LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

N-1

N-1(ロシア語:)は、月にソ連人の宇宙飛行士を送るように造られたソビエト連邦のロケットである。全長、約100メートル。アメリカのサターンVロケットに匹敵する大きなロケットで、低軌道に95トンものペイロードを投入できるよう設計された。しかしながら、4回の試験打ち上げすべてに失敗し、実用化のめどが立たないまま1974年に計画は放棄された。N-1の開発は月・火星への有人宇宙飛行、宇宙ステーション、大型軍事衛星の打上げのために1956年から始まった。米国が1961年に有人月面着陸の目的を発表した後1964年に、N-1はこの目的に転換した。しかし、予算が十分に供給されなかったため、計画は成功に至らなかった。他のソ連製宇宙ロケット同様、小型のロケットエンジンを多数束ねる事で大きな推力を得るクラスターロケット方式を採っているが、N-1の第一段ではその数は30基にも及び、それらを同期制御する事が技術上の最大の課題であった。現在の技術をもってしても、それだけの数のロケットエンジンの同期制御はきわめて困難である。N-1では多数のエンジンを制御するためにKORDシステムが開発された。ひとつのエンジンが停止すると自動的に中心軸を挟んで反対側のエンジンを停止してバランスをとると共に、他のエンジンの燃焼時間を延長して性能を確保する制御システムで、4つのエンジンが停止しても対応できるようになっていた。さらに外周の24基のエンジンの一部は機体の鉛直軸に対して右や左に軸をずらし、角度をつけて装着された。これらのエンジンの出力を調整することでロール回転のコントロールも可能であった。ただし3号機(N-1/6L)ではこのシステムでも制御しきれないロール回転が発生したため、後にステアリングエンジンを追加した。テストのための資金不足と技術的困難のため、四回行われたテスト飛行のうち、N-1が成功したことは一度もなかった。テスト飛行は全て第一段の分離の前で失敗した。最も長い飛行は107秒で、第一段の分離直前で爆発した。テスト飛行は、最初の2回が1969年、3回目は1971年で、最後の飛行は1972年に行われた。1974年5月にソ連の有人月着陸計画(L3計画)は中止され、これに続いてN-1の開発も同年8月に放棄された。更なるテスト飛行準備に備えて用意していた2機のN-1Fは廃棄され、残骸は避難所及び貯蔵小屋として使用された。N-1F用のエンジンであるNK-33は破棄されるはずであったが、放射性廃棄物のカバーをかけて破棄されずに残っていたものが発見され、試運転の結果、まだ動くのみならず、良好な性能を示したため、2005年民間のロケット開発で使用されることになった。このエンジンを再利用する計画は予定よりも遅れたが、2013年にこのエンジン2基を1段に使用するアンタレスロケットが打ち上げられ、商業利用が開始された。1961年5月にアメリカは月の有人着陸計画を発表した時、セルゲイ・コロリョフは現在ソユーズとして知られる新型の宇宙船を基にした月計画を提案した。これはソユーズと月着陸船やエンジンや燃料を複数回に分けて打ち上げ、軌道上で組み合わせるという案だった。この方法は宇宙船の打ち上げに必要なロケットが1度に打ち上げるよりも小型ですむという事だった。仮にこの方法を採用したとしても重すぎて既存のソビエトのロケットの打ち上げ能力では及ばなかった。コロリョフは50トンのペイロードを打ち上げる為に最終的に製造されたN-1の設計よりもはるかに小型のN-1ロケットの開発を打診した。動力源はソビエトのロケットエンジンの設計の大半を受け持っていたヴァレンティン・グルシュコが新設計したUDMHとNOを推進剤とするRD-270だった。この混ぜるだけで爆発的に燃焼するハイパーゴリック推進剤はグルシュコが設計した既存の複数のICBMに幅広く使用されていたエンジンの様式だった。しかしながらこのUDMH/NO推進剤の組み合わせはケロシン/液体酸素よりも比推力が低かったのでコロリョフはハイパーゴリック推進剤に替わる別の現実的な高性能の設計が必要になると感じた。更に重要なことにコロリョフは有人宇宙船の安全性を高める為に無害な推進剤の必要性を感じていた。この意見の違いはグルシュコとコロリョフの仲違いに発展した。両者の確執の原因はそれだけではなく、過去にグルシュコの嘘の告発によりコロリョフが強制収容所送りになったことや、グルシュコがコロリョフに比べ不遇な扱いをされていると感じていたことなどが背景にある。1962年に行き詰まりを打開する為に開催された会議でコロリョフの意見が合意された。グルシュコはこのような設計に取り組む事に反対したのでコロリョフは最終的に諦めOKB-276のジェットエンジンの設計者であるニコライ・クズネチョフに支援してもらう事を決めた。クズネチョフはロケットエンジンの設計経験が乏しくNK-15として知られる非常に小型のエンジンでいくつかの高度に応じて調整された派生型が計画された。必要な推力を生み出す為に複数のNK-15を1段目の周囲に束ねて使用する事が検討された。エンジンの輪の内側は開かれる予定でブースター段の上部付近に設置された吸気口から空気を送る予定だった。空気は燃料過多の排気と混合され燃焼することで推力を増強する仕掛けだった。環状に多くのロケットエンジンのノズルを配置するN-1の一段目はトロイダル・エアロスパイクエンジンシステムを形成していた。より一般的なエアロスパイクも同様に研究中だった。燃料と酸化剤を束ねられたロケットエンジンへ供給するために複雑なポンプを必要とした。それにより壊れやすくなり打ち上げ失敗の要因となった。さらにN-1のバイコヌール打ち上げ基地は内陸部にあるため大型の船舶で輸送することが出来ないので小分けにして鉄道で運び、現地で再組み立てした。その結果複雑化して(推進剤の供給系の配管とタービンに起因する)破壊的な振動と同様に排気の流体力学的な問題(機体のロール軸の傾きを引き起こしたり真空キャビテーションや他の問題)が打ち上げ前に発見されず解決されなかった。それらの技術的な困難を順番に解決する為の資金が不足していたことによりN-1は全ての試験打ち上げに失敗した。12回の試験計画の中で4回の無人飛行計画は全て1段目を分離する前に失敗に終わった。もっとも長い飛行は最後に発射された107秒で分離の直前だった。打ち上げ試験は1969年から1971年に実施され1972年に終了した。月面有人着陸のN-1F計画が中止されてからアメリカのスカイラブに対抗する宇宙ステーションの打ち上げにロケットを使用する事が期待された。皮肉なことにグルシュコによって計画は置き換えられることにより1974年に終了した。2機のN-1Fは当時打ち上げ準備段階だったが中止された。計画は大型のプロトンロケットのようなハイパーゴリック推進剤を使用した"ヴァルカン"という概念で、1976年にエネルギア/ブラン計画が開始されるまで続いていた。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。