ジャズ()は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部の都市を中心に派生した音楽形式。西洋楽器を用いた高度な西洋音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚と音楽形式とが融合して生まれた。演奏の中にブルー・ノート、シンコペーション、スウィング、コール・アンド・レスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーション、ポリリズム(複合リズム)などの要素を組み込んでいることが、大きな特徴とされている。その表現形式は自由なものであり、初期からポール・ホワイトマンらの白人ミュージシャンが深くかかわり、演奏技法なども急速に発展した。20世紀後半には世界の多くの国々で、ジャズが演奏されるようになった。ジャズは西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアル、ブルース、ラグタイムの要素を含み、根底的には西アフリカ、西サヘル(サハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の民族音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。ニューオーリンズが発祥の地とされており、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀に入ると、コルネット奏者のバディ・ボールデンがニューオーリンズで人気を博し、今日では「初代ジャズ王」と呼ばれているが、バディは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない。1917年、ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初の商業用レコードとなる、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表。初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けており、ブラス(金管楽器)・リード(木管楽器)・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響に基づくものといえよう。当初は独学でジャズを創作していった者も少なくなかったが、ジャズと音楽理論が融合するようになっていったのは、ジャズが黒人社会に広く普及し、古典的なヨーロッパの音楽理論を取得したアフリカ系黒人ミュージシャンがジャズに反映させていく時点からである。アメリカの禁酒法時代に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードやラジオの普及によって、ダンスミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった。第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた。1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。この背景には、人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たしたクレオールの存在があった。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視されるようになり、特に代表的なバンドリーダーの一人であるルイ・アームストロングの存在は、ジャズとヴォーカルとの融合という側面(アームストロングはトランペット奏者でありながら自ら歌も歌った)において重要な役割を果たした。一方で保守層やファシズム政権等では、「黒人音楽」であり「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。ナチ党のアルフレート・ローゼンベルクはその急先鋒であり、ナチス・ドイツ時代には反ジャズが政府の公式な見解となり、1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は盛んに行われていた。また宣伝相となったヨーゼフ・ゲッベルスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた。その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求める(あるいはスウィング・ジャズに反発する)ミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない。1940年代後半には、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー等が多くの録音を残し、1950年代には、クール・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、ハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックを丸ごとジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』(監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』(監督:エドゥアール・モリナロ)に、ケニー・ドーハムが『彼奴を殺せ』(監督:エドゥアール・モリナロ)に参加。1958年には、アメリカ映画『私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンやアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった。1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、即興演奏の自由度が増す。一方、オーネット・コールマンやセシル・テイラー等は、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名からフリー・ジャズという言葉が広まっていった。1960年代前半には、ブラジル音楽のボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、『リカード・ボサノヴァ』が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギター、ハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、『ビッチェズ・ブリュー』を大ヒットさせる。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成し、クロスオーバージャズ、さらには後にフュージョンと呼ばれるスタイルに発展していく。1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのでは無く多様化が進んでいる。一人の演奏家が様々なスタイルでの演奏を行なうことも多く、時には一回の演奏会で様々なスタイルでの演奏を行なうこともある。ブラッド・メルドーはザ・バッド・プラスと共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロックミュージシャンによるジャズバージョンの演奏を行なったりしている。前衛的なジャズも伝統的なジャズも継続されている。またハリー・コニック・ジュニア等の歌手はポップスにジャズの要素を加えただけで「ジャズ・ミュージシャン」と呼ばれたり、ダイアナ・クラール、ノラ・ジョーンズ、カサンドラ・ウィルソン、カート・エリング、ジェイミー・カラムなど、伝統的なジャズとポップスやロック形式の音楽を組み合わせて人気を博したミュージシャンも近年登場している。フュージョンは1970年代に人気のピークを迎えたが、電子楽器やロック由来の楽器をジャズに使用する動きは2000年代に入っても続いている。この流れはパット・メセニー、ジョン・アバークロンビー、ジョン・スコフィールド、E.S.T.等に受け継がれている。1923年(大正12年)4月に日本で初めてのプロのジャズバンドが神戸で結成された。宝塚少女歌劇団オーケストラ出身の井田一郎をリーダーとする「ラッフィング・スター・ジャズバンド」(「井田一郎とラッフィング・スターズ」)である。その後1925年(大正14年)に井田は大阪でチェリーランド・ダンス・オーケストラを結成し活動するが、大正天皇崩御を理由に大阪市がダンスホールの営業を1年間停止したため、大阪を拠点としていた井田や南里文雄ら多くのプロのジャズマンは東京に拠点を移していった。戦前に発売された国産ジャズレコードの中には著しくレベルの低いものも多数見受けられるが、それでも着実にファンを増やしていった。歌手としては二村定一、淡谷のり子、バートン・クレーン、ディック・ミネ、川畑文子、中野忠晴、ベティ・稲田らが、ボーカルグループではコロムビア・ナカノ・リズムボーイズやアメリカのボードヴィルの影響を受けたあきれたぼういずがそれぞれ人気を集め、作曲家としては服部良一がジャズの要素を用いた数多くの曲を生んだ。(従って、一部で言われている`ジャズは明るい戦後文化の象徴`というのは間違いである)太平洋戦争中は禁令 や自主規制などでジャズは鳴りを潜めたが、学生や軍人の中でも密かにレコードを聴いて楽しむ者も多かった。特攻隊員の川柳に「アメリカと戦ふ奴がジャズを聞き」「ジャズ恋し早く平和が来ればよい」などと遺されていることからも分かる。戦後多くの元陸海軍軍楽隊員がジャズ畑へ転向した。戦後の日本には米軍基地が置かれ、ジャズを筆頭とするアメリカ音楽は大々的に日本へと入ってきた。(戦後の人々は戦前と文化的に断絶されたためか、ジャズは戦後世代の象徴としているが、戦前にもジャズはあった)戦後は、服部良一が作曲したブギウギを笠置シヅ子に歌わせたことから始まる。つづいて、江利チエミ、ジョージ川口、ティーブ釜萢(ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木、世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国のポピュラー音楽をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである。また、神戸や阪神間の学生を中心にデキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。1956年に穐吉敏子が、1962年に渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学。1963年には松本英彦がモントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン(1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった。1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行、金井英人、富樫雅彦、日野皓正、菊地雅章、山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里でジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身のフリー志向の原点だと述べる。1970年代初め頃からフリー・ジャズが盛んになってくる。1970年代後半になると、国鉄(現JR)中央線沿線(西荻窪・吉祥寺・八王子など)を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂のプロデューサーが「中央線ジャズ」という言葉を提唱。1965年からびわ湖バレイ・ジャズ・フェスティバル、1977年からライブ・アンダー・ザ・スカイ、1980年からオーレックス・ジャズ・フェスティバル、1981年から神戸ジャズストリートなど、ジャズ・フェスティバルが催されるようになった。過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。ジャズを聴きながら楽しむ喫茶店。日本で1950年代後半から流行り、1970年代から下火となる。
出典:wikipedia
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