プルーイット・アイゴー(Pruitt-Igoe)は、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスにあった住宅団地である。1951年にセントルイスのスラムを取り壊し、日系アメリカ人建築家ミノル・ヤマサキにより改良住宅として設計され1954年にオープン、1956年に完成した。しかし、団地自体がスラム化し犯罪の温床となるなど環境が著しく悪化、入居者が激減し、1972年に爆破解体された。同国の住宅計画史上最大の失敗であるとされている。またモダニズム建築の批判者から、同団地の爆破解体の日は「モダニズム建築の終焉の日」と位置付けられた。プルーイット・アイゴーは第二次世界大戦後の住宅団地計画の一つとして1951年に日系人建築家ミノル・ヤマサキによって設計された。団地名は第二次世界大戦で活躍したアフリカ系アメリカ人パイロット、ウェンデル・O・プルーイット(Wendell O. Pruitt)と元下院議員のウィリアム・L・アイゴー(William L. Igoe)という2名のセントルイス出身者から取られた。当初、市はこの団地計画を黒人用のプルーイット、白人用のアイゴーと2つに分けていた。しかし、こうした人種隔離は建設的でないと判断し、プルーイット・アイゴーは1つの団地として建設されることになった。セントルイスの極貧地区デ・ソト・カー(De Soto-Carr)のスラムを取り壊し、約230,000m²の敷地に11階建ての高層住宅33棟が建設された。総戸数は2,870戸を数えた。完成には5年の歳月を要した。しかし、元々周辺の環境が悪かった上、住環境を考慮しない設計から、完成から数年も経たない内に荒廃が始まった。団地の多くは空き家のままで、住民の多くは低所得者層であった。数々の再生計画も失敗に終わり、1972年3月16日、ついにセントルイス住宅局は団地を解体することになった。プルーイット・アイゴーは都市計画の失敗例として挙げられることが多い。しかしプルーイット・アイゴーの失敗の要因は多岐にわたっており複雑である。その一つには予算縮小による要因が挙げられる。例えば、当初の計画にあった庭園や児童遊園といった各種公園は費用を抑えるために建設が見送りとなった。また、エレベーターに採用されたスキップ・ストップ(Skip-Stop)と呼ばれる停止階システムは不便さを増長する結果になった。これは1階、4階、7階、10階の各階にのみエレベーターを停止させ、上下の階には階段を使わせるというものである。こうした、ローコストを追求し、「住みやすさ」を考慮しなかった設計は団地のスラム化と犯罪の増加を招き、プルーイット・アイゴーの失敗の最大の要因とされている。しかし、設計以外の要因もあった。1950年代以降、産業と人口の郊外流出によってセントルイスは凋落の一途をたどっていた。そこにベトナム戦争によるアメリカ経済の疲弊が追い討ちをかけた。こうした状況下において、ニューヨークで成功した住宅計画をそのままこの時代のセントルイスに持ちこもうとしたことも、失敗の要因であったとされている。1970年代以降、深刻化したアメリカの都市型犯罪が研究されていく過程で、犯罪を抑止するためには犯罪の原因を取り除くよりも、事前に犯罪の機会を取り除くことが効果的である考えに基づく環境犯罪学が生まれた。こうした視点でプルーイット・アイゴーの設計を振り返ると、オープンスペースと住居スペースの境界が明確化されておらず、第三者が立ち入りやすい構造であること、また、死角の多い共用スペースや外廊下の存在など、犯罪を助長させかねない構造が多数存在していたことが浮き彫りにされた。住宅としては失敗事例として名を残すこととなったがプルーイット・アイゴーだが、そこで得られた教訓は環境犯罪学などを進歩させるとともに、後年の建築設計者に重要な指針を与えることとなった。現在、プルーイット・アイゴーの跡地は空き地になっており、木と埃まみれの通路だけが残っている。再開発計画がいくつか持ち上がったが、そのいずれも実行には移されていない。理由の一つとしては、プルーイット・アイゴーの建物の基礎部分がまだ残っており、撤去に莫大な費用がかかるということが挙げられる。同地はフランシス・フォード・コッポラ監督が製作に関わった映画『コヤニスカッツィ("Koyaanisqatsi")』(ゴドフリー・レッジオ監督)の撮影に使われた。ヤマサキは後に世界貿易センタービルの設計で知られることになる。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の際に同ビルが崩落したことに関し、ここでもヤマサキの設計が問われた。しかし、設計当時とテロ当時とでは航空機技術の違いもあり、崩落は予測不可能なものであったという指摘もある。
出典:wikipedia
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