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梶原一騎

梶原 一騎(かじわら いっき、1936年9月4日 - 1987年1月21日)は、日本の漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。本名は、高森 朝樹(たかもり あさき)。高森 朝雄(たかもり あさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。自身の型破りで豪快な生き方や数々のスキャンダルでも話題を呼んだ。1966年から『週刊少年マガジン』に連載された漫画『巨人の星』の原作者として名声を上げ、以後『あしたのジョー』(高森朝雄名義)、『タイガーマスク』など、所謂「スポ根もの」分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍した。弟は漫画原作者、空手家の真樹日佐夫。妻は高森篤子。離婚期間があり、その間台湾の有名タレント、白冰冰(パイ・ピンピン)とも婚姻関係を結ぶ。白との間に娘・白暁燕(パイ・シャオイェン)がいた。東京市浅草区(現台東区)石浜の木賃アパートで知的でインテリな父・高森龍夫と情念の深い母・高森や江(旧姓:佐藤)の間に三兄弟の長男として生まれ、まもなく両親とともに渋谷区隠田1丁目(現在の神宮前4・6丁目周辺)に移った。父方の祖父が熊本県高森町周辺の出身であるだけで、梶原自身と九州との関わりは宮崎県への1年の疎開と福岡県小倉市(現在の北九州市小倉)の親戚の家へ預けられたという程度である。弟の真樹日佐夫によれば「兄の朝樹は、父方の知的な高森家と、大柄で激烈な気性な持ち主ばかりだった母方の佐藤家の遺伝子の「合作」だった」とも語っている。幼少時から非常に凶暴で喧嘩っ早く目立ちたがり屋な気質が現れていた。戦中の昭和18年に、父の龍夫が師範科時代に在籍していた学校である私立緑岡小学校(後の青山学院初等部)に入学するものの、朝樹の持つ荒い気質と学校の学風は水と油のようなもので、クラスメートや上級生の子供達とも衝突ばかり起こしていた。さらにこのころから梶原は体が大きく太り気味だったので、同級生も敵わぬと見たのか上級生とつるんで逆襲してくるため、梶原はいつも生傷が絶えなかった。その上級生を奇襲し血染めにしたことで、母親が学校から呼び出される事になり梶原はわずか1年生にして退学する事になり、家の近くの公立小学校に入れられた。その際に担任の教師に叱り付けられ「あなたは、こういう学校には向かない子です!普通の学校に行った方がいいのではありませんか」と罵られ、この言葉に朝樹は子供心にも傷ついた。公立小学校時代は同級生に、雑誌『暮らしの手帖』編集長花森安治の長女葵がおり、梶原は取れたボタンを付けてもらった等の思い出があり、淡い思いを抱いていたというが、当の葵は「高森くん」という同級生がいた事は覚えていたものの、それ以上の詳しい記憶はないという。花森安治や葵をモデルとした人物が登場するNHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』にも特に該当する少年は登場しない。その後、1945年に入ると東京が連合国軍機の空襲を受けることになったため、梶原を含めた高森一家は仕事のある父を東京に残し、ミカン山を営んでいた父の叔父である林進士が住む宮崎県日向町に疎開。しかし、現在家督を継いでいる林晴夫の話によれば、日向町亀崎村の日向灘を見下ろす山の中腹にあった林家の裏手のミカン畑は当時開墾されて間もなく、まだ苗を植えたばかりだったから、さしたる収穫がなかった。それよりも自給自足の耕作が必要で当時八歳だった朝樹は、母と共に肥やしを担ぎ、苗の隙間で芋を育てては掘っていた。戦後、川崎市に転居。このころ教護院「新日本学園」で1年を過ごしている。のち東京都大田区蒲田に移り、大田区立相生小学校に学ぶ。小学生時代、蒲田に転居した直後から駅前のマーケットで万引きやかっぱらいを繰り返し、たびたび補導されたが改悛の情なく、弟の真土(真樹日佐夫)まで引き込むようになったため、両親の配慮で青梅市の教護院「東京都立誠明学園」に送られ中学相当の3年間を過ごす。誠明学園在学中は寮から少なくとも二度脱走している(一度目は自宅に到着する前に連れ戻された)。なお「梶原」とは誠明学園時代に恋仲で結婚まで考えていた娘の苗字に由来する筆名である。のち真樹日佐夫は高校時代に空き巣狙いを繰り返して鑑別所に送られたが、担当刑事から共犯者の存在を示唆された母は梶原に疑いの目を向けた。東京都立芝商業高等学校を半年ほどで中退(本人は長らく早稲田大学卒と詐称していた。例えば、ごま書房刊の「息子の鍛え方」の裏表紙には、早稲田大学卒業と記述されていた)。父の高森龍夫は、梶原の出生当時、中央公論社で校正の仕事に従事していたが、のちに改造社へ移り、編集者として活躍する。また弟の真樹日佐夫や妻の篤子によれば、梶原の両親は弟などには愛情を注いでいたのに対し、梶原がいくら頑張っても認めようとはしなかったという。もともとは文学青年で小説家を志していたが、生活のため『チャンピオン太』などで漫画の原作を担当する日々を送っていた。『週刊少年マガジン』の当時の編集長・内田勝と副編集長・宮原照夫が梶原の元を訪れ「梶原さん、マガジンの佐藤紅緑(少年小説の第一人者)になって欲しいんです」と口説かれ『巨人の星』の原作を始めたところ、これがヒットとなったため、以降は漫画・劇画の原作に本腰を入れて取り組むようになった。1971年に『空手バカ一代』を発表、大山倍達率いる極真空手を世に紹介した。『地上最強のカラテ』など、極真空手のプロモート映画も多数制作している。『チャンピオン太』など、実在する格闘家をモデルにした作品も多い。1976年からは映画の制作に乗り出した。梶原原作漫画のアニメ化で親交のあった東京ムービー社長の藤岡豊、石原プロモーションで映画のプロデュースを行っていた川野泰彦と「三協映画」を設立した。「三協」の意味は「三人で協力する」という意味合いである。三協映画では、文芸路線、格闘技路線、梶原原作漫画のアニメ化の三つの路線があったが、経営的には格闘技もので上げた収益を文芸もので使い果たすことの繰り返しであった。なお、1977年に自身の原案をもとに、鈴木清順監督に10年ぶりの作品『悲愁物語』を撮らせている。自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に新日本プロレスでデビューしたことが契機となって、梶原は1980年代から、かねてから縁のあったプロレス界にも深入りするようになる。1983年5月25日、講談社刊『月刊少年マガジン』副編集長・飯島利和への傷害事件で逮捕された。この逮捕により、過去に暴力団員とともに起こした「アントニオ猪木監禁事件」や、赤坂のクラブホステスに対する暴行未遂事件(1982年3月18日)、『プロレスを10倍楽しく見る方法』のゴーストライターのゴジン・カーンから10万円を脅し取った事件も明るみに出ている。弟の高森日佐志によると、このとき警察が狙っていた本件は覚醒剤常習容疑だったという。警察は、梶原が萩原健一(当時、大麻不法所持で逮捕留置中だった)に大麻を渡したのではないかと疑っていた。その他にもさまざまなスキャンダルがマスメディアを賑わせ、連載中の作品は打ち切り、単行本は絶版処分となり、名声は地に落ちた。2か月に及ぶ勾留後に保釈され、8月8日、山の上ホテルでステーキと鰻を一緒に食べた直後、倒れた。病院での診断名は壊死性劇症膵臓炎。死亡率が100%に近い、死に至る病気であり、長年のアルコール依存や暴飲暴食が祟って胆石を長時間放置し続けたために周辺臓器がすべて病んでおり、わずかな期間に手術を4回重ね、4度目の時に医師団から「あと2時間の命」とまで宣告されていた。長年培ってきた体力等から生還を果たしたが、87キロあった体重も60キロを割っていた。1985年3月14日、東京地裁刑事第二十八部で、懲役2年、執行猶予3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を受ける。1985年(昭和60年)、かねてからの念願だった小説家への転身を決意して、真樹日佐夫との合作で正木亜都のペンネームで小説家としての活動を開始。漫画原作者からの引退を宣言して、「梶原一騎引退記念作品」として自伝漫画『男の星座』(作画:原田久仁信)連載開始。掲載誌は事件後も唯一連載を打ち切らなかった『漫画ゴラク』だった。力道山、大山倍達などが実名で登場する中、著者自身実名ではなく「梶一太」と名をつけ、その青春遍歴のドラマを赤裸々に描き、同時にこれまで見られなかったほどの飄々たるユーモアも漂わせながらライフワーク的な作品となるはずであったが、1987年(昭和62年)年明けに体調不良となって入院し、1月21日午後12時55分、東京女子医大病棟一室にて死去、病室には辞世の句が残されていた。【吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん】。『男の星座』は未完に終わった(浅草キッドの著書『お笑い男の星座』の題名は、この作品へのリスペクトである)。死後数年間は梶原について語ることをタブー視される風潮が見られたが、梶原の再評価の機運が高まるのは、1990年代半ばになってからである。2005年の東京アニメアワードにて、特別功労賞(原作者部門)を受賞した。梶原の世界は、戦前の『少年倶楽部』等で人気を呼んだ佐藤紅緑らの熱血小説と教養小説の世界の系譜と戦後の福井英一『イガグリくん』などの流れを受け継いだものと指摘されている。これは、マンガの神様と謳われたモダンな作風の手塚治虫には欠けた要素であり、事実、手塚は生涯、梶原が得意としたスポーツ漫画と格闘漫画を手がけなかった(ただし手塚は「巨人の星対鉄腕アトム」の企画やアニメ「あしたのジョー」が虫プロダクションにより作られるなど積極的に梶原と関わっている。)梶原作品の特色としては、最後に主人公が散り去っていく場合が多く、ハッピーエンドで完結する作品はほとんど無いといわれている。時に自己破滅的であり直情型で己の道に突き進む主人公像が見られるが、真白になるまで燃え尽きる結末を好むのは、彼の作品の特徴ともいえる。ストーリーの展開としては型破りで奇想天外、なおかつ劇的な内容で読者を飽きさせない巧みな作風が特徴である。『巨人の星』の大リーグボール養成ギプスや消える魔球に代表される奇抜なアイディア、『空手バカ一代』の劇的なストーリー展開、『愛と誠』にみられる奥深い心理描写などは、彼の特異な才能の一面を発揮したものと評価されている。若手時代、五味康祐の成人向け小説『スポーツマン一刀斎』を少年向け雑誌に掲載するためのリライトの仕事をして、その作品に登場する「架空のキャラクターと実在のスポーツ選手との共演」という手法を学んだという。馬場、猪木、王、長嶋といった実在の選手と架空の選手をうまく融和させる手法を結実させ、最終的にタイガーマスクを現実化させるところまで行っている。主人公とライバルは片親を亡くしたか、両親ともいない、または捨てられた場合が多く、孤児の場合、師匠が親代わりという設定になる。総じて言えるのは「主人公を甘えさせてくれる母親がいない」というケースがすべての作品における普遍的なテーマとなっている。「男を成長させるのは、味方との融和でなく、強敵との死闘だ」という人生哲学により、主人公がある程度強くなると、それまで師匠だった人物が敵にまわる展開が繰り返される(具体的には「巨人の星」、「あしたのジョー」、「タイガーマスク」、「柔道一直線」、「柔道讃歌」の項目を参照)。1980年代に入ると真面目に読まれていた梶原作品の生真面目さに、とりわけ『巨人の星』には逆説的にギャグの要素を感じ取る視点が生まれ、数多くの漫画などでパロディーの対象とされた。『マカロニほうれん荘』の鴨川つばめはギャグとして読んでいたと語り、江口寿史の『すすめ!!パイレーツ』などが典型例である。「原作の内容は一字一句変えてはならない」という不文律があり、これを絵を描く漫画家に強制していた(例外はちばてつやなどごく一部あるのみ)。その代わりに、漫画家の絵のタッチやコマ割り等の内容に関しては一切文句を言わなかったといわれている。昭和40年代(1965年から1974年)に入るとテレビが一家に1台は普及するようになり、テレビ文化は大衆化された。梶原作品の多くは、アニメ化または実写化されテレビ放映し人気を博した。またテレビによる宣伝効果で原作の売り上げも伸びた。漫画界においては、手塚治虫が手がけずに傍流になっていた熱血とスポーツと格闘技の世界を復権させて、多くの模倣作を生み出したことで主流の地位まで引き上げた。少女漫画の世界にも梶原の影響は及び、『サインはV』『アタックNo.1』といったスポ根ものが人気を博した。一方では映画作りにも注力しいくつかのヒット作を世に送り出した。格闘界ではアントニオ猪木の異種格闘技シリーズに代表される試合にも、仕掛け人的な役割を演じ強い影響力をもたらした。だがその一方で「カポエイラはずっと逆立ちしたまま闘う格闘技」「ブルース・リーは極真空手を習っていた」等の、誤った説を自著で発表したこともあり、今でもそれが定説となってしまっているものもある。梶原的ファンタジーの頂点とも言える『プロレススーパースター列伝』が、前記のような誤った説(というより意図的な創作)の集合体であるのは、多くのプロレスファンの知るところとなっている。1983年の逮捕事件により、梶原個人は一時的にはマスコミ界から抹殺に近い状況まで追い込まれ、作品の評価も失墜した。梶原の暴力癖は傲岸不遜というより、収入が跳ね上がっても一向に上昇しない自らの社会的地位(銀座に繰り出しても小説家を迎える態度では無いと本人は感じていた)、小説家志望の自分に、常にヒットを要求する漫画編集者などへの怒りや苛立ちが引き金になった物が多く、ひどい時には女性を巡るトラブルから、鉄拳を実弟の真樹、幼馴染、ホステスに向けたこともあった。また、梶原がコワモテだった理由について、ライターの竹熊健太郎は、漫画制作において、原作は叩き台と思われており、そうでもしないと個性がなくなるからではないかと推測している。小林よしのりは自分の漫画(格闘お遊戯)で梶原一騎をもじった登場人物を出して茶化したことに対し、梶原は「自分にはギャグは書けない」としてギャグ漫画家に敬意を持っており、事なきを得たという。そのためか、ギャグ漫画の巨匠・赤塚不二夫とも飲み仲間であり、赤塚に対し、一目おくことがあった(『人生これでいいのだ!!』1999年・集英社刊)。著書『劇画一代』の中でギャグ漫画は個人的には好きであると明かし、山上たつひこのギャグを評価しつつも、「赤塚は文化人を気取っているからそこまでやれぬ、やらぬだけで、もし赤塚が本気になってギャグ漫画を描けば山上ごときは消し飛んでしまう。」と評している。小学館の赤塚担当編集者だった武居俊樹は、梶原が赤塚に直接「俺、ギャグは描けないんだ。だからあんたの漫画の原作は描けないな。」と言ったのを聞いている(武井著『赤塚不二夫のことを書いたのだ』)。小林よしのりは『新ゴーマニズム宣言』で「白鳥が美しく見えるのは水の中で必死に足で水を掻いているから」という花形満の台詞を引用し、「梶原一騎からはいっぱい学んだ」というコメントを書いている。1983年の事件による逮捕と、これによってようやく白日の下になったそれまで不問にされていた数々の出来事のために晩年や死後数年間は、出版界・マスコミでも梶原についてはタブーとされていた時期があった。しかし、1990年代半ばに再評価の兆しが伺えた。その発端となったのは、1994年、劇作家・高取英・著『梶原一騎を読む』(1994年・ファラオ企画刊)である。夏目房之介、いしかわじゅん、呉智英といった論客たちが寄稿し、死後初めて梶原一騎と梶原作品について取り上げられた最初の書物となった。その後、1994年8月15日付の朝日新聞の連載コラム『新戦後がやってきた』の中で梶原一騎の不遇と当時「好感度調査」で4年連続一位の座を独走するビートたけしを対比させた論評が掲載された。そして、ジャーナリスト・斎藤貴男が関係者への徹底した入念な取材を元に発表された労作『夕やけを見ていた男 -評伝・梶原一騎-』(1995年・新潮社刊)により、再評価の気運が高まった。本書は1995年3月26日付の朝日新聞書評欄で作家・沢木耕太郎による書評や数々のサブカル誌がとりあげられたことにより、それまでタブーとされていたマスメディアでも『驚きももの木20世紀』(1997年4月25日オンエア)を皮切りに『BSマンガ夜話』『ブロードキャスター』(1999年4月3日オンエア)『ダウンタウンDX』(ナキメンタリー3分間劇場、1999年5月20日、1999年6月3日オンエア)などでも梶原作品が取り上げられ、梶原一騎の名が再び世に出るようになった。また当時、数々の歴史上人物を取り上げていた関口宏司会による人気番組『知ってるつもり?!』(1999年7月11日オンエア)でも梶原一騎の生涯が紹介された。今日でも『あしたのジョー』絡みなどで『NHK教育』(2007年3月24日オンエア)や『報道ステーション』(2008年3月25日オンエア)などで取り上げられ、2007年3月2日には、紛失されていた『あしたのジョー』の直筆原稿の一部発見が『NHKニュース7』で第一報として取り上げられ、話題を呼んだ。米国でかつて敵国であった大男どもをなぎ倒し、凱旋帰国して国内でもかなりの有名人であった大山倍達の元に1954年頃、梶原が訪ねた時、石を抱えて大山に近づき、「この石を割ってみせてくれませんか?」とお願いしたことが二人の初めての出会いとなった。その時、大山の数々の武勇伝の挿話に若き日の梶原は大いに心を打たれた。最初はそれほど密接な関係ではなかったが、二人の親交は徐々に深まりつつあった。当時の梶原の大山に対する気持ちとして「大山倍達は巨大な不遇の碑に見えた。12歳も年が違う大山倍達に対して何というか父性本能のようなものを感じたのだ」と述懐している(『反逆世代への遺言』1984年・ワニブックス刊)。1969年6月『冒険王』にて『虹を呼ぶ拳』(画・つのだじろう)の連載を開始。この作品の中で大山は協力者(アドバイザー)として名前を連ねている。この頃、同じく『柔道一直線』(画・永島慎二)にも空手使い・鬼丸雄介の師匠として実名で作中に登場することが見られた。1970年11月『空手バカ一代』プロジェクトが発進する。武道の世界では反体制の立場にある一介の空手家を大講談社の少年雑誌が大きく取り上げていいものか社内でも議論はあったが、当時『少年マガジン』がノンフィクション作品を発表していたこと等により実現が可能となり、1971年6月『少年マガジン』誌上で梶原にとって長年の念願であった『空手バカ一代』(画・つのだじろう)の連載を開始。連載当初から反響の大きさにより、極真会館には連日50人、100人の入門志願者が押しよせ、大山自身も劇画によって知名度が上がり、極真会館館長の立場から一定の社会的地位を占めることとなった。しかし、1973年、作画担当のつのだじろうが「連載を降りたい」と言い出した。理由として「原作が来るのがひどく遅く、締切りに追われて満足な仕事ができない」。「待つ時間ばかりで、他に自分のやりたい仕事の時間が確保できない」というもの。連載から二年が過ぎ、当初予定していた大山倍達一代記は描きあげていたが、まだまだ人気の高かったことや当時『あしたのジョー』などの人気漫画の連載が終了していたことにより、『少年マガジン』の部数の影響も考慮して、連載終了の気配を示さなかったこと、またつのだ自身、以前から独学でオカルトの世界を研究しており、この年『少年チャンピオン』の夏休み企画で描いた短編シリーズ『亡霊学級』がヒットしたことにより、『恐怖新聞』の連載が決定したことから上記2点の理由により降板することとなった。降板後もつのだとマガジン編集部は喧嘩別れする事はなく、すぐに「うしろの百太郎」の連載が始まっている。その後、つのだの後を引き継ぐ形となった影丸譲也であるが、先程にもあるように大山倍達個人の挿話は描ききってしまったため、物語の展開の苦難を余儀なくされたが、弟子の芦原英幸の挿話を描いたことで急に人気があがり、再び盛り返すこととなったが、そのことが極真会館やさらには大山との間で大きな亀裂を生むこととなった。ジャーナリスト斎藤貴男の取材でも大山は「大山倍達物語でなく、芦原物語になってしまった。」と語っている。真樹日佐夫も大山没後に東京スポーツで連載していた大山の伝記で、「弟子を取り上げてくれるなとは言わないが、あまり持ち上げるのはいかがなものか? 長い目で見れば決して彼らの為にもならんと思うが...」という大山の言葉を紹介している。大山は、弟子を活躍させるなら満遍なく登場させて欲しいと望んだが、それでは散漫になってしまい、ドラマにならないため難しかった。芦原英幸を中心に新生『空手バカ一代』は極真会館内部での派閥抗争を招く結果となった。「あいつが漫画になって、俺がならないのはなぜだ。」と不満を持つ弟子もいたという。やがては空手家でもない梶原の勢力が極真内部で拡大していくことに対する反発は同時に彼を重用する大山への批判にも及んだ。極真内部は次第に大きく大山派と梶原派の二大勢力と、マイペースの中間派に分裂していった。そんな状況の中で制作された『地上最強のカラテ』(1976年)は興行として大ヒットを記録したが、さらにこの成功が梶原と大山の仲に決定的な亀裂をもたらした。当初、梶原サイドと大山サイドで半分ずつ出資していたが、配給収入の分配として梶原サイドから大山サイドに対して支払われることは一切なく続篇の『地上最強のカラテ・パート2』(1977年)でも同様のことが行なわれ、大山サイドの不信感を募らせることとなった(もっとも梶原サイドにしてみれば、利益を独り占めにした覚えはなく、大きな収益をもたらしても、大きな制作資金を投入しているので厳密には利益は微々たるものであることを主張している)。当時『空手バカ一代』の作画担当であった、つのだじろうはオカルト物の連載を終了させ、オカルトとは別の分野の作品を描こうとしていた時期に旧知の大山から梶原抜きの大山倍達伝の企画を諮られたが、当初つのだは梶原の報復を恐れて断った。すると大山は当時親しくしていた評論家・平岡正明を原作につけることでつのだが矢面に立たないよう配慮したが、原作者をつけることに懲りていたつのだは、大山の熱心な申し出もあいまって一人で引き受けることとなった。しかし、1978年4月『少年チャンピオン』から連載された『ゴッドハンド』のタイトルが、元々大山の代名詞のように使われていた言葉であるが、それは必ずしも事実でなく、そのことを含めて梶原の大きな不興を買うこととなった。この頃からつのだ本人及び編集サイドにより梶原サイドからのクレイムがつき、結果、作品自体にも読者人気が及ばず、わずか9週で打ち切りとなった。しかしそれ以後も梶原サイドからのつのだ本人に対する脅迫まがいの行為は途絶えることがなく、つのだは、『増刊ビッグコミックス』で連載していたオカルト漫画『魔子』の最終回に梶原一騎を中傷する内容のセリフなどを書いてしまい、それを知った梶原は激怒し、つのだは新宿の京王プラザホテルに軟禁され、各出版社や漫画家仲間宛に詫び状を書かされる(業界では有名な「つのだじろう詫び状事件」である)。この時、仲裁に入るべきビッグコミック編集部の梶原側への対応が弱腰そのものだった為、漫画家の本宮ひろ志は激怒して、同誌に連載していた「男樹」の連載を中止している。その後も梶原と大山との“義兄弟”関係は公の場では維持され続けたが、1980年蔵前国技館で開催されたウィリー・ウィリアムス VS アントニオ猪木との世紀のイベントで梶原と大山との確執は頂点に達した。ウィリー VS 猪木戦における極真サイドから梶原襲撃“指令”などの怪情報が、試合前から関係者の間でまことしやかに流れており、結局は起こることはなかったもののそのことを信じた梶原サイドは大山に対して“誠意ある謝罪”を要求した。身に覚えのない大山としても謝罪する謂れはなく、大山との長年に及ぶ“義兄弟”の関係は途絶えた。その後の梶原の逮捕やスキャンダル、闘病にも静観していた大山ではあるが、1983年に大病から奇跡的な生還を果たした療養中の梶原に対し、匿名で励ましの手紙を送った。それを読んだ梶原は「これは館長からだよ。俺にはわかるんだ」と話したという。大山はこの挿話を梶原の妻・篤子から後に知らされ、晩年にジャーナリスト・斎藤貴男の取材に応じた時もこの挿話を嬉しそうに話したという。1985年5月、『漫画ゴラク』にて梶原一騎引退記念作品と銘打たれた自伝劇画『男の星座』(作画原田久仁信)を発表。力道山、木村政彦、ルー・テーズなど実在の人物が登場するなか、大山倍達との話題が多く描かれており、その他にも極真会館のさまざまな挿話がちりばめられ、若き日の梶原の大山に対する熱い思いが込められていた。作画担当の原田久仁信によれば、『男の星座』を描いて(極真との)関係が修復に向かっているところがあったという(木村修・編『格闘漫画で強くなる!』1997年・アスペクト刊)。しかし梶原の死により、『男の星座』は絶筆となり、『漫画ゴラク』追悼号にも「もっと早く仲直りすべきだった。許すべきだった。後悔しています。(中略)。約20年間のつきあいでしたが仲直りできなかったのが、かえすがえすも残念でなりません。仏に申し訳ないと思っています。」と大山の一文が寄せられている。没後、実弟の真樹日佐夫は大山に「せめて葬儀には出席してもらいたい。」と依頼したが、大山は辞退している。大山の秘書を務めた高木薫によれば、大山は理由について「私は案外小心者なので。」とだけ語ったという(高木著『わが師大山倍達~1200万人への道』より)。斎藤貴男『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』pp.205 - 207(新潮社、1995年 ISBN 4104030015)によると、梶原は1970年初春、自民党と公明党から、1971年の第9回参議院議員通常選挙に立候補しないかと誘われたことがある(結局立候補はしなかった)。梶原の根性論は当時、創価学会会長の池田大作から大変気に入られていた。池田は演説に際して梶原作品を取り上げて根性の大切さを説き、その根性を「広宣流布」(広く仏法を流布すること)のために役立てよと述べた。このような縁から、梶原は荘司としおと組んで『公明新聞』に『熱血モーレツ記者』という作品を発表したこともあった。このことから創価学会員であるとの誤解をさせることがあるが、これは誤りである。太字はテレビアニメ化した作品。"斜線"はテレビドラマ化した作品。○はアニメ映画化した作品。◎は実写映画化した作品。●はプログラムピクチャーとして公開された作品。△はラジオドラマ化した作品。▲は舞台化した作品。□はVシネマ及びOVA化した作品。×は未刊行作品。

出典:wikipedia

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