前園 真聖(まえぞの まさきよ、1973年10月29日 - )は、鹿児島県薩摩郡東郷町(現・薩摩川内市)出身の元サッカー選手。現在はサッカーコメンテーター・タレント。所属するマネジメント事務所サニーサイドアップ。日本が28年ぶりに出場した1996年アトランタオリンピックの予選突破の最大の功労者であり、本大会でブラジルに勝利した「マイアミの奇跡」のU-23サッカー日本代表キャプテン。4歳年上の兄の影響で小学校に入る前からサッカーに親しみ、東郷小学校2年生のときに「東郷少年サッカー団」に加入。5年生時に県大会ベスト4。ビデオがきっかけでディエゴ・マラドーナに憧れ、繰り返しビデオを見てはドリブルの練習に明け暮れる毎日を送る。進学した東郷中学校にはサッカー部が無かったため、当初は陸上部に所属。2年生の3学期にサッカー部が創部され、3年生のころには県選抜にも選ばれる。鹿児島実高では1年生時からレギュラーに定着、高校選手権に3年連続で出場。2年生時の69回大会では準優勝を果たした。高校時代の同学年には遠藤三兄弟の長男・遠藤拓哉や藤山竜仁、2学年下には後にアトランタオリンピック日本代表としてもチームメイトになる城彰二と遠藤彰弘がいた。1992年、Jリーグの横浜フリューゲルス(横浜F)に加入。1年目は加茂周の目指すゾーンプレスサッカーへの適応に戸惑い、持ち味を出せないままサテライトチームで1年を過ごす。Jリーグ初年度の開幕を控えた1993年前半にアルゼンチンのヒムナシア・ラ・プラタへ2ヵ月間短期留学。ここで現地選手のハングリー精神に驚かされ、カルチャーショックを受けた前園は「俺、間違ってたよ。キツかったけど、おかげで完全に考え方が変わったね」と別人になって帰ってきた。1993年6月5日のJリーグ・ヴェルディ川崎戦、延長後半4分から途中出場して公式戦デビューを果たす。1993年のJリーグでは24試合に出場して2得点、横浜Fが優勝した第73回天皇杯でも決勝戦に先発出場した。1994年、1995年は主軸として活躍し、初めて1シーズン制を採用した1996年のJリーグではブラジルトリオ(ジーニョ、サンパイオ、エバイール)や山口素弘、三浦淳宏らと共に躍動した結果、開幕から8連勝を飾る。前半戦を首位で折り返し、初のリーグ優勝のチャンスだったが、後半戦は勢いを持続できず、惜しくも3位に終わった。ただ、前園はこのシーズンのJリーグベストイレブンに選出された。1996年6月にはスペインからセビージャの関係者が日本を訪れ、横浜Fに前園獲得を打診していた。1996年にU-23日本代表主将としてアトランタオリンピックを経験し、その前からもっていた海外志向は更に強くなっていた。1996年シーズン後の契約更改では、スペインへの移籍を念頭に置き、日本サッカー界で初めてとなる代理人を通しての契約交渉に臨んだ。先例がなかったこともあり、当時は代理人を立てたことにバッシングも受けた。しかし横浜F側は、移籍金満額(3億5000万円)が支払われる場合にのみ海外移籍を認めるという姿勢をあくまで崩さず、交渉は行き詰まった。セビージャ以外にも複数のクラブが横浜Fに接触していたが、それらは前園本人に一切伝えられてこなかったことも明らかになり、前園はクラブへの不信を募らせていった。「フリューゲルスに残ることはないと思ってたし、ましてやJリーグの他のチームへ行くこともまったく考えてなかった」 が、三浦知良の国外移籍を容認した実績があるヴェルディ川崎から獲得希望があり、移籍交渉期限最終日である1997年1月31日にV川崎への移籍が発表された。V川崎が横浜Fに支払った移籍金は当時Jリーグ最高額の推定3億5千万円と報じられたが、サッカーライターの戸塚啓によれば実際はクラブ間の交渉により大幅な減額があったため2億円から2億5000万円ほどに落ち着いたとされる。前園は移籍記者会見において、V川崎が国外移籍を容認したことを移籍理由の一つに挙げた。V川崎新監督の加藤久は日本サッカー協会(JFA)強化委員長時代にオリンピック代表チームをサポートしたことがあり、以前より前園のことをよく知る人物だった。ヴェルディ川崎は1997年開幕から不振が続き、1stステージ途中に加藤久は監督を解任された。前園のプレーも精彩を欠き、次第に先発メンバーから外れ、途中出場の試合が増えていった。夢だったスペイン移籍が叶わなかったことにより気持ちが切れてしまい、精神的な不調がプレー全体に悪影響を及ぼしていたと前園はこの時期の不振について振り返る。当時は移籍騒動のために人間不信にも陥ったという。1998年10月、3ヵ月間の期限付き移籍でブラジル・サンパウロ州の名門クラブ、サントスFCに加入する。元々はネルシーニョ率いるサンパウロFCへの移籍話が進んでいたが、ネルシーニョが解任されたため頓挫し、代わりにエメルソン・レオンが監督を務めるサントスへの移籍が決まった。10月18日、ブラジル全国選手権のポルトゥゲーザ戦に65分から交代で初出場、直後の66分に初ゴールを決めた。しかし、その後は出場試合数・時間は少なく、公式戦4試合出場1得点 にとどまったが、前園本人はサントス時代について「フルで出た試合はひとつもなかったけど、ベンチにいてもすごくワクワクしてた。サッカーをやってる、という充実感があった」 と振り返る。1999年も期限付き移籍期間を延長してサントスでプレーする予定だったが、菅原智の獲得を決めたサントスは「日本人は二人もいらない」として前園との契約を見送った。1月25日、ゴイアス州の強豪クラブ、ゴイアスECへの期限付き移籍が発表される。ゴイアスでは3月3日のデビュー戦で先発フル出場、1アシストを記録。移籍当初はコンスタントに出場を重ねていたが、アウジョス監督のチーム構想に合わず次第に出場機会を失い、契約満了前に日本に帰国した。その後、移籍を前提としてポルトガルのヴィトーリア・ギマランイス、ギリシャのPAOKサロニカ に練習参加したが、結局本契約には至らなかった。ギマランイスではV川崎が求めていた1億円の移籍金が交渉のネックになったという。2000年、加藤久監督に請われ、この年からJ2に降格した湘南ベルマーレに期限付き移籍し、Jリーグ復帰。湘南のJ1再昇格の切り札として期待されたがチームは8位に終わり、再昇格はならなかった。しかし「チームとしても僕個人も結果を出すことはできなかったけど、40試合近く試合をやったことでコンディションを取り戻すことができました。あれがなければ選手寿命はもっと短くなっていたと思います」と引退後に振り返るシーズンになった。2001年、保有権を持つJ1・東京ヴェルディ1969に3年ぶりに復帰。7月に松木安太郎が解任されて小見幸隆が監督になると、前園はそれまでより重用されるようになった。9月15日、2ndステージ第5節横浜F・マリノス戦の前半35分、ゴール前への飛び出しから先制点を奪った際、横浜FMのGK川口能活との接触を避けようと引いた左足がピッチに引っ掛かり足首を骨折。長期離脱し、そのまま2001年シーズンを終え、結果的にこれがJリーグ最後の試合出場となった。2002年7月、前園、西田吉洋、石塚啓次の3選手がロリ監督の構想外となったため戦力外通告を受けたことがメディアに報じられた。スポーツ新聞には、以前より3選手の練習態度に不満を持っていたロリが彼らに改善を求めたものの聞き入れられず戦力外になったという東京V関係者の談話が掲載された。しかしこの処遇について前園は「新聞にはそうやって出てましたけど、僕からすれば明確な理由も納得できる説明もなかったですよ。練習態度と言われても、僕はリハビリ中だから、ロリが監督になってからずっと練習に参加できていたわけじゃない。それなのに、『もう使うつもりはないから、離れて練習してくれ』っていきなり言われて、3人で練習ですよ。(…)いったい何が問題だったのか、いまでもまったく分からない」と反駁する。東京V退団後、前園は知人を通じて韓国・Kリーグのクラブへの移籍を模索した。最初に練習に参加した城南一和天馬では「体力的な問題」から契約を見送られたが、次の安養LGチータースでは趙廣來監督に評価されて契約に至った。安養ではリーグ開幕戦から10試合連続先発出場を果たしたが、シーズン途中以降はメンバーから外れるようになった。2004年はKリーグの新クラブ・仁川ユナイテッドFCと契約。前園はカップ戦を中心に起用され、8月1日のFCソウル戦では韓国における公式戦初ゴールをPKで決め、この試合の決勝点になった。左足薬指の骨折により3ヵ月以上戦線離脱し、11月に入ってから復帰。2004年末で契約が解除された。2005年にセルビア・モンテネグロ1部リーグのOFKベオグラードに1ヵ月間練習参加したものの本契約には至らず、5月19日に引退を表明。1994年1月、西野朗監督率いるU-21日本代表(1996年のアトランタオリンピック出場を目指すチーム)の第1回合宿に招集される。1995年1月のオーストラリア国際トーナメント参加時に西野監督から指名されキャプテンとなる。前園はそれまでのサッカー人生でキャプテンを任された経験はなく、西野も彼の性格はリーダー向きではないと分析していたものの、時として一人よがりなプレーに走りがちな前園をあえてキャプテンに任命することによって彼にチーム全体を意識したプレーをさせることを意図したと語る。前園はすでにA代表にも招集され、2つの代表チームを掛け持ちしていたが、1995年3月に前園本人の意向も汲み取った上でオリンピック代表を優先する方針が決まる。1995年5~6月にタイと日本で行われたアトランタオリンピック・アジア一次予選に出場。日本は4戦全勝で翌年の最終予選進出を決めた。1996年3月、マレーシアで行われたアトランタオリンピック・アジア最終予選に出場。3月24日、準決勝サウジアラビア戦で2ゴールを挙げ勝利に貢献、日本を1968年メキシコシティ大会以来、7大会(28年)ぶりのオリンピック本大会出場権獲得に導いた。同年7月、アメリカ合衆国で開催されたアトランタオリンピック本大会に出場。日本はグループリーグ初戦で金メダル候補のブラジルから大金星を挙げ(「マイアミの奇跡」)、3戦目のハンガリー戦では前園が2ゴールを決めて3-2で勝利した。日本はナイジェリア、ブラジルと勝ち点6で並んだが、得失点差で決勝トーナメント進出を逃した。日本代表監督ファルカンに抜擢され、1994年5月22日、キリンカップのオーストラリア戦で国際Aマッチデビュー。同年10月の広島アジア大会でも全試合にフル出場した。1996年8月25日、オリンピック代表での活動を終えてフル代表復帰初戦のウルグアイ戦でフリーキックから日本代表初ゴールを決める。12月にはアジアカップUAE大会に出場、日本はベスト8(準々決勝敗退)に終わった。1997年、移籍騒動の影響で精彩を欠くようになり、3月のワールドカップ・フランス大会アジア一次予選オマーンラウンドでの招集・出場選手登録(出場無し)を最後に日本代表から外れた。日本代表での最後の出場は1997年3月15日にバンコクで行われたタイとの親善試合(1-3で日本が敗北)だった。現在はサッカー解説者としてテレビ東京、日本テレビの高校サッカー選手権中継などに出演する一方、少年サッカーの普及促進活動などにも参加している。2007年からはJFAアンバサダーとしても活躍している。また、2006年8月にはサッカー普及活動の一環として、幼稚園児から小学生までを対象とした「ZONOサッカースクール」を立ち上げた。2008年には中田英寿の立ち上げた元サッカー選手で構成するサッカーチーム「TAKE ACTION FC.」の一員となっている。2009年にはビーチサッカー日本代表に選出され、10月に行われたとの親善試合に2試合出場した。2009 FIFAビーチサッカーワールドカップ・アジア予選で優勝 本大会にも出場し、サッカーとは別の形でワールドカップ出場を果たした。2012年、JFA 公認S級コーチライセンスを取得した。2013年10月13日に、酒に酔ってタクシー運転手に暴行を加えた容疑で逮捕された。10月14日に処分保留で釈放され、同日謝罪会見を行い、テレビ東京系『neo sports』などテレビ番組の出演自粛を表明した。10月15日、『JFAこころのプロジェクト』の活動停止処分を受けた。11月15日、出身地である鹿児島県薩摩川内市のスポーツ大使を辞任した。2014年のフジテレビ系『ワイドナショー』への出演を契機(エピソードの項参照)に、タレントとしても活動している。2016年、「ベストフンドシストアワード2015」特別賞を受賞。2月末には薩摩川内市が観光大使に「再指名」した(スポーツ大使を一度辞任したため)。「ワイドナショー」での取材活動をきっかけに、同年より開幕する男子バスケットボールリーグ「Bリーグ」特命広報部長に就任。191||34||22||8||13||1||226||4338||11||2||0||3||2||43||1344||1||||||||||||その他の公式戦オールスター戦ハットトリックオリンピック日本代表日本代表|-!通算横浜フリューゲルスゴイアスEC
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