シンコウキングはアイルランドで生まれ、日本で調教された競走馬である。1997年の高松宮杯を制した。半兄にエプソムダーピーを勝利したドクターデヴィアス、甥に同馬と同じく高松宮記念(高松宮杯から改称)を制したスズカフェニックスがいる。3歳となった1994年7月に福島競馬場デビュー(6着)。外国産馬なので当時は出走不可であったが既に東京優駿(日本ダービー)は終わっていた。10月に福島競馬場の未勝利戦を勝ち上がり、その後は安定したレベルで勝ち負けを繰り返し翌1995年12月のクリスマスステークス(オープン特別)を勝利した。1996年、長期休養の後スワンステークスで復帰し4着。その後中1週で富士ステークス(当時はオープン特別)を勝利し連闘(2週続けて出走すること)でマイルチャンピオンシップに出走した。かつての同馬主・同厩舎のシンコウラブリイに似たローテーションだったこともあり、穴人気(7番人気)になったが6着に敗れた。しかし、次走スプリンターズステークスでは3着と好走した。1997年は3月のマイラーズカップから始動し5着、その後阪急杯7着、シルクロードステークス3着を経て、5月の高松宮杯で7歳にして念願の初重賞をGIで制覇した。秋はスワンステークスとマイルチャンピオンシップに出走したが大敗。香港に遠征し香港国際ボウルで3着に入り、これを最後に引退した。引退後はレックススタッドで種牡馬入り。初年度からシャトル種牡馬としてニュージーランドでも種付けを行う。日本では種付け頭数が3世代で年平均40頭足らずにとどまったのに対し、ニュージーランドでは非常に人気が高く、2000年以降は日本に帰国せずに現地で種牡馬生活を送るほどであった。そして日本に戻ることのないまま、2003年に正式にニュージーランドへ輸出される。同年にはBramble Roseがニュージーランドオークスを勝ち、産駒のG1初制覇を果たしている。シャトル種牡馬時代の輸送の際に蹄葉炎を発症しており、以後は長きにわたって闘病を続けながらの種牡馬生活だった。その慢性的な蹄葉炎が悪化したため、2012年5月17日に21歳で安楽死の処置がとられた。スプリンターとして活躍した自身とは異なり、産駒は中距離からクラシックディスタンスまでこなす。母系の種牡馬にはアレッジドやシカンブルなど欧州のクラシックディスタンスに実績がある種牡馬の名を見ることが出来る。シンコウキングは、ノーザンダンサーの37.5%(2×3)と言う極端なインブリードを持っていた。サラブレッドにおいてこの様な配合は現代では稀で(他の家畜では珍しくは無い)、日本ではエプソムダービー優勝馬ストレイトディールの37.5%を持つスルガスンプジョウ位である。気性は荒く、名手・岡部幸雄以外に乗りこなせる騎手が居なかった程であった(このことから、1997年のスワンステークス・マイルチャンピオンシップでは、岡部はもう一頭のお手馬・タイキシャトルでは無くシンコウキングに騎乗している)。繁殖馬としてはシンコウキングの全妹ローズオブスズカが先述のスズカフェニックスを輩出、レディアンジェラの2×3を持つノーザンテーストが日本リーディングサイアーになるなど成功例が見られる。シンコウキングが高松宮杯を勝利した後、週刊文春で同馬が規定違反の蹄鉄である「スパイク鉄」を使用しているという写真付記事が掲載された。万一にもそれが真実であれば競走の公正を揺るがす重大なスキャンダルとなるだけに、記事が出るという第一報の段階では競馬業界の内外で話題となった。その写真では、一見すると蹄鉄に10cm程の何かが付けられているようにも見えたが、しかし、程なくそれは馬の疾走によって跳ね上がった芝の塊であったことが判明し、スパイク鉄疑惑は明確に否定された。だが、そもそもスパイク鉄のスパイクがそんなに長かったら芝の馬場でまともに走る事は困難である。センセーショナリズムに根ざした写真週刊誌業界の常ではあるが、結局のところ、この記事自体は写真を見てライターが半端な競馬知識に基づく憶測やあるいは思い付きでセンセーショナルな記事を書いた、というのが真相の様であった。
出典:wikipedia
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