エア・フロリダ90便墜落事故(エア・フロリダ90びんついらくじこ、)は、1982年1月13日16時1分(東部標準時)ごろ、ワシントン・ナショナル空港(名称は当時のもの。1998年にロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港に改称)を激しい吹雪のなか離陸したエア・フロリダ90便が、離陸直後に氷結したポトマック川に架かる橋梁に激突・墜落した航空事故である。乗員乗客79人の内74人と橋梁上の自動車の中にいた4人の計78人が死亡、客室乗務員1人と乗客4人が救助された。水没を免れた尾翼部分にしがみついた生存者の救助を多くの人々が見守る映像は日本でも報道された。また、この事故をきっかけにエア・フロリダ社は経営が悪化し、2年後に倒産した。90便として使用されていた機体は1969年にユナイテッド航空が導入したもので(ユナイテッド航空時代の機体記号はN9050U)、1980年にエア・フロリダへ売却されていた。供用開始から13年目で、機長・副操縦士のボーイング737型の操縦経験は、いずれも3年未満であった。1982年の1月第2週は、米国東海岸地域を歴史的寒波が襲い、首都ワシントンでも数日にわたって低温が続き自動車が路上で立ち往生するなど日常生活にも支障をきたしていた。ワシントン・ナショナル空港もこの日正午の時点でようやく滑走路が使用可能となったが、再びいつ閉鎖になるかわからない状態だった。当該機および乗員は当日朝にフロリダを出発して午後1時45分にワシントンに到着し、折り返しフロリダ州タンパ経由フォートローダーデール行き90便となったが、降雪により滑走路が一時閉鎖になり1時間45分遅れとなっていた。駐機中に、高圧温水とエチレングリコール等の不凍液の混合物の噴射による、機体に降り積もった雪の除去が行われたが、その混合比率は気温によって変えなければならず、また、除氷を目的とする場合とその後の着氷防止を目的とする場合とでも混合比率が異なる。滑走路が一時的に閉鎖になったことにより除氷作業も中断がありオペレーターが交代した等で混乱し、また、混合比率を調整する噴射ノズルも当時の作業状況に適合しないものが使用されていたため正しい混合比率に調整されていなかった可能性が高い。ボーディングブリッジから離れようとした際、タグ(牽引車)がスリップして動けなかったため、乗員はエンジンを逆噴射してパワーバックで後退しようとした(航空業界においてこのような逆噴射による後退は基本的に禁止されているが、米国内では時と場合によっては許されている)。しかし、30 - 90秒間にわたり逆噴射を行ったが機体は動かず、また、地上業務を代行していたアメリカン航空の規定では、後退時に逆噴射を行うことが禁止されていることをタグのオペレータから告げられ、逆噴射の続行を断念、タグをタイヤチェーン付きのものに取り替えてようやく後退することに成功した。しかし、この逆噴射操作は雪や氷、水を巻き上げ、90便の機体のあちこちに付着させることとなった。エンジン始動時のチェックリストに際して、「アンチ・アイス(防氷装置)」の項目を副操縦士が読み上げたが、機長は "OFF" と答えている。副操縦士も何ら疑問を持った様子はなかった。ボーディングブリッジを離れてから他機とともに一列に並び順番待ちをしている間、乗員は直前機(ニューヨーク・エアDC-9)との距離を故意に短くしてタクシングを行った。前機のエンジンの排気熱により着氷を溶かすことができるとの考えであったが、これは間違いだった。機体製造者であるボーイング社のマニュアルによれば、「再氷結の危険が高いので低温下では標準より距離を大きめに取ること」とされている。天候条件や自重等から計算された、離陸時に用いるべき推力は「EPR(エンジン圧力比):2.04」であった。スロットルレバーを押し込んだ際、いつもより EPR ゲージ指針の上昇が速く、レバー操作に対しオーバーシュートしたのが異常の前兆だった。さらに副操縦士は離陸滑走を開始した直後から異常を感じ、数度にわたり「これは違う(おかしい)」と呟いている。規定どおりの EPR (この場合2.04)にセットしたわりに加速が悪く、エンジン排気温度や回転数その他のパラメータがいつもとは異なっていたためだが、これに対し機長は「今日は本当に寒い日だ」としか応じていない。すなわち、気温が低いとエンジンの効率が上がるので、いつもと違っていてもおかしくはないというニュアンスを含んでいた。事故報告書は機長が実際にそう信じていたものと推定している。加速が悪いため機首上げ操作速度 (Vr) に達するまでに通常よりおよそ 800 メートル余計に滑走を要した後に離陸したが、直後に機速が失速速度に近いことを知らせるスティックシェイカーが作動した。引いていた操縦桿を速度を回復するために少し押し戻すなどの失速解消のための試みがなされたが、推力を上げるためのスロットルレバー操作は最後まで行われなかった。上昇に必要な速度が得られない状態で次第に高度が下がっていき、ついにはポトマック川橋梁をかすめて渋滞中の自動車数台を巻き込んだ末、氷の張った川面に墜落した。墜落直前、機長は「500フィートまで上がりさえすればいいんだ…ちょっとだけ上昇したぞ…やはりダメ(失速)だ!」と叫び、副操縦士が「墜落してしまう!」と言ったのに対して「分かってる!」と答えた。直後に響いた衝撃音がボイスレコーダーの最後の記録となった。国家運輸安全委員会 (NTSB) は直接の原因として下記の点を指摘した。また、離陸直後にスティックシェイカーが作動した際に、エンジン出力を「全開」としていたなら、墜落は免れただろうと結論している。事故による機体の損傷があまりにもひどかったため、生存者はいないと思われていたが、割れた氷に6名の生存者がしがみ付いていた。しかし現場は同時刻に偶然発生した交通事故により、緊急車両が近づけないほどの交通渋滞が発生していたため、レスキュー隊の到着が遅れていた。事故から20分後に国立公園管理警察の救助ヘリコプターが駆けつけた。救助ヘリは最初に男性の乗客に命綱を渡したが、彼は残骸に引っかかっていたこともあり、勇敢にも2度にわたって自分の近くにいた女性に譲った。また2度目の救助の際、衰弱し力を失った女性が命綱から手を離してしまい、氷の上に取り残されたが、見守っていた群衆の中から2名の男性が飛び込んで支え、無事救助された。後日、このうち一人がアメリカ連邦議会予算委員会職員だったことが判明し、評判となった。一方、女性に2度も命綱を譲った男性であるが、救助ヘリが3度目に戻ってきた時には、既に力尽き、水面下に沈み二度と姿を見せなかった。結果的に生存者の救助を映した映像(腕が映っている)が生前最期の映像となった。この男性は後に引き上げられ、本件事故での唯一の水死者(他の犠牲者は衝撃での死亡)となった。命綱を譲った男性は46歳の銀行監査官アーランド・ウィリアムス (w:Arland D. Williams, Jr.) であった。アーランドにはアメリカ政府から救助ヘリの乗員2人とともに自由勲章が授与され、その後、アーランドの偉業をたたえ事故現場となった橋が "Rochambeau Bridge"(ジャン=バティスト・ド・ロシャンボーにちなんでいた)から "Arland D. Williams Jr. Memorial Bridge(アーランド・ウィリアムス・ジュニア祈念橋)" と改名された。また、他にもアーランドを祈念して命名された施設がいくつかあり、アーランドの郷里のイリノイ州には2003年にアーランドの名が付いた小学校が新設されたという。
出典:wikipedia
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