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甘利明

甘利 明(あまり あきら、1949年8月27日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(11期)、さいこう日本代表、自由民主党総務。自由民主党政務調査会長(第54代)、労働大臣(第67代)、経済産業大臣(第7・8代)、内閣府特命担当大臣(規制改革)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策)等を歴任した。戦国時代の武田氏の重臣で知られる甘利虎泰の子孫である。元衆議院議員の甘利正は父。神奈川県厚木市生まれ。神奈川県立厚木高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。1972年、ソニーに入社したが1974年に退社し、父・甘利正の秘書に転じる。1983年、正が政界引退を表明したため、代わって第37回衆議院議員総選挙に旧神奈川3区から、父の地盤を引き継いで新自由クラブ公認で出馬し、初当選。1986年、新自由クラブの解党に伴って同党の所属議員の多くが自民党に復党し、甘利も自民党に入党した。自民党入党後、、中曽根派に入会。1989年、通商産業政務次官に就任。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い神奈川13区から自民党公認で出馬。選挙区では新進党新人の冨沢篤紘に1,751票差で敗れたが、重複立候補していた比例南関東ブロックで復活した。1998年、小渕内閣で労働大臣として初入閣。同年、それまで所属していた旧渡辺派を退会し、山崎派の結成に参加。2004年、衆議院予算委員長に就任。党商工部会長や衆議院商工委員長も務めた。2005年、党政務調査会長代理に就任。2006年9月、第1次安倍内閣で経済産業大臣に任命された。組閣後の記者会見において、ロシアが8月30日に石油・天然ガス開発計画である 「サハリン2」の一部事業の中止を命じたことについて「日本側に過剰反応の面がある。ロシア側が指摘する環境破壊にどう対処するのか精査してから、反論を組み立てるべきだ」と述べた。また、日本と中国が対立している東シナ海のガス田開発の件に関しては「日本と中国は共同で(開発に)取り組む方向で一致しており、粛々と取り組みたい」と発言した。2007年8月、第1次安倍改造内閣で経済産業大臣に再任。同年9月3日、農林水産大臣・遠藤武彦の辞任を受けて、臨時代理を兼務。安倍の総裁辞任に伴う自由民主党総裁選挙においては、山崎派は福田康夫を支持する方針を決定したのに反し、劣勢が伝えられた麻生太郎への支持を表明。、福田康夫内閣でも留任した。2008年の自由民主党総裁選挙では、自由民主党幹事長であった麻生を支持し、麻生の推薦人に名を連ねる(麻生は与謝野馨ら4候補を破り、当選)。同年9月に発足した麻生内閣で内閣府特命担当大臣(規制改革)に任命され、また行政改革、公務員制度改革を担当する国務大臣も兼務した。在任中、麻生内閣が推進する公務員制度改革に対し、人事院総裁(当時)の谷公士から強い反発を受け、2009年1月30日には、麻生が本部長を務める国家公務員制度改革推進本部の第3回目の会合が予定されていたが、流会。同日の記者会見において、甘利は流会の理由を、谷が欠席したためと説明した。同年2月の山崎派総会においてこの一連の騒動に言及し、谷について「内閣に指名された役人が、テレビで政権交代にまで言及した。極めて傲岸不遜で信じられない」と強い不快感を示した。同年8月の第45回衆議院議員総選挙では、神奈川13区で民主党公認の橘秀徳に1,960票差で敗れたが、重複立候補していた比例南関東ブロックで9選。2011年6月、派閥横断型の政策集団さいこう日本を立ち上げ、代表に就任。参加者の多くは山崎派の議員であるが、町村派の松野博一や高木毅、高村派の佐藤ゆかりも参加した。同年10月、自民党広報本部長に就任。2012年自由民主党総裁選挙では、同じ山崎派の石原伸晃が出馬する中、安倍晋三の選挙責任者を務めた。安倍の総裁再任後は自由民主党政務調査会長に就任した(初の党三役入り)。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、神奈川13区で10選。選挙後、派閥を退会、無派閥となった。選挙後に発足した第2次安倍内閣では内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に任命された。併せて経済再生担当、社会保障・税一体改革担当の国務大臣を務める。また第2次安倍内閣が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)締結交渉への参加を決定したことを受けてTPP担当国務大臣に就任した。2013年12月2日に体調不良のため検査入院。5日の記者会見で、「早期の舌癌」であることを公表。これを理由に首相に辞任を申し出たが、慰留されたとして続投と休養を表明。翌週に手術を受け、26日に公務に復帰した。同年12月の第47回衆議院議員総選挙では、神奈川13区で11選。その後第3次安倍内閣においても内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に再任した。2016年1月28日午後5時から開かれた記者会見の中で、週刊文春が報じた金銭授受疑惑の責任を取って内閣府特命担当大臣(経済財政政策)を辞任すると表明した。これ以降、「睡眠障害」を理由に第190回国会を閉会まで欠席。閉会直後の6月6日「主治医の許可が下りたので少しずつ」と人前に姿を見せた。2004年、政治家の年金未納問題が注目された際に国民年金保険料の未納が発覚したと報じられた(1986年4月から15年11か月間)。甘利は、議員年金と国民年金の両方に入らなければならないことに気付かなかったとして陳謝しつつも、社会保険庁から督促が来なかったとも述べている。2009年1月、甘利の資金管理団体「甘山会」が、勤務するスタッフに対する労働保険に未加入のまま長期間放置していたことが発覚したと報じられた。労働保険の中でも労働者災害補償保険は、雇用者がいれば加入義務があると労働者災害補償保険法により定められており、未加入でスタッフを雇用するのは違法行為である。甘利の事務所は「アルバイトは加入の必要がないと誤解していた」と説明しており、「甘山会」は2009年1月に労働保険に加入し、2006年度分まで遡及して支払った。なお、2004年12月頃の時点で、自由民主党本部は関係する各団体に対し社会保険や労働保険に適切に加入するよう指導した、と指摘されている。また、甘利は労働大臣経験者でもある。2016年1月、千葉県の建設会社「薩摩興業」が2013年に道路建設をめぐり甘利側に都市再生機構(UR)に対する口利きを依頼し、見返りに総額1200万円を現金や接待で甘利側に提供したと、週刊文春が報じた。甘利は「社長が大臣室を訪問したのは事実」と認めたが「何をしたかは記憶が曖昧だ」と述べた。同月28日の記者会見で、薩摩興業側から2013年11月に大臣室で50万円、2014年2月には大和市の地元事務所で50万円を2回に渡り受け取ったことを認め、「秘書には政治資金収支報告書に記載するよう指示したが記載されなかった」と述べ、500万円については「秘書に政治資金収支報告書へ記載するよう指示したが実際には200万しか記載せず、300万は秘書Aが無断で私的流用していた」と述べた。この報道の影響で、1月28日に行われた会見で引責辞任を発表した。またこれ以降「睡眠障害」を理由に第190回国会を閉会まで欠席。2016年3月15日、弁護士グループ「社会文化法律センター」が、また4月8日には「政治資金オンブズマン」が、それぞれ、東京地方検察庁に甘利とその元秘書をあっせん利得処罰法違反で刑事告発した。これに対し、甘利の事務所は容疑を否認している。特別捜査部は5月、全員について嫌疑不十分で不起訴処分。両者は検察審査会への申し立てを行なったが、甘利については不起訴相当、秘書については不起訴不当。この不当議決を受けての再捜査の結果も嫌疑不十分で不起訴とされた。8月20日、告発可能な全ての事実について公訴時効成立。不起訴処分を受け政治活動を再開する記者会見を開いたものの、詳細に説明すると言っておきながら行っておらず同年9月時点では、政治家として説明責任を果たしていない。

出典:wikipedia

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