君・大友宗麟であった状況を除いて、自ら総大将となった戦いはほぼ無敗の戦績であり、軍神として誉めたたえられた。ある時、宗麟が凶暴な猿を手元に置き、これが家臣に飛び掛るのが面白くて何度もけしかけた事があった。毎日のように迷惑を掛けられた家臣は辟易し、大変困り果てた。これを聞いた道雪は、他の家臣と同じように宗麟の前へ出向いた。案の定、宗麟が猿をけしかけてきたので、道雪はこれを鉄扇で叩き殺してしまった。驚く宗麟に「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と諫言したので、宗麟は大変反省した。現在の大分市鶴崎に無形民俗文化財の鶴崎踊りがあるが、この踊りの起源は道雪である。宗麟がまだ義鎮と呼ばれた若い頃、酒と女に溺れて国政を顧みず、忠勤の者を賞さずに罪ある者を罰そうとさえしなかった。道雪は危機感を持ち、宗麟に拝謁を申し出たが、宗麟は道雪が諫言しに来たと悟って会おうとしなかった。そこで京都から美人の踊り子を呼んで昼も夜も構わずに自分の屋敷で躍らせた。女好きの宗麟は堅物の道雪の行為に驚きながらも興味を持ち、自ら道雪の屋敷にやってきた。そこで道雪はようやく宗麟に拝謁する事ができ、「たとえ折檻を受けても、主人の過ちを正すのが臣たる者の勤めである。我が身を恐れて自分さえよければ、他人はどうでもよいというのは卑怯である。自分の命は露ほども惜しくは無い。それより主人が世間の外聞を失う事が無念である」と述べて諫言した(『立花道雪覚書』)。宗麟はこの道雪の諫言を聞き入れて襟を正し、以後も宗麟の行状に問題があれば道雪が諫言して改める事が続いた。ちなみに鶴崎踊りはこの時の踊りが大分に残ったものである。道雪は障害者となったためか、他人への配慮を欠かさなかった事でも知られる。『常山紀談』では道雪の言葉として「武士に弱い者はいない。もし弱い者がいれば、その人が悪いのではなく、大将が励まさない罪による。我が配下の武士は言うに及ばず。下部に至っても武功の無い者はいない。他の家にあって後れをとる武士があらば、我が方に来て仕えるがよい。見違えるような優れ者にしてやろう」とある。このような考えのもと、道雪の家臣に対する逸話は非常に多い。武功の無い武士がいると「運不運が武功にはあるもの。そなたが弱い者でない事は、我が見定めている。明日の戦いに出る際、そそのかされて抜け駆けなどして討死してはならぬ。それは不忠というものぞ。身を全うしてこの道雪の行く末を見よ。お前たちを打ち連れているからこそ、かくのように年老いても敵の真ん中に出られ、怯んだ様子も見せないのだ」と言ってその武士と酒を酌み交わし、ある時は武具を与えたりもした。このように配慮を欠かさないから、道雪の配下は次の戦いでは他に遅れまいとして勇み、その武者振りがいいと「あの者を見よ。この道雪の睨んだ目に狂いは無かった」と周囲にもわかるように賞賛・激励した。このため士卒は道雪のために命を惜しまずに働いた。ある合戦で道雪の軍は苦戦した、そのため「我を敵の中に担ぎ入れよ。命が欲しければ、その後で逃げよ」と道雪が下知した。しかし、家臣たちは日ごろの道雪への感謝から、そのようなことをせずに奮起し、敵に対して何度も槍を交えて、遂に追い返したという。客を招いての酒の席で部下が粗相をした際、「今、私の部下が失礼をしたがこの者は戦場では何人分もの働きをする。特に槍の扱いなどは当家一であろう」と客に話し部下に恥をかかせなかった。他にもある家臣が道雪の侍女に密通して問題になったが、肝心の道雪は「若いのだから当たり前だ。色恋に迷ったからと言って誅殺するには及ばぬ。人の上に立って、君と仰がれる者が、ちょっとしたことで人を殺せば、人は君に背くもととなる。国の大法を犯したのとは違う」と述べて笑った。この言葉を聞いた家臣は、後に道雪を守りながら戦死したと伝わる。重臣であった薦野増時は恩賞として道雪の隣に墓所を置き、死後も道雪の傍にあることを望んで許されていた。関ヶ原の戦いの戦後処理として立花氏の改易に伴い、黒田家臣となった増時ではあったが、この許しを得ていたことを生涯忘れず、死後に道雪と同じく梅岳寺に葬られた。軍律に関しては非常に厳しく、晚年の筑後遠征の際、筑前川原崎で龍造寺氏と対陣中に越年することになった時、一部の家臣が無断で陣地を離れて我が家へ戻った事を知った道雪は、直ちに追っ手を差し向け、その時追っ手に家へ帰った家臣のみならず、その親をも殺すよう命じた。家老たちが親までも殺すことはないだろうと諫めても「大事な戦場の持ち場から逃げ帰ってくる息子を追い返さない限り、その親も同罪だ」と言って取り合わなかったという。*太字「連」、「雪」の入っている人物は道雪(鑑連)から偏諱を賜った人物である。

出典:wikipedia

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