元禄文化(げんろくぶんか)とは、江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1707年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化。17世紀中ごろ以降の日本列島は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた。とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心にすぐれた作品を数多くうみだした。そこでは庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現された。ただし、その担い手は武士階級出身の者も多かった。また、同じ上方でも京より大坂に重心がうつると同時に、文化の東漸運動も進展し、江戸・東国が文化に占める重要性が高まっていく端緒となった。元禄文化は、しばしば「憂き世から浮世へ」と称せられるように、現世を「浮世」として肯定し、現実的・合理的な精神がその特徴とされる。もとより貴族的な雅を追求する芸術の成果も一方には存在したが、「民勢さし潮のごとく」と評された民衆の情緒を作品化したものが多く、世間(社会)の現実をみすえた文芸作品もうみ出された。とりわけ、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門は日本文学史上に燦然と輝く存在である。また、実証的な古典研究や実用的な諸学問が発達し、芸術分野では、日本的な装飾画の様式を完成させたとされる尾形光琳や浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれ、従来よりも華麗で洗練さを増した美術工芸品もまた数多くつくられた。音楽では生田流箏曲や新浄瑠璃、長唄などの新展開がみられた。さらに、音曲と組み合わせて視聴覚に同時に訴えかける人形浄瑠璃や歌舞伎狂言も、この時代に姿がととのえられた。元禄時代は、めざましい創造の時代だったのである。なお、日本における1960年代の高度経済成長期の文化隆盛を指すものとして、「昭和元禄」(しょうわげんろく)という言葉が生まれている。16世紀中葉以降、ヨーロッパ人が渡来して当時の日本に世界全体におよぶ地理認識が伝えられると、それまで日本人が依拠してきた本朝(日本)・震旦(中国)・天竺(インド)から成る「三国世界観」は大きく揺さぶられることとなった。中世の日本人が思い描いていた仏教色の強い世界観は変更をせまられ、従来の「三国」がアジアの一画を占めるにすぎないことが広く理解されたのである。日本国内にあっても、世界と日本の地図を裏表に描いた各種の「世界図屏風」が作成され、男女を描いて世界の民族を示した「万国人物図」も刊行された。なかでも、イタリアのマチェラータ出身で明国での布教に尽力したイエズス会宣教師マテオ・リッチ(利瑪竇)が1602年に作成した「坤輿万国全図」は、ヨーロッパの世界地理認識と東アジアの地理認識を組み合わせた当時世界最高水準の世界地図であり、説明が漢字で日本人にも親しみやすいところから、日本にも伝えられて数多く模写され、当時の日本人の世界地理認識に大きな影響をあたえた。やがて、江戸幕府によって長崎貿易を許可されたオランダの人々によって、より正確な世界地図や地球儀がもたらされた。このように多種多様な世界地図が伝来し、それをもとに多くの日本人も世界地図や地球儀製作にたずさわったこと、また、これらがさまざまな形で一般に流布したことは、近世日本文化を特徴づける要素のひとつとなっている。鎖国体制にあっても日本人の海外への関心は失われることはなかったのである。情報空間がひろがり、島原の乱以降の平和によって日本列島全体が経済成長を遂げたことが、文芸・芸術の発展や諸学問の興隆のもととなった。上流社会において維持されてきた伝統的な和歌や連歌に対し、連歌から派生した俳諧では庶民生活に根ざした「おかしみ」を主とし、江戸初期に松永貞徳があらわれて洒落や滑稽によって句をつくる貞門派を形成した。17世紀後期には大坂に西山宗因があらわれ、自由・奇抜で軽妙な趣向を得意とする談林派を形成し、近世の庶民詩ともいうべき独自の地位をきずいた。談林派は江戸にも広がり、延宝から貞享にかけて新興町人層に支えられて全盛期をむかえた。浮世草子で知られる井原西鶴もまた本来は談林派の俳人であり、明暦2年(1656年)、15歳の頃から俳諧を初め、寛文2年(1662年)頃には俳諧の点者となっていた。矢数俳諧もこなし、貞享元年(1684年)には住吉大社で一昼夜に2万3,500句の俳諧を詠むという記録を打ち立てている。「俳聖」と称される松尾芭蕉は、もと伊賀国上野の藤堂家に仕えた武士であり、好学の君主藤堂良忠の近習に取り立てられ、その影響もあって当初は京都の国学者北村季吟から貞門派の俳諧を学んだ。良忠没後の寛文12年(1672年)、江戸に出た芭蕉は談林派の強い影響を受け、深川六間堀に芭蕉庵を営み、そこに住んだ。芭蕉はやがて、奇抜な着想と卑俗な奔放さに走った談林俳諧にあきたらず、連歌の第一句(発句)を文学作品として独立させ、民衆のことばを用いながらも和歌・連歌の長い伝統をいかす蕉風(正風)俳諧を確立した。西行や宗祇ら中世詩の伝統のうえに立った芭蕉は、新味を求めて変わり続ける流行性こそが不易であると唱え、わび・さび・しおり・かるみ・細みなどで示される幽玄閑寂の境地をめざし、これによって俳諧は和歌・連歌にならぶ芸術性の高いものとなった。彼の句の多くは『曠野』『猿蓑』『炭俵』『冬の日』など「俳諧七部集」に収められている。芭蕉の句は多くは俳諧連歌の発句であったが、連句も得意であった。連句には独吟もあったが、多くは連吟であり、何人かの力を集めて全体を構成しなければならなかった。芭蕉はその点、多くの門人に恵まれていたので秀逸な連句をのこすことができたのである。芭蕉はまた、武士の身分を捨てて各地を旅し、門人らと交流しながら、自然と人間を鋭く見つめて『奥の細道』『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』などのすぐれた紀行文もあらわした。ことに「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」ではじまる『奥の細道』は名文として知られている。かれの門人の多くは新興の商人や裕福な農民、武士、僧侶・神官などであり、こうした地方文化人の支持を集めて蕉風俳諧は全国的なひろがりをみた。とくに加賀は蕉風王国とよばれるほど蕉風俳諧のさかんな土地柄であった。尾張もまた俳諧のさかんな土地で、西鶴を師とあおぐ談林派の俳人が100名もおり、芭蕉が名古屋を訪れると蕉風もさかんとなった。上方の元禄俳人として芭蕉と並び称せられる存在が摂津国伊丹出身の上島鬼貫である。鬼貫は宗因・芭蕉の影響を受けながらも「まことの外に俳諧なし」と唱え、作為を加えず自然のままを詠むのが根本であるとして独自の俳風をひらいた。この影響もあって摂津・河内・和泉のあたりでは俳諧の愛好者が多く、元禄年間の南河内郡では郡中のこらず流行し、在郷商人であった三田浄久の『河内鑑名所記』には「女童(おんなわらわ)」「山賤(やまがつ)」まで俳諧をもてあそぶようになったと記録している。なお、浄久は家業のかたわら、俳諧の師匠が前句の題を出し、それに弟子が付句する「前句付」を、師匠とは面識のない不特定多数の弟子との間でもおこなえるよう「清書所」を営んでいた。これは、こんにちでいう通信教育がすでにおこなわれていたことを意味している。寛永から寛文にかけて、近世小説の先駆をなしたのが仮名草子である。仮名草子は、中世の御伽草子の流れをくみ、平易で教訓的ないし娯楽的な傾向を有し、その種類は多岐にわたったが、芸術的には必ずしも洗練されたものではなく、従来の仏教色を払拭し、現世の問題を文学の中心に据えたところに特徴があった。また、その文学的内容にもまして、刊本すなわち印刷本としてはば広い読者層をもったところに意義がみとめられる。ただ、社会の矛盾をとらえる視点をもつものもあり、そのような作品としては、万治2年(1659年)から寛文6年(1666年)にかけての作と推定される浅井了意の『浮世物語』が代表的である。了意には他に『東海道名所記』『伽婢子』があり、また、奥羽の武家出身の如儡子(斎藤親盛)による随筆風の『可笑記』、伊勢の医師富山道冶の『竹斎』、作者未詳の『仁勢物語』などが知られている。『二人比丘尼』『因果物語』『念仏草子』の作者鈴木正三は、仮名草子によって、特定の宗派にこだわらないかたちでの仏教教化を試み、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた。仮名草子の作者には、公家や僧侶、牢人、学者が多かった。人間中心の文学をさらにおしすすめたのが元禄期にあらわれた井原西鶴である。西鶴の経歴は不詳であるが、大坂の富裕な町人平山藤五とする説があり、それによれば経営を手代にまかせて気ままな生活を選んだとされる。俳諧における師であった西山宗因が他界した天和2年(1682年)、西鶴は自由な散文形式による『好色一代男』を書き上げた。もともと余技として始めた小説執筆であったが、本作品は町人の手による、町人を対象とした、町人を主人公とする、町人の生活相を描いたという点で画期的意義をもち、また、質・量ともに近世小説の最高峰をかたちづくるものであった。小説に転じてからの西鶴は、現実の世相や風俗を背景に、人びとが愛欲や金銭に執着しながら、みずからの才覚で生き抜く姿を描いており、これは浮世草子とよばれ、日本文学に新しい世界をひらいた。西鶴文学の新しさは、「人間は欲に手足のついたもの」「世に銭ほど、面白きものはなし」の言葉が示すとおり、人間の欲望を肯定し、町人の営利の才能や消費生活を楽しむ姿を写実的に描いたことであった。『日本永代蔵』では「三井九郎右衛門」という人物が江戸日本橋の駿河町に呉服店を出店し、「現金掛値なし」の商法で人びとに利便をあたえた一方で巨利を得たことを肯定的に紹介し、金持ちになるためのノウハウが具体的に記されている。そこでは、堅固・才覚・始末・分別・堪忍・正直などの徳目が勤労における実践的な倫理として示されている。また、『好色一代男』では、莫大な遺産を引き継いだ世之介が少年時代から女御の島へ船出する還暦までの恋愛生活を、『世間胸算用』では年末に借金取りに追われる下層町人の悲喜劇を描いた。その文学の特徴は、偶然の積み重ねで人の世が思いがけない転回を遂げることをリアリスティックに描いていることであり、その文章はまた、余分な語や無駄な文のない緩急自在の性格をもっている。代表的な作品には、『好色一代男』『諸艶大鑑(好色二代男)』『好色一代女』『好色五人女』『好色盛衰記』『西鶴置土産』などの好色物、『武家義理物語』『武道伝来記』などの武家物、『日本永代蔵』『世間胸算用』『西鶴織留』などの町人物、『西鶴諸国ばなし』『西鶴俗つれづれ』『本朝二十不孝』『本朝桜陰比事』などの雑話物がある。西鶴はまた、俳諧や浮世草子ばかりではなく、浄瑠璃の脚本や役者評判記を書き、他人の本に挿絵まで提供するなど、当時におけるマルチタレントぶりをいかんなく発揮している。西鶴につづく浮世草子には、八文字屋自笑による『けいせい色三味線』『役者口三味線』などの「三味線物」があり、八文字屋の代作者として活動したこともある江島其磧は『世間子息気質』『世間娘容気』など「気質物」を著した。これらは京都の八文字屋から出版されたことから八文字屋本といわれた。浮世草子は、京・大坂の都市町人のみならず、商品生産の先進地であった畿内農村でも富農・富商らによって愛読された。越前藩士の子として京都に生まれた杉森信盛が近松門左衛門と名乗り、歌舞伎・人形浄瑠璃の専門的な戯曲作家として活躍したのは、西鶴の活躍とほぼ同時期であった。近松は、天和3年(1683年)に曾我物の『世継曽我』を京の宇治加賀掾のために著したが、これが彼の浄瑠璃作品の第一作であった。古浄瑠璃の最後の名人で、完成者でもあった宇治加賀掾のもとで修行したことによって近松の才能は磨きがかけられたのである。貞享2年(1685年)には大坂の竹本義太夫と京の加賀掾が道頓堀で競演したが、井原西鶴が加賀掾のために『暦』『凱陣八嶋』の2作品を書いたのに対し、義太夫は『賢女の手習幷新暦』と近松の新作『出世景清』で対抗した。景清は『平家物語』や能楽、幸若舞でも取り上げられた題材であったが、近松はそこから悲劇的な葛藤をとりだして、人間性豊かなドラマに仕立てたのである。こうして近松の脚本は竹本義太夫と出会い、義太夫自身によって語られて民衆の人気を博した。近松・義太夫が現れてからの浄瑠璃はそれ以前とはほとんど内容を一新させてしまうほどでだったので、それ以前を古浄瑠璃、それ以降を新浄瑠璃(当流)と呼んで区別している。近松はまた、上方歌舞伎の名優坂田藤十郎のために『傾城阿波の鳴門』などの名編を作劇しており、真に浄瑠璃脚本に専心したのは元禄16年(1703年)の『曾根崎心中』が最初であった。近松は、歴史のなかの英雄の姿を描くいっぽう、現実の社会にも題材を求め、義理と人情の板挟みのなかで人間らしく生きようとする庶民の極限状況を描いた。代表的な作品として『曽根崎心中』『心中天網島』『冥土の飛脚』『心中宵庚申』『女殺油地獄』『夕霧阿波鳴渡』『丹波与作待夜の小室節』など当時の世相に題材をとった世話物、『国性爺合戦』『用明天皇職人鑑』『けいせい反魂香』など歴史上の事件に題材をとった時代物などがある。『曾根崎心中』は実際の心中に取材した世話物の第一作であり、ことにお初徳兵衛道行の場面は名文として知られ、荻生徂徠をして嘆息せしめたといわれている。『心中天網島』もまた親子、夫婦、恋人の間の愛が封建社会の通念や金銭がからんで身動きできず、心中へと追い込まれる葛藤を描いた名作である。『曾根崎心中』の興行が成功したことにより義太夫はそれまでの多額の債務を完全に返済し、自らは身を引いて竹田出雲に竹本座の経営を任せ、近松はその座付作者として脚本執筆に専念することができるようになったといわれる。西鶴のリアリズムに対し、近松を特徴づけるのはそのヒューマニズムであり、ともに近代主義の見地からみても評価が高い。若い男女が死ななければならないほど愛し合う姿は近代的な観念としての恋愛を日本で初めて描いたものといえるのである。近松につづき、上方からは『八百屋お七歌祭文』の紀海音、『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の竹田出雲があらわれ、近松半二、錦文流、並木川柳などの劇作家を輩出した。なお、竹本座再発足のために著された『用明天皇職人鑑』では、この時期の上方都市民による「和朝」「神国」の日本意識が示され、『持統天皇歌軍法』では農民によって構成された義勇軍が持統女帝のために戦う場面がある。また別の作品では「関東」が批判されるなど、当時の上方町人が人民を武威で抑える領主支配に対して批判的意識をもっていることなどがうかがわれ、それと同時に朝廷に対する親近感が示されているのである。後述する遊里とならんで町人たちの歓楽の場となったのが劇場である。劇場の発展が最初にみられたのは阿国歌舞伎以来の伝統を有する上方であった。京では、延宝のころ四条大橋の東側に歌舞伎・浄瑠璃の芝居小屋が7箇所、四条通りの南北に面して立ち並んだ。大坂では道頓堀を中心に、歌舞伎物真似・からくり物真似・狂言物真似など6箇所に営業権の免許が下りた。江戸では寛永から万治にかけて、都座、村山座、山村座、森田座などの劇場が現れるが、のちに堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座の、いわゆる江戸三座の基礎がすえられた。歌舞伎などの興行は、当初は公許を必要としなかったが、寛文期にはいって幕府の芸能統制が整えられ、町奉行が公認する「名代」と称する興行権を取得しなければならなくなった。このような興行制度は東西で相違があり、江戸では名代・座元・芝居ともに1人の持主に相続され、たとえば中村座は勘三郎、市村座は羽左衛門が役者として興行権を持って世襲的に興行を運営したが、上方では直接興行をおこなう座元が、寛文から元禄にかけて芸団を編成して名代を借り、劇場と契約をむすぶかたちをとった。上方における名代が利潤を生むものとして売買の対象になると、歌舞伎そのものの商品化もいっそうすすみ、役者評判記が刊行されるようになった。公許によって常設の小屋が整備されると劇場施設の改良や拡充も進み、桟敷・引幕が使用され、寛文以降は板塀・筵屋根が設けられるようになり、元禄期には劇場の全蓋形式がほぼ完了した。享保に入ると劇場全体が屋根に覆われるようになって雨天興行が可能となったが、これにともなって興行時間ものび、延宝以降は12時間におよぶこともめずらしくなくなった。演目も増え、役者の数も増加し、劇団の確立をみるようになったため、従来、「河原乞食」などと称されて準賤民の扱いを受けていた歌舞伎役者・浄瑠璃太夫・説経太夫・舞太夫などの社会的地位も向上した。観客数も増加し、元禄以降は婦女子の観客数が男子をしのぐに至っている。近世の歌舞伎・説経節・浄瑠璃は、武家・貴族・寺社をパトロンとせず、広汎な庶民層の支持によって成り立ち、主として観客の入場料で成り立っていた点で、真に庶民による庶民のための芸能であった。歌舞伎は、歌と踊りを中心とする舞台芸能から、物語性を重んじる演劇へと変化した。郭制度の公許にともなって、初期の女歌舞伎(遊女歌舞伎)は風紀を乱すとして他の女性芸能ともども寛永6年(1629年)に禁止された。少年(稚児・若衆)による若衆歌舞伎も初期の時代にはさかんであったが、この段階で先行する能や狂言の舞が導入され、物真似などの個人芸が成立するとともに放下・蜘蛛舞など軽業の要素が加わったとされている。ところが承応元年(1652年)、若衆歌舞伎もまた風紀をみだすとの理由で全面的に禁止された。それに対し、歌舞伎再開をのぞむ庶民の声にはきわめて根強いものがあったので、俳優が若衆の象徴である前髪を切り払い、扇情的な舞・踊りを排して「物真似狂言づくし」のみを演ずるということを条件に再開がゆるされたといわれている。これ以降、成年男子のみが演ずる野郎歌舞伎として現代に引き継がれている。ただし、この条件は一方では、歌舞伎を容色本位の芸能から技芸本位の芸能に深化させる契機になったとも評される。また、寛文以降は、演目に2番つづき、3番つづきの狂言が仕組まれるようになって多幕物が発生し、このことは、演劇内容が筋立てを中心とする複雑なものへ進化していったことを物語る。さらにこの多幕物が、引幕や花道の出現を促したように、舞台構造・装置にも創意工夫がほどこされるようになった。演劇批評の分野は、延宝2年(1674年)の『野郎評判蚰蚰(げじげじ)』以降いっそうさかんになり、元禄末頃までに43点もの役者評判記が刊行された。これは、歌舞伎そのものの流行とともに、その質的な発展を物語るものであり、さらに演技力向上を促した。延宝年間以降は、立役、敵役、若女房、若衆方、花車方、道化方、子役など役柄の分化が進展し、貞享・元禄期には立役や女形役者のなかから多くの名優があらわれた。上方では、貞享年間の大坂で嵐三右衛門があらわれ、その一座からは初代竹島幸左衛門、藤田小平次、荒木与次兵衛などの名人が現れた。元禄には京の竹島幸兵衛、山下京右衛門、坂田藤十郎の3名が台頭し、とりわけ初代藤十郎は廓物をふくみ恋愛などを優美に演じる傾城事(和事)の達人として、その写実的な演技には定評があった。役者の子として生まれた藤十郎は延宝6年(1678年)、大坂での『夕霧名残の正月』によって名をあげたが、これは彼の生涯にわたる中心的な演目となった。また、いわゆる女形の演技は上方の水木辰之助と芳沢あやめ、荻野沢之丞らが名優として名高かった。なお、元禄時代の上方歌舞伎に特徴的なのは、「仕組み」の多くが「お家騒動」の構造をもつことであった。お家騒動は、そこに危機的状況、義理人情の倫理、恋、因果、愁嘆など人生のさまざまな局面を盛るのに適しており、上述した各種の役柄にそれぞれの持ち場・見せ場をあたえ、これが、いわゆる「和事」の演技様式確立に大きく寄与したのである。華やかで妖艶な上方歌舞伎に対し、江戸ではそれ以前に流行した金平浄瑠璃を歌舞伎化した、勇壮活発な演技が人気を博し、元禄ころには、歌舞伎の盛行は上方に劣らぬものとなった。金平浄瑠璃とは坂田金時の子の金平が少年四天王の一人として縦横無尽に活躍し、超人的な力を発揮するものであった。初代市川團十郎は、侠客として知られた唐犬十右衛門と親しかった菰重蔵の子であり、延宝元年(1673年)に14歳で『四天王稚立』の坂田金時役で初舞台をふんだ。團十郎は金平浄瑠璃を積極的に取り入れ、多くの脚本を自作自演して、独特の隈取り、誇張された衣装、荒々しい六方の足拍子、見得を切る所作など「傾き者」の風俗と独特の演技術で大評判となった。こうして「荒事」の演技術が團十郎によって大成され、とくに『勝鬨誉曽我』『助六』『暫』は江戸市民のあいだに絶大な人気を博し、元禄7年(1694年)には上洛して京都でも大当たりしている。彼は曽我五郎や鎌倉権五郎景政を演じることを好んだが、自作の『兵根元曽我』で五郎が不動明王になって登場したとき、下総国成田周辺からの見物者が多かったため、のちに成田不動に詣でたことが機縁で「成田屋」を称したといわれている。2代目市川團十郎は父である初代團十郎の芸を継承し、勇壮な荒事芸を大成した。團十郎とならんで江戸で人気があったのは中村七三郎である。團十郎の荒事に対し、和事を得意とし、曾我物では十郎を演じた。元禄10年から11年にかけては上洛し、京都の観客を魅了している。歌舞伎狂言は、単に小屋での観劇にとどまらず、市井に声色が流行したり、役者絵が刊行されるなどの社会現象となり、町人の生活に多方面に根をおろし、人形浄瑠璃とならぶ庶民の娯楽として文化全般に影響をあたえたのである。浄瑠璃は、中世の平曲や『太平記』をはじめとする辻講釈などの伝統を受け、それらとは異質な語りもの芸能として成立した。当初の代表作が『浄瑠璃姫物語』であったことから、その名がつけられた。近世初頭にあって、琵琶に代わって三味線が伴奏楽器となり、西宮の傀儡子の人形と提携したことから、語り・三味線・人形の三者による共同芸能に進化した。また、杉山丹後掾と薩摩浄雲によって京から江戸へともたらされた。なお、語りだけの浄瑠璃ものこっており、「仙台浄瑠璃」「奥州浄瑠璃」と呼称されている。浄瑠璃は、はじめは江戸の金平浄瑠璃に代表されるような、豪快勇壮な語りものであったが、それが筋立てによる芝居として本格的な総合芸能として進展するのが寛文・延宝年間であり、上方では井上播磨掾と宇治加賀掾の2人の名手があらわれた。この上方浄瑠璃を大成させたのが、貞享元年(1684年)に大坂の道頓堀に櫓をあげ、竹本座を創設した竹本義太夫である。義太夫は、浄瑠璃の諸流を総合し、小唄や俗謡・民謡などの長所を取り入れて、それまでの古浄瑠璃の曲調とは異なる義太夫節という独特の語りを完成させた。義太夫節は人形浄瑠璃の最盛期を形成したのみならず、その後の浄瑠璃の曲節の主流をなした。劇としての人形操り芝居を、歌舞伎と並ぶ近世芸能の地位に上昇させるために力あったのが、上述の近松の戯曲である。生来の美声に恵まれた竹本義太夫であるが、作者に近松、興行師に竹田出雲、人形遣いに辰松八郎兵衛・吉田三郎兵衛、三味線に竹沢権右衛門という人材にも恵まれていたのである。竹本義太夫の弟子であった竹本采女(豊竹若太夫)は元禄16年(1703年)に豊竹座をおこし、座付作者の紀海音をおいて竹本座とともに人形浄瑠璃の最盛期を築いた。義太夫節とならんで語りもので京で名を上げたのが都一中で、かれのつくった一中節は宝永年間以降江戸でも流行した。江戸ではまた、正徳のころ江戸半太夫が半太夫節をひらき、ついで、その門下の天満屋藤十郎が河東節の一流を語った。中世に興起した語りもの芸能である説経節は、「苅萱」「俊徳丸(しんとく丸)」「小栗判官」「山椒大夫」「梵天国」「愛護若」「信田妻(葛の葉)」「梅若」「法蔵比丘(阿弥陀之本地)」「五翠殿(熊野之御本地)」「松浦長者」など中世に起源をもつ物語を主な演目とし、主人公の苛烈な運命と復讐、転生などをモチーフに下層民衆の情念あふれる世界を描いた民衆芸能である。説経節は長らく乞食芸として大道芸・門付芸としておこなわれてきたが、近世に入って、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられて庶民の人気を博し、万治から寛文にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった。義太夫節に押されて早々と廃れてしまった上方に対し、江戸は三都のなかで最も説経節がさかんで、元禄年間には天満重太夫、武蔵権太夫、吾妻新四郎、江戸孫四郎、結城孫三郎らが櫓をかかげて説経座を営んだほか、語り手としては村山金太夫や大坂七郎太夫ら著名な説経太夫がいた。しかし、18世紀初頭をすぎると江戸においても説経節による人形操りは衰退し、享保年間にあらわれた2世石見掾藤原守重あたりを最後に江戸市中の説経座は姿を消し、再び、大道芸・門付芸となっていった。この過程で古い説経節のスタイルは消え、構成も詞章も浄瑠璃の影響を強く受けた説経浄瑠璃のかたちになった。祭文は、神道に主たる起源を有し、本来は祭りのときなどに神祇に対して祈願や祝詞として用いられる願文であったが、神仏習合の進行著しい中世にあっては山伏修験者に受け継がれ、錫杖や法螺貝を伴奏として歌謡化する一方、修験の旅にともない日本列島各地に広がり、下級宗教者や門付芸人の手にもわたって普及した。江戸時代に入ると、祭文は説経節同様に三味線などと結びついて歌謡化し、これを「歌祭文」もしくは「祭文節」と称した。歌祭文(祭文節)は、元禄以降、「八百屋お七恋路の歌祭文」「お染久松藪入心中祭文」などの演目があらわれ、世俗の恋愛や心中事件、あるいは下世話なニュースなども取り入れ、一種のクドキ調に詠みこむようになった。歌舞伎・浄瑠璃の演目として知られる『桜鍔恨鮫鞘』のもととなった古手屋八郎兵衛のお妻殺しの事件も、当初は歌祭文で歌われた作品である。歌祭文に対し、錫杖と法螺貝のみを用いた「デロレン祭文」(貝祭文)は、同様に世俗的な演目を扱いながらも語りもの的要素の強い芸能として残った。やがて、祭文と説経節は結びついて「説経祭文」と称されるジャンルを生んでいる。放下は田楽法師の伝統を受け継ぐ雑芸である。室町時代から近世にかけてみられた大道芸のひとつで、もともと禅宗の「放下(一切を放り投げて無我の境地に入るの意)」に由来するが、「投げおろす」の原義から派生して鞠(まり)や刀などを放り投げたり、受けとめたりする芸能全般をあらわすようになったと考えられる。放下は、従来の散楽や田楽から学び習った曲芸や奇術を専業化し、人びとが行き交う大道や市の立つ殷賑の地などで演じて人気を博し、演者には田楽法師と同様に僧体をしている者も多く、その場合は「放下僧」と呼ばれた。また、烏帽子をかぶり、笹竹に恋歌の書かれた短冊を吊り下げ、それを背負って歩く放下師もいた。放下は、近世にいたって俗人の手にうつったが、従来の品玉(しなだま)、八ツ玉、手鞠、弄丸(ろうがん)といった曲芸だけではなく、鞠の曲、玉子の曲、おごけの曲、うなぎの曲、枕の曲(枕返し)、籠抜け、皿回しなども演じた。また、放下芸と獅子舞を生業とする伊勢太神楽の集団が成立したのも近世初頭である。いっぽうで小屋掛けがなされるようになり、寄席演芸のひとつとして、大がかりな曲芸や手品もおこなうようになった。手品は、山芋をうなぎにする、籠より小鳥を出す、絵を鶴にするなどといったもので、元禄年間に活躍した有名な手品師、塩の長次郎も放下師の出身であった。また、『京都御役所向大概覚書』という史料によれば、寛文9年(1669年)、豊後屋団右衛門という人物が歌舞伎などの興行に対抗して「放下物真似」の名代が許されている。江戸時代前期にあってはまた、当時流行の歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)との提携も進み、その幕間におおいに演じられた。江戸歌舞伎の座元(太夫元)となった都伝内も放下師の出身であったという。元禄以降、しだいに劇場からはすがたを消し、大道芸に回帰していった。現代「落語」と呼ばれる「落とし噺」が始まったのも元禄時代であった。上方では辻で、江戸では座敷で人びとを集めて噺を聴かせたのが落語家(噺家)の始まりとされている。京都では天和・貞享のころ、もと日蓮宗の談義僧であった露の五郎兵衛が四条河原や北野などの大道で活躍した。これを「辻噺」といい、五郎兵衛が机のような台(見台)に座って滑稽な話をし、ござに座った聴衆から銭貨を得るというものであった。五郎兵衛は、後水尾天皇の皇女の御前で演じたこともあった。少し遅れて大坂に米沢彦八が現れて人気を博した。彦八は生玉神社の境内で小屋掛けの辻噺をおこない、名古屋でも公演した。『寿限無』の元になる話を作ったのが、この初代彦八であるといわれている。同じころ、江戸の町では塗師職人であった大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋に呼ばれ、あるいは酒宴など、さまざまな屋敷に招かれて演じる「座敷噺」(「座敷仕方咄」)を始めて評判となった。時期をほぼ同じくして三都で活躍した上記3名は、いずれも不特定多数の観客から収入を得ていることから噺家の祖とされる。ただし、江戸の武左衛門が些細なことから流罪に処せられたことから、江戸の「座敷噺」人気はいったん下火となった。落語が寄席で不特定多数の聴衆から木戸銭を得て興行をおこなうのは、こののちのことである。江戸期に入り、幕府が能楽を武家の式楽としたことから発展し、とくに将軍徳川綱吉は能狂言に心酔すること論語を愛することにひけを取らないほどであり、江戸城にしばしば観世座・金春座・宝生座・喜多流の太夫を召して能楽を催し、自ら演じて諸大名に観覧させた。やがて聖堂でも護国寺でも演じられ、各座の能楽師たちは御家人の列に加えられるようになった。幕府の高官・旗本・諸大名などでも社交上ないし教養として能を舞い、謡をたしなむ者が多くなった。4代徳川家綱は琵琶や幸若舞を愛好したが、綱吉は能楽を偏愛したため、琵琶や幸若はこれを機に衰退したほどである。貞享年間に彦根藩では猿楽師55人を擁したという記録があるように、諸藩でも能楽師を士分としてかかえることが多かった。加賀藩主前田綱紀もしばしば江戸城内で演能したひとりで、家中の武士や細工所の職人にまで奨励し、宝生流にかぎっため、加賀宝生の伝統が形成された。農村や遊里でも能楽の流行がみられたことは、『好色一代男』などのような文学作品や諸国の記録によっても知られている 。この時代、永禄年間に和泉国堺に伝来した三味線が歌舞伎や人形浄瑠璃とむすびついて庶民音楽の中心的楽器となり、古来雅楽の楽器であった箏は歌の伴奏楽器として用いられるようになった。琵琶では雅楽や平家琵琶とは異なる琵琶楽が生まれ、尺八では、17世紀中葉以降、従来の一節切に加え普化尺八と呼ばれる太い尺八も用いられるようになった。能楽で用いられてきた能管・小鼓・大鼓・太鼓などは歌舞伎の伴奏でも用いられたが、そこでは能楽では用いられなかった独特なリズムや奏法が付け加えられた。雅楽は公家の音楽、能楽は武家の式学、近世に生まれた歌舞伎や人形浄瑠璃は庶民に愛好された芸能として身分に対応して理解されることが多く、事実その通りであるが、一方では身分を超えた交流も多かった。上方と江戸の文化交流も活発で、こうした交流が相互に影響をあたえあって多様な音楽ジャンルの生成を促した事実は否めない。同時に、素人による音楽活動、稽古事としての音楽が伸張したのも、元禄時代であった。武家が能役者に扶持や所領をあたえて生活保障をおこなうようになったのは豊臣秀吉にさかのぼるが、江戸幕府もそれを引き継ぎ、能は幕府の式楽としての役割をになうようになった。具体的には将軍宣下の祝賀能や新年の謡初、また公家への饗応の際にもしばしば能が演じられ、上述のとおり、能を愛好した将軍・大名も少なくなかった。平家琵琶(平曲)は、鎌倉時代に琵琶法師によって始められた語りもの音楽であったが、江戸幕府はこれを将軍家の儀式音楽の一つとして採用し、歴代将軍の葬儀や年忌供養にあっては写経を勤めるあいだ平家琵琶を演奏するという頓写法要がこなわれた。諸大名もこれに倣うものが少なくなかった。将軍綱吉自身が平家琵琶の演奏を聴いた記録も残っている。幕府は盲人音楽家たちの組織である当道座に、一種の福祉政策として特権的な地位をあたえた。当道座の音楽家にとって表芸はあくまでも平家であったが、三味線や箏も弾いた。三味線も箏も庶民に愛好された楽器であったが、幕府が正式にお墨付きをあたえたのは当道座所属の盲人男性のみであった。元禄時代の京都では生田検校によって生田流箏曲が生まれた。生田検校は、俗箏の開祖である八橋検校の孫弟子に相当し、正徳5年(1715年)に没したと伝わるが、その生涯はよくわかっていない。雅楽は公家を中心に伝えられてきた音楽であるが、江戸時代にあっては武家の経済的援助で活動が支えられるようになった。戦国時代末期に京都・奈良・四天王寺(大坂)に三方楽所が成立しているが、江戸幕府は三方のそれぞれ17名、計51名に知行をあたえて保護しており、禁裏が扶持をあたえた楽人23名よりも多かった(ただし、重複を含んでいる)。また、幕府は寛永19年に三方楽人の一部を江戸に下向させ、城内紅葉山の祭祀や日光東照宮の祭礼、外国の使臣の饗応などのために演奏をおこなわせており、雅楽は以降紅葉山楽人によって伝承されることとなった。また、三方楽所の総代は年頭挨拶のため下向することが恒例となった。なお、佐賀藩の筑紫箏曲や薩摩藩の薩摩琵琶など、特定の藩と結びついて地域に根ざした音楽もあった。庶民の音楽活動の中心は三味線音楽であった。楽器の細部を改造した三味線は、浄瑠璃などの語りもの音楽や当時の流行歌である小歌の伴奏に用いられた。さらに、三味線伴奏の小歌で踊る芸能が歌舞伎へと変化していったことで、三味線は劇場音楽に欠かせない楽器となった。上述した義太夫節は大坂で、都一中(都太夫一中)のはじめた一中節は京都で、江戸では半太夫節や河東節などが新浄瑠璃の三味線音楽として隆盛した。三都三様を呈する浄瑠璃の曲節が成立したが、河東節などの江戸節は優雅で淡泊、一中節は優艶、義太夫節は深刻さなど、それぞれ異なる特徴を有した。また、一中門下の 宮古路豊後掾が名古屋や江戸で評判となったのが豊後節で、そこから常磐津節、富本節、清元節が派生している地歌(地唄)では野川検校による野川流や佐山検校による佐山流、市川流、早崎流などが生じて隆盛し、お座敷音楽として長唄が隆盛したのも元禄のころからである。元禄期の絵入りの職業百科事典『人倫訓蒙図彙』によれば、当時、大道芸・門付芸としては、上述した説経節、祭文、放下のほか、念仏や経を独特の節をつけて唱える門経読や歌念仏、鐘を打ちながら念仏踊りをおこなう念仏申・鉢敲・八丁鐘、いたか(卒塔婆書)に曲芸的要素を付加した高履、悪魔を退散させる獅子舞、獅子舞と曲芸を結びつけて伊勢神札を配る伊勢太神楽(代神楽)、人形遣いをともなう夷舞、新年を言祝ぐ萬歳、『太平記』を朗読し、講釈する太平記読み、盲人男性(座頭)・盲人女性(瞽女)による音曲などがあり、これは勧進の範疇(「勧進もらい部」)にあった。同書では、芝居(歌舞伎、浄瑠璃)については遊郭、職人・商人とならび「職之部」に含めており、「能芸部」には歌や俳諧などの文芸、儒・算・医・按摩などの学芸、馬・槍・太刀などの武芸、茶道や庭、立花、将棋などの遊芸のほか、歌舞音曲があった。歌舞音曲には、舞楽、笙、琴、能、地謡、鼓、太鼓、狂言、舞、尺八、一節切などがあり、「能芸部」に属する諸芸の演者は技能者であると同時に、芸能を一般の人に教える師匠の資格を有した。美術では、上方の有力町人を中心に、寛永期の文化を受け継いで、いちだんと洗練された作品が生み出された。絵画では狩野探幽が江戸城や名古屋城の障壁画を描き、その一門は狩野派として幕府御用絵師の地位を得た。探幽(守信)・尚信・安信の兄弟とその係累を江戸狩野と称するのに対し、豊臣氏の御用絵師であった狩野山楽・山雪の家系は許されて京に住したため京狩野と称している。江戸狩野はまた、その住所によって鍛冶橋狩野・木挽町狩野・中橋狩野などと呼んでいる。狩野派は殿中の障壁画を描き、将軍に絵の指導をしたり、また諸大名や旗本も狩野派の絵で城郭や屋敷を飾ったので、かたちのうえでは全盛期ではあったが作品は新鮮味に欠けるようになった。一方、大和絵の系統では堺にあった土佐光則と光起が京都に戻り、土佐派の復興がなされた。伝統の手法を復活させた土佐光起は朝廷に召し抱えられて宮廷絵所預となり、大和絵に漢画の手法も取り入れ、題材にも工夫を凝らした。この土佐派からは土佐広通があらわれ、寛文年間に鎌倉時代の名手だった住吉慶忍にあやかって住吉如慶を名乗り、住吉派をおこした。如慶は江戸で大和絵の伝播に努め、如慶の子の住吉具慶は幕府御用絵師に取り立てられて、その流れから久隅守景・多賀潮湖(のちの英一蝶)らを出している。久隅守景・英一蝶はそれぞれ狩野探幽、狩野安信にも学んだが、2人とも狩野派の伝統を破ろうとして破門されている。守景はその庶民的な画風が高く評価されており、一蝶は市井の風俗・行事を軽妙洒脱に描いたことで知られる。しかし、元禄期にはいると、これら保守系の画系は全体的にはふるわなくなってしまった。風俗画の分野では、寛永期の岩佐又兵衛を浮世絵の始祖にあげることがある。彼は生前から「浮世又兵衛」と称されていたようであるが、その全面的な展開は菱川師宣を待たなければならない。また、この時代にあっては木版挿絵本がとくに上方でさかんに刊行された。御伽草子、舞曲、古浄瑠璃正本、古典文学、軍記物などに仮名草子が加わり、当初は稚拙で単一色だったものがやがて技巧的なものや彩色の施されたものが出てきた。これらは浮世絵版画の登場に影響をあたえることとなった。元禄時代には、京と江戸を中心に、都市町人による新しい絵画が生まれた。京都では、高貴な人々を上得意とした呉服商「雁金屋」の次男として生まれた尾形光琳が、大和絵の俵屋宗達のはじめた装飾画を大成した。なお、光琳の弟が陶芸の分野で活躍した尾形乾山であり、2人は本阿弥光悦とは遠い親戚にあたる。光琳の画風を構成する要素としては、第一に、京狩野系の山本素軒から学び、晩年江戸に下った際に江戸狩野からもおおいに摂取しているように狩野派の影響があり、『紅白つつじ図』『維摩図』などにそれが見てとれる。第二に、家業から学んだ構成法があり、抽象的な水紋の表現などにみられる。第三には写生に意を用いていたこと、第四に俵屋宗達の影響であり、『風神雷神図屏風』の模写などに典型的にみられる。そうした諸要素が組み立てられて彼自身の造形感覚で秩序づけられた傑作が『燕子花図屏風』と『紅梅白梅図屏風』である。前者は、総金地の六曲一双の屏風に、濃淡の群青で花を、緑青によって葉を描き、その二色以外は用いずにカキツバタを描いて鮮烈な印象をあたえ、左右のバランスも考慮してリズミカルに配置した逸品である。後者は、うずまき流れる水流を銀で描き、しっかり根を張ったウメの木の静と動の対比を抽象化して装飾的にまとめた傑作であり、ともに光琳の代表作として名高い。光琳の絵は、宗達など王朝風の古典主義的な諸作品から影響を受けながらも、斬新なアイディアと感覚的な意匠にすぐれ、蒔絵の手法なども用いて、あでやかな色調と図案的な抽象性を両立させるところに特徴があり、その華麗な画法は「琳派」とよばれる芸術家群を生んだ。琳派を形成した画家に、渡辺始興、深江芦舟、立林何帠がいる。弟の乾山もまた、作品数は少ないながらも絵を描いている。なお、光琳は漆工や染織など工芸分野でもすぐれた作品をのこした。江戸では、17世紀後半、安房国出身の菱川師宣があらわれた。それに先だって上方でも江戸でも寛文美人図という一連の諸作品が流行したが、やがて表現のマンネリ化が進行した。菱川師宣は、土佐派・狩野派などの伝統的な諸様式を吸収し、職人画の様式も消化して、中国の版画の技法も取り入れて庶民画として独自の画風を確立して江戸絵画に画期をもたらした。師宣は当初『伽羅枕』『武家百人一首』『絵本このごろぐさ』『好色一代男』など印刷された挿絵本で名をあらわした。やがて、民衆の需要増に応じて、個人の独占する肉筆画に加え、大量の木版画を手がけるようになった。当時の人びとは版画よりも肉筆画を貴重なものと見なしたが、浮世絵が様式としての生命を長く維持できたのは木版画に新しい技法や表現の可能性を追求でき、また美術品に商品としての価値もつけられ、多くの人の鑑賞にさらされたからでもあった。版画は当初墨一色であったものがのちに色刷もなされるようになり、師宣によって初期浮世絵派の様式的確立がなされたのである。やがて冊子という形式からも脱し、浮世絵は一枚物の版画として発展していった。その代表作『見返り美人図』は立ち姿の女性がなにげなく振り返った一瞬をよくとらえた肉筆画である。こののち、江戸では美人・役者など都市の風俗を題材とする浮世絵が愛好されるようになった。浮世絵木版画は安価に入手できることもあって、大きな人気を得た。師宣以降は鳥居清信があらわれ、役者絵と美人画に大きな影響をのこした。清信は市村座の看板を描いて以来他の各座の看板絵を手がけ、のちに役者絵の一枚刷りを描いた。鳥居派の画法は、のちに江戸歌舞伎絵の主流を占め、上方にも流布するようになって大森善清や西川祐信などが数多くの名品をのこしている。いっぽう清信の美人画は、鳥居清倍、奥村政信および懐月堂派に影響をあたえた。清倍は役者絵・美人画の分野で清信に劣らぬ才能を発揮し、懐月堂安度は美人の立姿を主として肉筆画で量産した。安度自身は江島生島事件に連座するが、彼の工房には20名以上の弟子や画工がおり、安度追放後も量産をつづけた。また、西川祐信の影響を受けた奥村政信は、丹絵・紅摺絵・漆絵の技法を開発し、次代の錦絵全盛時代を準備した。なお、17世紀後半から18世紀初頭にかけて長崎でおこなわれた特殊な洋風表現として、黄檗画像(長崎派)とよばれる一連の肖像画がある。これは、黄檗宗の僧侶を洋風の陰影法を用い、写実的な要素をもった作品群であり、この作者としては喜多元規、喜多元喬、河村若芝らが知られている。仏師としては大仏師康猶が日光東照宮や上野寛永寺などの造像にたずさわり、明からおとずれた氾道生は宇治萬福寺の諸像の制作に従事して明末の技法を日本に伝えたものの、その影響は限定的であった。この時代に光彩を放ったのは上方や江戸の専門仏師よりもむしろ、地方の僧や遍歴の僧であった。そのひとりが松雲禅師元慶であり、宝山湛海であった。京都の仏師出身の元慶は諸国行脚ののち五百羅漢制作を発願し、元禄8年(1695年)に五百数体を江戸で完成させた。宝山湛海はきびしい苦行経験を体現させた唐招提寺不動明王像などで知られる。こうしたなかで近年とくに注目されるのが、ほぼ全国を行脚した遊歴の臨済僧円空である。かれは蝦夷地、奥羽、関東、中部など東日本各地を布教するかたわら、ナタやノミの荒々しい感触をのこす鉈彫の技法によって、素朴で力強い神像・仏像を十万体とも十二万体ともいわれる彫像を制作しつづけた。この彫像は当時の伝統的仏教彫刻にはみられない造形であり、その分布は奥深い山あいの地に濃密に分布している。当時にあってそれは、各宗派の教線が未だ十分に及ばない地域であることから、円空は各宗派の勢力圏の空白を埋めるかたちで巡錫し、近世寺院が失った民衆救済としての信仰の場を提供する修験者として造仏活動を展開したのであり、半面では職人である仏師と聖職者である僧侶に区分される以前の仏師僧(造物聖)の姿でもあった。陸奥国八戸はこのような造仏のさかんな地域であり、正徳年間を中心に2,000体もの造仏をおこなった大慈寺の奇峰学秀や同地出身の津要玄梁の活動が知られている。書道では、和様が桃山時代から江戸時代初期にかけて古典復興の気運にのって発展し、ことに近衛信尹、本阿弥光悦、松花堂昭乗の3人は「寛永の三筆」と呼ばれるほどであったが、元禄期には博覧強記で知られた近衛家熙が藤原行成の書風を深く研究して稀代の能書家といわれた。ただし、彼をのぞくと全体的には停滞傾向にあった。この時期で特筆されるのは、尊円流(青蓮院流)の系統をつぐ御家流が幕府の公用文書の書体として採用されたこともあって、印刷物などを通してひろく民衆に普及したことである。ただし、これはもっぱら実用に徹した書風であって芸術性を指向したものではなかった。天下泰平の世にあって女性も書きものをする機会が増え、「女筆」と呼ばれる手習いが御家流とともに生まれた。女筆の手本としては大橋流と玉置流が知られていたが、ともに男性によるものであり、女性の手になるものとしては慶安5年(1652年)刊行の2代目小野お通(真田信政夫人)筆の『女筆小野おづう手本』が最初である。元禄13年(1700年)に女訓書『女今川』を筆書した沢田お吉もまた能書家として知られる女性であった。一方、中国的な書風では、武家出身の石川丈山の隷書が注目される。また、隠元、木庵らの黄檗僧や儒者朱舜水らによって明の書風が伝えられ、新しい書風として「唐様」が知識人のあいだに流行した。肥後国熊本藩の儒医の家に生まれた北島雪山は唐様の名手として知られている。隠元・木庵は篆刻をよくし、また、承応2年(1653年)に来日した独立性易は学識深く、本国にいたときから篆刻で有名であった。彼は隠元にともなわれて江戸を訪れ、正しい書法を啓蒙し、明代の篆刻を広く伝えている。工芸分野では桃山時代に端を発した清新大胆なデザインが町人の創意を加えていっそう洗練され、とくに蒔絵・陶磁・染織では高いレベルに達した。また、各藩の産業振興策とあいまって地方工芸が発達し、大衆生活のなかへ普及していった。茶器の需要が高まり、陶芸の発展も著しかった。有田・唐津を擁する肥前国の窯業では、古伊万里・色鍋島のいわゆる色絵磁器が元禄から享保にかけて大発展を遂げ、技術面でも量産の点でも最盛期となった。有田の酒井田柿右衛門が成功した赤絵付は、濁手と称される乳白色の素地を生かし、赤など鮮明で美麗な色彩と細い描線で人気を呼び、有田一帯で焼かれるようになり、積み出し港である伊万里港の名によって「伊万里」と称された。元禄期には市井・村落の風俗やオランダ船なども描かれるようになり、オランダを経由して未だ磁器を有しないヨーロッパ諸国にも輸出された。また、有田・伊万里を領する佐賀藩では藩直営の窯を有して厳しい監督のもと高級品をつくらせたが、これが色鍋島である。朝鮮から伝来した九州や防長の諸窯に対し、この時代には、国内窯業の伝統を濃厚に保持した京都の陶芸の勃興も著しかった。京都の野々村仁清が上絵付法をもとに色絵を完成して京焼を大成し、清水焼をはじめ洛中洛外の諸窯に影響をおよぼした。仁清は、丹波国出身の陶工で名を清右衛門といい、当初洛東の粟田口焼で修行し、さらに腕に磨きをかけるために尾張国まで出向いて瀬戸焼を学び、茶人金森宗和の推挙で京都仁和寺の門前に御室窯をひらいた。「仁清」の号は窯の所在地である仁和寺と本名の清右衛門より一字ずつとったものである。仁清の作品は、ロクロや彫塑による、神業に似た成形の妙に特色を有した多様な茶器・懐石道具であり、ほとんどが貴族趣味を漂わせる富裕層むきの高級奢侈品であり、日本情緒のただよう名品が多い。とくに、藤、山寺、吉野山、若松、けし、月梅などを図様にした大ぶりの茶壺は彼の意匠の独創性や卓越性を示しており、法螺貝や雉をモチーフとした香炉などは洒脱な彫塑作品である。「雁金屋」の三男であった尾形乾山は、仁清から作陶を学び、元禄12年(1699年)に陶法修得の証として秘伝の陶法書を伝授されている。乾山は、独特の絵付けをおこない、兄の光琳の画風もいかして装飾的で変化に富む高雅な意匠をうみだした。かれの鳴滝窯の作品は、絵と書と陶を融合させた斬新な意匠で知られ、色絵楽焼にも学んで茶陶の世界に新境地をひらいた。光琳が派手好みの芸能を好む道楽者であったのに対し、乾山は隠逸を好む読書人で脱俗的であり、その作品もまた、前者の明快な造形美に対し、後者は滋味豊かな情趣美に持ち味があって、それぞれ好対照をなしている。この作風の違いはしばしば「光琳の金」に対して「乾山の銀」と形容されることがある。乾山はのちに江戸に住し、一時下野国佐野におもむいて作陶したこともあり、その作品はそれぞれ「入谷乾山」「佐野乾山」と呼ばれている。野々村仁清の子の伊八が乾山の養子となって2代目乾山を名乗っているなお、備後国の姫谷焼の色絵は、寛文年間のごく短い間のみ焼かれたものであるが、その清純な美しさは高く評価されている。桃山文化期にめざましい発展をとげた絞り染や縫箔による小袖・能衣装のデザインは、均等な文様の繰り返しから非対称で流動的なものへと変化したが、その傾向は江戸時代に入っても受け継がれ、寛文年間には寛文小袖と称される、小袖全体を大きな一つの画面と見立てる意匠がうまれた。寛文小袖のデザインは多様で、あらゆるものが大胆に取り上げられ、ここにおいて、中世的・外来的なデザインではなく、独自の日本的意匠の確立がみられる。高級織物や生糸は長きにわたって中国からの重要輸入品であったが、この時代には国内養蚕業の発達により上質な生糸がつくられ、西陣で高級織物がつくられるなど国産化が進んで求めやすくなったことと経済成長によって需要も増えたことで染織の技術も進展したのである。小袖はその形態上、染織による自由な絵模様の発達をうながした。桃山時代の辻が花は必ずしも量産に適さなかったが、17世紀末ころから、扇の意匠を小袖に応用するなかで開発された「友禅染」とよばれる染色技法が流行するようになった。友禅染の名は京都の画家宮崎友禅斎にちなむと伝えられるが、必ずしも明確な根拠にもとづくものではなく、従来一部でおこなわれていた茶屋染など糊防染の手法が開花・進歩したものとみられる。いずれにせよ、これによって、布地に花鳥山水を自由に染色した小袖が量産できるようになり、綸子や縮緬の生地には華やかな模様があしらわれるようになった。光琳風の精巧優美な模様も描かれるようになり、「元禄模様」として人気を博し、この技法は加賀にも伝えられて加賀友禅と称された。友禅染や刺繍によるぜいたくな染色がなされる一方で、かすりや木綿絞り、縞物や小紋、中形など庶民の日常生活に密着した染物もあらわれ、諸藩の産業振興と相まって幾何文を主とする素朴で機能美にあふれた衣服も各地でみられるようになった。工芸分野でとくに技術の発展が著しかったのは蒔絵である。寛永期の本阿弥光悦は蒔絵に新局面をひらき、その影響を強く受けた尾形光琳もまた装飾的画風をいかしたすぐれた意匠の作品を残した。ことに、「八橋蒔絵螺鈿硯箱」は古典の『伊勢物語』における八橋とカキツバタの意匠を用いた優品で、上段が硯箱、下段は料紙箱となっている。他に、「住の江蒔絵硯箱」、「紅葵硯箱」、「松に山茶花蒔絵硯箱」など、江戸時代のみならず日本工芸史をかざる逸品である。光琳はまた、扇面や団扇などにもすぐれた遺品をのこしている。室町時代以来の蒔絵師五十嵐派では、五十嵐道甫が加賀前田家に招かれて御用蒔絵所の職を任され、加賀蒔絵を創始した。特異な作家としては小川破笠がおり、陶磁と彫漆などの手法を組み合わせた中国趣味の強い図様の蒔絵をつくったなお、輪島塗、会津塗、津軽塗、出羽能代や飛騨高山の春慶塗、若狭塗、城端塗など地方の漆芸も、この時期以降、生活に根ざした庶民的な工芸品として各地で多彩な発達をみせた。桃山から江戸時代初期にかけては建物の大規模な造営がつづいたため、建物金具の技術は長足の進歩を遂げたが、やがて他の工芸分野や刀剣装飾などにも精密な技巧がほどこされるようになった。印籠や煙草入れを腰に留める根付などには細密な意匠が凝らされ、一方で刀剣装飾では後藤家が名門として絵画における狩野派のような地位を得、後藤家から分かれた奈良家からも名工があらわれた。装剣金工師の横谷宗珉は、当初幕府の彫物御用の後藤家の下地師であったが、元禄初年の1690年頃に独立し、狩野探幽や狩野安信、英一蝶などの作品を下絵に応用して絵風彫刻を創始して、「町彫 (まちぼり)」と称された。これに対し、後藤家の金工は「家彫」とよばれた。近世にあっては、木割りや規矩の技術が発達し、職人の諸技術が解析されて技術書が刊行されて広く普及し、台鉋や大鋸などの大工道具も発達したため、寺社建築では全国規模の技術革新がみられ、その技術は均一化して地域的格差が縮小した一方、その高度な技術が駆使されて各地の風土や嗜好にあわせた地方色豊かな建築が各地でみられた 。長谷
出典:wikipedia
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