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堀栄三

堀 栄三(ほり えいぞう、1913年(大正2年)10月16日 - 1995年(平成7年)6月5日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。階級は陸軍中佐、陸将補。正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、「マッカーサー参謀」とあだ名された。戦中の山下奉文陸軍大将、そして戦後海外の戦史研究家にもその能力を高く評価されている。参議院議員、国土交通大臣(2011年4月 - 2012年6月)の前田武志は堀の甥である。奈良県吉野郡西吉野村(現五條市)出身。伊藤祐一郎の子に生まれ、陸軍航空本部長・第1師団長や留守航空兵団司令官を務めた堀丈夫陸軍中将の養子となる。明倫中学から1927年(昭和2年)4月、東京陸軍幼年学校に入り、1930年(昭和5年)3月から陸軍士官学校に進む。なお、この陸軍士官学校時代に、上海戦の陣地突破のケーススタディーより物量の前には精神主義が役に立たないという教訓を得、後の情報分析の基本的な考えとなった。1934年(昭和9年)6月卒業(士官候補生46期)。同年10月に騎兵少尉に任官。騎兵第26連隊に配属された堀は、1936年(昭和11年)10月に騎兵中尉に進級し、1937年(昭和12年)3月に騎兵第16連隊に移る。同年11月から陸軍騎兵学校丙種学生として学んだ後、1938年(昭和13年)3月から陸軍予科士官学校教官を務め、同7月に騎兵大尉に進級。1940年(昭和15年)12月に陸軍大学校に入り、1942年(昭和17年)11月卒業(陸大56期)。なお、同年(1942年)8月、陸大在学中に少佐進級。同年12月から陸軍戦車学校に勤務。1943年(昭和18年)4月から陸軍士官学校戦術教官。同年10月1日から大本営陸軍部第2部参謀として、大本営に勤務。ドイツ課とソ連課を経て(それぞれの課では両極端な分析方法を採用しており、それが後の分析手法に役立ったとの記録を残している)、アメリカ課に勤務。そこで、アメリカ軍戦法の研究に取り組み、その上陸作戦行動を科学的に分析して1944年(昭和19年)6月に『敵軍戦法早わかり』を完成させ、米軍への水際での突撃や夜間の銃剣突撃は自滅するので行わないようにという内容を伝達した。(内容自体の伝達は、同年3月16日から始めている。)この内容を最初に伝達した師団に、ペリリューの戦いで有名な中川州男がいた。なお、この『敵軍戦法早わかり』が伝達されるまでは、中国戦線での戦訓に基づいて米軍との戦いを行っており、士気が非常に低く突撃によって逃げ出す相手に対する戦い方をとる事で日本軍の損害が非常に増えていた側面もある。この資料の完成後は、硫黄島の戦い及び沖縄戦に代表されるように米軍の被害は増加することになる。なお、サイパンの戦いには内容の教授に間に合わなかったと記録に残している。なお、『敵軍戦法早わかり』以降、大本営内部で意見の調整が行われ、各師団に軍事作戦(戦略)を説明するときに同時に現地情勢及び相手の戦闘方法の情報についても伝達するように切り替わった。1944年(昭和19年)10月13日、『敵軍戦法早わかり』の内容を前線部隊であるフィリピンの第14方面軍に知らせるため、汽車で新田原飛行場に移動したが、折りしも台湾沖航空戦が発生しており、汽車の中でも乗客達はその戦果の話で持ちきりであった。新田原では最初便乗を断られたが、堀は自分が1年に渡って集積した情報とその分析の経験をこの航空戦に生かすため、参謀の威令を発揮し、九州鹿屋の海軍飛行場まで連絡機で移動した。そこでフィリピン行きの便を待っている最中、同航空戦において、「現場の報告を鵜呑みにするあまり、戦果も確認せず敵がやられたと思い込んいるのではないか」と堀は疑い、ピストから出てきたパイロット達に矢継ぎ早に質問をしたが、皆細部は曖昧な答えしか返せなかった。堀は自身の経験に基づいた「勘」を優先し13日19時、大本営陸軍部第二部長(堀の所属長)宛に緊急電報「この成果は信用出来ない。いかに多くても2、3隻、それも航空母艦かどうかも疑問」を打った。後年の堀は「堀が大本営陸軍部第二部長に打った緊急電報を、大本営陸軍部では承知していたと想像されるが、これが握り潰されたと判明するのは戦後の1958年(昭和33年)夏だから、不思議この上ないことである。しかし大本営陸軍部の中のある一部に、今(1989年(平成元年))もって誰も覗いていない密室のような奥の院があったやに想像される」と記している。保坂正康は、この緊急電報が、当時、大本営の作戦参謀であった瀬島龍三によって握り潰された可能性を指摘している。真相は不明だが、現在もこの電報の現物が行方不明なのは事実である。ただし、当該電報の後(15日20時)に堀が打った“特緊(特別緊急)電報”は現存している。15日、鹿屋からマニラへの移動中機体は台北飛行場上空を通過したが、堀は飛行場施設の損害を間近で確認し、上陸に先立って周辺地域の航空基地を念入りに叩く米軍の戦法に違いない旨確信を抱いた。実際、米軍はレイテ島上陸を目的としたキングII作戦を3段階に区分し、第2段階まではそのような目的の空襲として計画していたのである。堀は、10月15日にマニラに到着後、17日に南方総軍司令部第2課で台湾沖航空戦の戦果に再検討を加え、米軍の健在な空母を12隻と計算し、第14方面軍司令官の山下奉文大将、参謀副長の西村敏雄少将に報告した。報告時、折りしも米軍艦載機によるマニラ空襲が行われており、山下大将と西村少将は堀の報告を信じた。同月19日には、憲兵隊から、撃墜した米軍艦載機のパイロットを尋問した結果、ルソン島を空襲中の米軍正規空母が12隻であること、その艦名が全て判明したことが報じられた。大本営海軍部(陸軍部にあらず)の発表した台湾沖航空戦の戦果は全くの誤りで、堀が大本営陸軍部第二部長に打電し、山下大将に説明した通りであったことが明らかになった。次に述べる第14方面軍時代もそうだったが、結果として堀の予想は正確であることが多かった。しかし、世の中には堀がどうしてそのような正確な予想が出来たのか、著述物だけでは納得しない研究者がいる。戦史叢書の編纂経験がある近藤新治は奈良県の堀宅を訪ね、この点について突っ込んだ質問を行い、次のような答えを得た。10月27日から第14方面軍作戦参謀、1945年(昭和20年)2月1日からは再び大本営陸軍部第2部第6課(米国班)参謀を歴任し、終戦後の9月に陸軍省軍務局課員、10月に予備役編入(最終階級は陸軍中佐)。郷里の奈良県吉野郡西吉野村に帰り、健在であった父の堀丈夫中将と共に農耕に従事。戦後、1954年(昭和29年)に陸上自衛隊に入隊。吉田茂首相の軍事ブレーンとして、自衛隊の創設に大きな力を有した辰巳栄一陸軍中将の「情報の分野で働くように」という勧めに応じたものだった。陸上幕僚監部第二部国外班長に就任、1959年(昭和34年)10月24日から初代駐西ドイツ大使館防衛駐在官(駐在武官に相当)を経験し、1963年(昭和38年)10月末には統合幕僚会議第二室(防衛省情報本部の前身)室長に就任する。1967年(昭和42年)3月、陸将補で退官。1974年(昭和49年)から大阪学院大学ドイツ語講師となる。1991年(平成3年)4月から郷里の西吉野村の村長を務め、名産吉野柿の普及に力を入れた。二期目在職中の1995年(平成7年)6月5日、ガンのために死去、享年82。戦後の堀は、陸上自衛隊を陸将補で退官した後、郷里の奈良県吉野郡西吉野村に戻り、大阪の大学でドイツ語を講じ、戦争中のことについては一切口にしなかった。堀が回想録 『大本営参謀の情報戦記』 を公刊する直接的な動機となったのは、1986年(昭和61年)に、ある雑誌の座談会(堀は出席せず)で「台湾沖航空戦の過大戦果を戒めた堀の電報を、大本営陸軍部作戦課が握り潰したからだ」と発言したのがきっかけに堀が戦時中に携わった情報の仕事への各方面の注目が高まり、日本の敗因を情報の見地から解明しては、と勧めを受けたためである。1984年(昭和59年)春から、戦史研究家の保阪正康が堀への取材活動を始めたことも影響した。従って太平洋戦争(大東亜戦争)の回想録としては遅い1989年(平成元年)に上梓されている。なお、保阪が堀に最初に取材を申し込んだ所、堀から面会を断る手紙を受け取ったが、保阪は逆に取材意欲を燃やしてアポなしで堀宅を訪問した。その後、保阪が何度も訪問を重ねてから堀はようやく口を開き、信頼関係が出来てからは奈良や東京でしばしば会うようになった。ただし、堀は、同じ陸軍出身者の近藤が取材した際には快く会っている。

出典:wikipedia

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