P-2は、アメリカ合衆国のロッキード社が製作した対潜哨戒機である。アメリカ軍における愛称はネプチューン(Neptune:ローマ神話に登場する海神ネプトゥヌス)アメリカ軍では1947年から1978年まで哨戒爆撃機と対潜哨戒機(ASW)として使用された他、各国軍隊に採用されたベストセラー機でもあった。主に海軍で使用されていたが、大型陸上機であり、基本的には空母からの離着艦は行わない。ただし、少数機が暫定的な艦上核爆撃機としてMk.1核爆弾搭載を想定し、空母上から運用されていたことがあった(離艦はJATOを使って行い、着艦は不可能なため陸上基地に着陸するか、海上に不時着水することになっていた)第二次世界大戦中に開発が開始された。1943年2月にアメリカ海軍がベガ社にPVベンチュラ/ハープーンを置き換えるための陸上対潜哨戒機の開発要求を出した。この要求に応えて、ベガ社は1941年頃から研究を行っていたV146案を提出した。なお、1943年11月30日にベガ社はロッキード社に吸収されている。V146案は1944年4月4日にXP2V-1として試作機・2機の発注が行われた。対潜哨戒機の重要な要求点は製造と維持の容易さであった。試作機は1945年に初飛行、1946年から量産され、1947年に海軍での運用が開始された。なお、1962年からは名称整理に伴い、P-2に改称された。ベトナム戦争でその陳腐化があらわになると、アメリカ海軍はじめオーストラリア、カナダ、オランダではP-3A「オライオン」が導入されるようになった。アメリカ軍では1970年代まで運用していたが、1978年に引退した。他の国でも1980年代には後継機を導入するようになって順次引退したが、空中消火用の飛行機として運用している国もある。1954年(昭和29年)7月1日に保安庁警備隊から改編発足した海上自衛隊は、当初アメリカ海軍から航空機の供与を受けたが、そのほとんどが第二次世界大戦中に使用され、アメリカで第一線を退いた中古機であり、哨戒機も例外ではなかった。同年12月にTBMが10機、1955年(昭和30年)に4機、1956年(昭和31年)に6機の計20機が供与され、PV-2も1955年1月に17機が供与されたが、何れも性能は陳腐化しているうえ、米軍機を知らない隊員には扱いにくく、整備にも大変な労力を費やし、飛行させるのが手一杯という状況であった。もっとも、米軍も日本が哨戒能力を高めることを望んでおり、いわば教材として与えられたに近かった。1955年(昭和30年)9月、当時最新鋭のP2V-7がMSA協定により16機が供与されることになり、これを7回に分けて米本国で受領し、訓練を受けた後、日本に空輸することになった。1955年(昭和30年)10月にP2V-7要員の第一陣が渡米し訓練を受けたのち、1956年(昭和31年)3月にP2V-7を受領、アラメダ~バーバースポイント~クェゼリン~グアム~日本のコースでフェリーを行い、3月7日に羽田空港に到着した。この機体が海上自衛隊にとって事実上初の実用対潜哨戒機となった。当時岩国基地に所在していた駐日米海軍哨戒航空隊の使用機でさえP2V-5を使用しており、そのため米海軍のVP搭乗員が見学に来たというエピソードが残されている。海自はP2V-7の愛称として、『おおわし』と名づけた。P2V-7の16機のフェリーは6次にわたって行われ、最終号機は1958年(昭和33年)8月に日本に到着している。1957年(昭和32年)には米軍の供与(現地調達)と言う形式で、川崎航空機(現川崎重工)でのライセンス生産が決定し、1965年(昭和40年)まで48機がノックダウン生産及びライセンス生産され、対潜航空隊(VP航空隊)等に配属された。1957年(昭和32年)から、米軍から新造供与されたグラマンS2F-1 60機と共に哨戒の任務につき、1980年(昭和55年)2月に引退した。海上自衛隊はP2V-7の後継として、1966年(昭和41年)にP2V-7 4637号機を改造してP-2Jの開発を行い、P-2J試作第1号機(4701号機)として各種試験を行い量産型P-2Jの母体となった。P-2Jは、主エンジンをGEのターボプロップエンジンに、補助エンジンをIHIのJ3エンジンに換装して1969年(昭和44年)から量産が開始され、1994年(平成6年)まで運用された。中型クラスのレシプロエンジン双発プロペラ機であったが、補助推進機関としてターボジェットエンジン2基を搭載している。機内には対潜機器が並べられ、ノーズからコックピットの足元までガラス張りで、優良な視界が確保されている。(P-2H)
出典:wikipedia
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